【短編小説】リープラブ[SF/恋愛]
目が覚めると、知らない部屋の天井が目に飛び込んできた。――ここはどこ?寝ぼけた頭で考えるが、見覚えのない木目の天井が、その疑問に答えてくれるはずもない。起き上がり、布団の周りを見渡すと、畳の敷かれた和室だった。壁には古びたカレンダーが掛けられている。日付は「昭和35年6月」。冗談だろう、と思いながらも、どこかで「またか」と感じる自分がいた。
恐る恐る襖を開けると、廊下の先から台所の音が聞こえてくる。コンロの上でヤカンがシュンシュンと蒸気を立てていた。すると、ふいに背後から声がした。
「綾音?」
振り向くと、そこには翔太が立っていた。乱れた髪に、よれた浴衣。どうやら彼も今、目を覚ましたばかりのようだった。
「翔太……ここって……」
「うん、たぶん昭和だ」
翔太の声は落ち着いていた。まるでこの異様な状況が当然であるかのように。
「また……?」
「うん、まただ」
この奇妙な「現象」はこれで何度目だろう。ある日突然、何の前触れもなく時代が変わる。そして二人だけが、その記憶を残したまま次の世界に放り出されるのだ。
最初は混乱し、助けを求めたこともあった。だが、どれだけ周囲に訴えても「頭がおかしい」と笑われるか、気味悪がられて距離を置かれるだけだった。
「どうする?」
翔太の問いに、綾音は少し考えた。どんな時代に飛ばされても、結局は「生きていくしかない」のだ。
「とりあえず……お茶でも飲まない?」
綾音は台所のヤカンを指さした。こんな状況でも、翔太がそばにいるだけで、不思議と心は落ち着いていた。
「なんか、意外と落ち着いてるね」翔太が湯飲みを手に取りながら言った。「うん、もう慣れちゃったのかも」綾音は苦笑しながら、湯気の立つお茶を一口すする。ほんのり渋みのある香りが広がり、張り詰めた気持ちが少し和らいだ。
「でも……今度は昭和か」翔太は窓の外に目を向けた。通りを歩く人々は、紺色の学生服や、膝丈のスカートを着た女学生ばかり。看板には「ラムネ」や「駄菓子」といった懐かしい言葉が並んでいた。「今度の世界では、どんなふうに生きるんだろうね」綾音は苦笑しながら言ったが、内心は不安だった。これまで過ごした世界では、何度も仕事や暮らしを一から始めてきた。仲良くなった人たちとは突然の「リセット」で別れを告げることになる。そのたびに、心にぽっかりと穴が開く。
「綾音」翔太が真剣な顔で口を開いた。「今度こそ、ずっと一緒にいよう。俺がちゃんと守るから」「……ありがとう」綾音は微笑みながら答えた。けれど、「ずっと一緒にいる」なんて言葉には、もう期待できないとも思っていた。「それより、仕事とか見つけないとね」気を取り直すように綾音が言うと、翔太も頷いた。
「まずはこの家が誰のものか確認しないとな」「だね」二人は立ち上がり、再び外の世界へと足を踏み出した。扉を開けた先に広がるのは、まるで映画のワンシーンのような昭和の街並み。路地に飛び交う子供たちの声、木造の商店から漏れるラジオの音、路面電車が響かせる金属音――懐かしさと不安が入り混じる光景だった。「さ、行こう」翔太が綾音の手を握った。彼の手の温もりだけが、確かなものとして綾音の心に残った。
昭和の暮らしにも、二人は次第に馴染んでいった。翔太は近くの工場で働き、綾音は商店街の薬局で店番の手伝いをしていた。忙しいながらも、どこか穏やかな日々。昭和の人々は親切で、近所の子供たちがしょっちゅう二人の家に遊びに来るほどだった。「綾音お姉ちゃん、またラムネ買ってきたよ!」「今日は何して遊ぶ?」そんな子供たちの声に、綾音は笑顔で応える。名前も知らない子供たちだったが、彼らと過ごす時間は、心を満たしてくれた。
「このまま、ずっとこの時代で暮らせたらいいのに……」ある晩、そう漏らした綾音に、翔太は「今度こそそうなるといいね」と優しく微笑んだ。だが、その穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある日の夜、町を包むように白い靄が広がり始めた。最初は「ただの霧」だと軽く考えていたが、次第に視界がどんどん霞み、綾音の周囲から音が消えていった。子供たちの声も、商店街のざわめきも、すべてが遠のいていく。「翔太! 翔太、どこ?」必死に叫んだが、声は空に吸い込まれるように消え、視界は次第に真っ白に染まった。綾音の心に浮かんだのは、数時間前に「ずっと一緒にいたい」と言った翔太の言葉。「また……離れちゃうの?」綾音は涙をこらえきれなかった。
