グレイス、私はここにいる。
この街の夜は、黄金色の灯りに照らされていた。石畳の路地を抜けた先に広がるカフェテラスには、客たちの笑い声とグラスの触れ合う音が響いている。テーブルクロスの端が夜風に揺れ、皿の上には香ばしい料理が並ぶ。そこに、グレイスはいた。
グレイスはいつもこの時間を待っていた。店の奥から漂う香ばしい香りに誘われ、静かに足を踏み入れる。テーブルの下、椅子の影、誰にも気づかれぬように身を潜めながら、グレイスはほんのひとかけらの食べ物を求める。しかし、それは決して簡単なことではなかった。
「また来たのか!」
怒声が響く。大柄な男の店員が足を踏み鳴らしながら迫ってくる。グレイスは素早く動き、逃げ道を探す。慣れた道筋、狭い隙間を縫いながら、カフェの外へと転がり出た。
「まったく、毎晩毎晩しつこいやつめ……」
男の店員が悪態をつくのを背に、グレイスは石畳の上で静かに息を整えた。冷たい夜風が体に染みる。しかし、それでもあの場所を諦めることはできなかった。
そこには、グレイスにとって特別な存在がいた。
彼女の名はエレーヌ。カフェの店員のひとりで、柔らかな栗色の髪と優しい瞳を持つ女性だった。エレーヌだけは、グレイスを追い払わなかった。いや、それどころか、こっそりとグレイスにパンを分け与えてくれることさえあった。
「ほら、誰にも言っちゃだめよ?」 そう囁きながら、エレーヌはパンの小さなかけらをそっと差し出す。その指先には、温かみがあった。
グレイスはその温もりに惹かれていた。そしていつか、エレーヌに恩返しをしたいと思っていた。
ある夜、グレイスはいつものようにカフェへ向かった。しかし、その日は違っていた。店の入口に差し掛かったとき、突然、強い衝撃が体を打った。
「見つけたぞ、悪党め!」
男の店員だった。グレイスは逃げる間もなく、荒々しく掴み上げられた。宙に放り投げられ、石畳に叩きつけられる。次の瞬間、重い靴がグレイスの小さな体を踏みつけた。
「何度も来やがって、懲りないやつだ!」
グレイスは痛みに耐えた。声にならない叫びを胸に閉じ込めながら、ただ耐えた。しかし、終わりは来ない。蹴りが入り、拳が落ちる。やがて彼の四肢は思うように動かなくなった。
それでも、グレイスは考えていた。エレーヌのことを。彼女の優しい笑顔を。
——もう一度、会いたかった。
その思いを抱えたまま、グレイスはゆっくりと意識を手放した。
***
エレーヌは翌朝、血の痕が残る石畳を見つめていた。
「どうして……」
昨夜、グレイスが現れなかったことを不思議に思っていた。けれど、まさかこんな結末を迎えるとは思ってもいなかった。いつもそっと与えていたパンのかけら。それをもう必要とする者はいない。
エレーヌの胸に、深い悲しみが広がる。グレイスはただ、飢えをしのぐためにここへ来ていただけだったのに。小さな体で、懸命に生きようとしていただけなのに。
いいえ、これは私のせいだ。私がグレイスにこっそりとパンをあげなければ、何度もここへくることも、昨夜命を落とすこともなかったはずだ。
「ごめんね……」
エレーヌの頬を涙が伝った。その雫が、冷たい石畳の上に静かに落ちる。ふと夜空を見上げると、ひときわ明るい星が瞬いていた。
その星は、グレイスだったのかもしれない。
そして、エレーヌもまた、心の奥深くでグレイスの存在を感じながら、生涯を終えた。
やがて、夜空には二つの星が輝いた。それは、寄り添うように瞬いていた。
フィンセント・ファン・ゴッホの「夜のカフェテラス」をお題に物語を書いてみるという企画から生まれたものです。