03
ライラはあの日以来、裏の屋敷に通うことをやめた。時々ふと思い出し、嫌な気持ちに苛まれることもあったが、三ヶ月も過ぎる頃には段々とその感情も鈍っていった。
あれから悪臭の被害もない。出入りの汲み取り業者に、師匠が話をつけているのだとライラは察したが、それを師匠に聞く勇気はなかった。あの日はライラにとって一番の汚点だった。わざわざ蒸し返すようなことはしたくない。さすがに亡くなっていたら師匠も一言ライラに声をかけるはずなので、わかること言えばアリシアが生きていることだけだった。
その日、ライラは洗濯を干したあと自室でいつも通り勉強をしていた。手に取ったのは、師匠が受け継いだ二つ前の代の薬師が書いた手記。ところどころ焼けてインクが掠れているが、ライラは興味深く読み込んだ。調剤の他にも、とある田舎で行った民間療法と食事療法が載っている。調剤に関してはやや情報が古いが、民間療法には他の本では知り得ないことが多数あった。なかでも、『精神を病んだ人への接し方』や、『痴呆症の老人を抱える家族へ伝える心構え』などはかなり特殊で面白い。
ライラが熱心に繰り返し本のページを読み返していると、窓から一匹の蝶が迷い込んできた。鮮やかな青い羽根を持った美しい蝶が、窓際にとまる。つい目を向けると、ライラは違和感を覚えた。
鮮やかだと思った色は、よく見るとくすんでいて、羽はところどころ破けて萎れている。ゆっくりと動く羽根は、カクカクと不器用に動き、気づいた時にはその動きすら止まった。
たかが蝶だが、綺麗だと思ったものが息絶えたのを見て、ライラは動揺した。窓から風が吹き、力を失った死骸が机を滑るように転がっていく。それが手に触れた瞬間、訳もわからぬ不快感にライラはぞっとして手を引っ込めた。
心臓がバクバクと大きく脈うつのを感じる。蝶から咄嗟に目を背けると、開いてた本のページが目に入った。
『大事なのは、相手に共感すること。言葉を遮らず耳を傾けて、あなたの味方だと根気強く行動で訴えること』
その瞬間、ライラの中で、くすぶって閉じ込めていた考えがカチリと嵌った。
目を閉じて、冷静に考えをまとめる。
(私は、命が終わる瞬間がとても恐ろしく、そして嫌いだわ)
そうして思い出すのは、忘れようとしても忘れきれない裏の屋敷に住むボロボロの少女の姿。
その少女を指して、師匠はそのうち死ぬといった。ライラも見習いとはいえ薬師の端くれ。あのような環境で酒を飲んでばかりいては、死ぬのは道理だと思う。
三ヶ月前の出来事は、ライラにとって未だ最大の汚点だ。冷静になればなるほど、師匠に止められたのに自ら頭を突っ込んでいったことや、アリシアのためだと言って自分の理想だけで上手くいくと考えたことが恥ずかしくなった。
しかし、改めて思い起こすと、最初は釘をさした師匠だが、ライラが打ち明けたあの日まで何も咎めたり聞き出すようなことはしなかった。
師匠は懐の広い人で、ライラの行動や思考を制限することをしない。まだ若いから色々な経験を積むようにと、失敗をわかっていても見守る傾向がある。
(自分のエゴだとしても、やっぱり裏の人に死んでほしくない。もう一度、出来ることがあるはず)
きっと、師匠は自分を止めずに見守るとライラは確信する。
(もしまた失敗しても、私の知恵と経験にすれば良い)
だからといって、同じことをしても意味がない。ライラは必死に頭を回転させ、アリシアを助けるためにはどうすればいいかを考える。
前回は、ライラはアリシアの気持ちを無視して理想を推し進めようとした。それから、アルコール中毒の知識もなく、治療の道筋をたてずに事を始めた。ただ掃除して酒が身体を蝕んでいることを伝えれば良いと、勝手に思い込んで安易な気持ちで行動した。
自分の汚点を蒸し返すたび、嫌な気持ちがじわじわと心を蝕んでいく。だがライラはそれでも考えるのをやめなかった。
ライラの人生は失敗しても取り返せるが、アリシアにとっては失敗したらもう終わりしかない。
(目標は、薬師見習いとしてアルコール中毒の治療を完遂すること。アリシアに寄り添い、アルコール毒に蝕まれた心も立て直し、本人にも治療を望んでもらうこと)
ライラは現実を見つめ、自分のエゴだと認識しながらも、アリシアを治療するも再度強く心に誓った。
その夜、夕飯の時にライラは師匠にアルコール中毒について調べてわからなかった事を質問した。
「本気なのか?」
ライラの行動を見透かした師匠は、静かにそう問いかけた。その声は冷淡にも聞こえるが、呆れや嘲るようや色はない。
「覚悟をもって、自分のために挑みます」
師匠の目を見て強く宣言したライラに、師匠はひとつ頷くと、質問の答えを返した。