そして、白い霧が消えた次の瞬間、彼女は別の世界に立っていた。見上げると、目に飛び込んできたのは巨大な城門。周囲には着物姿の人々が忙しそうに行き交い、侍らしき男たちが刀を携えて歩いていた。「戦国……時代?」再び始まる、見知らぬ世界での生活。綾音は、翔太の姿を探して駆け出した。
綾音は城下町を駆け回った。通りを行き交う人々の目には、不審な女が迷い込んだように映ったのだろう。冷たい視線が背中に突き刺さる。「翔太……どこにいるの……」焦る気持ちとは裏腹に、見知らぬ世界の広さが綾音を押しつぶしそうだった。ようやく翔太の姿を見つけたのは、町外れの寺だった。「綾音!」翔太が駆け寄り、力強く抱きしめる。彼もまた、綾音を必死で探し回っていたのだという。「よかった……無事で……」翔太の声が震えていた。それが、綾音の心を締め付ける。
「ねぇ……こんなに頑張っても、どうせまたリセットされちゃうのかな……」その言葉に、翔太はわずかに表情を曇らせたが、すぐに強い口調で言った。「大丈夫。今度は絶対に君を守るから」それからしばらく、二人は戦国の暮らしに身を馴染ませることにした。翔太は寺の修繕を手伝い、綾音は城下の農家で働き始めた。人々は最初こそ警戒していたが、二人の真面目な働きぶりに次第に打ち解けていった。だが、平穏な日々はまたしても長くは続かなかった。ある日、城下町で火事が起こった。火の手は一気に広がり、綾音が働く農家の近くまで迫ってきた。避難しようとしたそのとき、近所の子供がまだ家の中に取り残されていると知らされる。「私が行く!」そう叫び、綾音は火の中へ飛び込んだ。煙が渦巻く中、ようやく子供の姿を見つけ、腕に抱えて飛び出した瞬間――頭上から焼け落ちる梁が降ってきた。
「危ない!」その声と同時に、翔太が飛び込んできて、綾音をかばうように押し倒した。――ゴォォォン……気がついたとき、翔太が自分の上に覆いかぶさっていた。「翔太!」「……間に合った……よかった……」かすれた声でそう呟く翔太の顔は煤に汚れていたが、微笑みが浮かんでいた。「次の世界では、もっと君を守るから」その言葉は、綾音の心に深く刻まれた。
目を覚ました綾音は、まぶしい白い光に目を細めた。「……ここは?」見上げると、天井は滑らかな金属製で、青白い光が等間隔に並んでいた。ベッドのような台の上に寝かされ、体には透明な管が繋がれている。機械音が響く中、ゆっくりと体を起こすと、ガラス張りの窓が目に入った。そこに映るのは――地球。「……宇宙?」頭が混乱する中、扉が開いた。
「綾音!」翔太が駆け寄ってきた。綾音は安心と驚きが入り混じったまま、その腕に飛び込んだ。「無事でよかった……」翔太の声は安堵に震えていた。後で聞いた話によると、二人は「宇宙ステーション」の医療区画に運ばれ、保護されていたらしい。この世界では人類は地球を離れ、宇宙空間で暮らしているという。「記憶があるのは、やっぱり俺たちだけみたいだな」翔太は苦笑した。
二人はステーション内で仕事を探し、整備士として働くことになった。機械をいじるのが得意な翔太はすぐに馴染み、綾音は主に点検業務を任された。「ねぇ翔太、次はどんな世界になるんだろうね」整備道具を手にしながら綾音がふとつぶやいた。「次の世界のことなんか考えるなよ。今は今だろ?」そう言いながらも、翔太の顔には無理をしている様子がうかがえた。二人だけが何度も記憶を引き継ぎ、すべてをリセットされる運命――その重圧は、翔太の心にも影を落としていた。「どうして、こんなことになったんだろうね……」綾音は、はるか遠くに輝く地球を眺めながら、小さくつぶやいた。
「どうして……こんなことになったんだろうね」綾音の言葉に、翔太はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。「もしかすると、俺たちにしかできない何かがあるのかもしれない」「……何か?」「うん。こんなふうに記憶が続いてるのって、絶対に意味があるはずだろ?」そう言いながら翔太は笑ってみせたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
数日後、翔太は整備のために宇宙船の外へ出る作業に参加した。「気をつけてね」「大丈夫、すぐ戻るよ」そう言って宇宙服に身を包んだ翔太は、他の作業員と共にエアロックから宇宙空間へと出て行った。ところが、その日の作業中にトラブルが発生した。翔太のいる区画の通信が途絶え、宇宙船の一部が損傷して酸素が漏れ出しているという警報が鳴った。「翔太は? 翔太は無事なの!?」綾音は慌てて司令室へ駆け込んだ。「作業員の一人が取り残されている……」通信士の言葉に、綾音の心臓が跳ね上がる。
――また、失うの?
そんな思いが頭をよぎったそのとき、通信が再開された。「こっちは大丈夫だ!」モニターの映像に映し出されたのは、宇宙服姿の翔太だった。彼は仲間の整備士が酸素漏れに巻き込まれるのをかばい、自らの酸素ボンベを共有して救助に成功したのだった。司令室が安堵の声に包まれる中、翔太は綾音にだけ聞こえるように、小さくつぶやいた。「次の世界が来ても、絶対に君を守るから」その言葉に、綾音はぎゅっと拳を握りしめた。次の「リセット」が来るのは時間の問題だ。けれど、その時が来るまで、翔太の隣で生きよう――綾音はそう心に誓った。
「次の世界が来ても、絶対に君を守るから」翔太の言葉が耳に残るまま、綾音は宇宙ステーションの小さな居室で、ぼんやりと壁に貼られた地球の写真を眺めていた。
(どうして、こんなことが続いてるんだろう……)
何度も「リセット」を繰り返し、そのたびに翔太とともに記憶を持ち越してきた。過ごした世界には、出会った人々も、築き上げた暮らしもあったのに、気づけばすべてが白い霧に飲み込まれ、跡形もなく消えてしまう。「どうして、私たちだけ……」ふと、ベッドの脇に置いていた小さな鞄が目に入った。ずっと持ち歩いていたが、戦国の世界で拾った日記帳や、未来の整備マニュアルが入り混じり、何が入っているのかさえ把握できていない。「……何が入ってたっけ?」鞄を開くと、綾音の手に触れたのは古びた手帳だった。
「……これ、私の……?」表紙には、かすれた文字で「AYANE」と書かれていた。中を開くと、それは高校時代に綾音が書いていた日記帳だった。何気なくページをめくると、ある日の記述が目に飛び込んできた。『翔太とずっと一緒にいられますように。何があっても、絶対に離れたくない。』その一文に、綾音の指が止まった。――これが原因?頭の中に思い浮かんだのは、かつて翔太と交わした約束。高校生の頃、何も知らずに「ずっと一緒にいたい」と願った言葉が、何かのきっかけで現実になってしまったのかもしれない。綾音は、ページをぎゅっと握りしめた。
「……私が、翔太を巻き込んでたの?」息が詰まるほどの罪悪感が胸に広がった。翔太が何度も危険な目に遭ったのは、自分の願いが生んだ奇跡のせいかもしれない。「これ以上、続いたら……」綾音は震える手で、日記帳を抱きしめた。
(私のせいで……)
胸の奥に込み上げる罪悪感が、涙となってこぼれ落ちた。自分の幼い頃の願いが、翔太をこんなにも苦しめていたのだとしたら――。「このままじゃ、また……」どんなに願っても「次」が来れば、今の生活はすべて消えてしまう。自分はそれに慣れつつあったが、翔太は違う。彼はいつも「綾音を守る」と言い続け、そのたびに傷つき、危険に飛び込んできた。「もう……これ以上、巻き込みたくない……」綾音は日記帳を抱えたまま、翔太のいる整備室へと向かった。
「……綾音?」突然現れた綾音の顔が濡れているのを見て、翔太は驚いた表情を浮かべた。「ごめん……」「何が?」「たぶん……たぶん、私のせいなの……」綾音は震える声で、日記帳のことを語り始めた。高校時代に何気なく書いた「ずっと一緒にいられますように」という願い。あれが、二人だけが記憶を持ち続ける原因になっているのかもしれない、と。すべてを話し終えた綾音は、こらえきれずに涙を流した。「だから……もう、無理しなくていいんだよ……もう……」翔太は黙ったまま綾音を抱きしめた。その腕は、いつもより強く、温かかった。
「何言ってるんだよ」その声は、驚くほど穏やかだった。「そんなの関係ないよ。お前が何を願ったとしても、俺はずっとお前と一緒にいたいから」その言葉に、綾音の涙は止まらなかった。「次の世界が来たら、また君を探す。何があっても見つけるから」――この人は、何度でも自分を見つけてくれる。その確信が、綾音の不安をゆっくりと溶かしていった。
次の「リセット」は、思いのほか早く訪れた。綾音が翔太の腕に抱かれたまま涙を流していた、その翌日だった。宇宙ステーションの廊下に白い靄が漂い始めた。最初はただの湿気かと思ったが、次第に靄は濃くなり、視界がぼやけ始める。
「翔太……」綾音が手を伸ばすと、翔太がしっかりとその手を握り返した。「大丈夫。絶対にまた会えるから」その言葉と同時に、綾音の視界は真っ白に染まり、意識が遠のいていった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・目を覚ますと、目の前に見慣れない駅のホームが広がっていた。「……ここは?」人々が忙しそうに行き交い、駅のスピーカーからはアナウンスが流れている。制服姿の学生や、スーツ姿の会社員がすれ違う中、綾音はぽつんとホームの端に立っていた。
(また、新しい世界……)
目頭がじんと熱くなった。今度はどんな時代なのかもわからない。何より――「翔太……」彼の姿はどこにもなかった。不安が胸を締め付ける。次の瞬間、遠くの改札口で、見覚えのある姿が目に入った。「翔太……!」綾音は駆け出した。
だが、その背中はすぐに人混みに消えてしまった。「待って、翔太!」必死に呼びかけるが、声は雑踏にかき消される。人々の波に揉まれ、綾音はつまずいて膝をついた。「どうしよう……また、会えないの?」そのとき――「綾音!」声のする方を見ると、改札の向こうから翔太が駆け寄ってきた。「やっぱり見つけた!」その言葉と同時に、翔太は綾音の手をしっかりと握りしめた。「約束しただろ? 何があっても、絶対に君を見つけるって」「……ありがとう」綾音は震える声でそう呟き、翔太の手を強く握り返した。
この手が、何度も自分を見つけ出し、何度も守ってくれた。その事実が、心の奥にあたたかく広がっていく。「今度は、もう次の『リセット』が来ないといいな……」綾音が小さくつぶやくと、翔太は少し笑って言った。「大丈夫。もし来ても、俺が絶対にまた君を見つけるから」「……うん」二人はそのまま駅のホームに腰を下ろし、しばらくの間、何も言わずに人々の流れを眺めていた。新しい世界は、現代のようだった。きっとこれから、また二人で新しい生活を築いていかなければならない。それでも、不思議と不安はなかった。
どんな時代でも、どんな場所でも、翔太が自分を見つけてくれる――その確信が、綾音の心を支えていた。「ところで、これからどうしよう?」ふいに翔太が笑いながら聞いてきた。「……まずは、家を探さないとね」綾音も笑い返した。これまで何度も「最初からの生活」を経験してきたが、今回は妙に前向きな気持ちになれた。翔太と一緒なら、何だってできる。
「それと……」翔太がポケットから小さな箱を取り出した。「次のリセットが来るかもしれないけど……その前に、ちゃんと言いたかったんだ」箱を開けると、中にはシンプルな銀色の指輪が輝いていた。
「綾音、結婚しよう」
綾音は驚いて息をのんだが、すぐに涙がこぼれた。「……うん」涙の中で笑いながら、綾音は指輪をはめた。何度「リセット」されても、二人は何度でも出会い、恋に落ちる。ずっと恋人同士でいたいという願いが、これからも二人を繋ぎ続ける――そう確信しながら、綾音は翔太の手を、もう一度しっかりと握りしめた。