01
とうに眠りから醒めているのに、ずっと意識が重い。
アリシアにとって朝とはそういうものだった。心地よい目覚めなど、今はもう思い出せない。
どんよりと鈍い頭痛にいらだちながら、アリシアが伸びきった爪で頭をかくと、大量のフケがベッドに落ちた。
不衛生なのはアリシアの身体だけではない。
ベッドの下には大量の酒瓶が転がっており、放置された食べかけのパンは青カビを生やしている。部屋の隅にはトイレ代わりの木桶が積み重なり、悪臭をはなっていた。
この状態を誰かに見せたとして、アリシアが少し前まで貴族の令嬢だったとは夢にも思わないだろう。
優雅さや豪華さとは縁遠い小虫が飛びまわる部屋で、アリシアはのっそり起きあがると、床に転がる酒瓶をあさった。瓶がぶつかりあい、甲高い音をたてるのを不快に思いながら、中身の入った瓶をみつける。震える指で栓を開けると、そのまま口をつけ喉を潤した。
そうしてやっと、すこしだけ息をするのが楽になる。
アリシアがちびちびと酒をのんでいると、一階の扉を叩く音が聞こえた。なにかの押し売りだろうと無視を決めこむが、音の鳴りやむ気配はない。しばらくすると、部屋に入りこむ足音が聞こえた。ドタドタとしたその音は、一人分の足音のようだ。一階から響いていたそれは、気がつくと階段がきしむ音へと変化し次第に近づいてきた。
アリシアは無気力にそれを聞いてると、大きな音をたてて扉が開かれた。
「うわ! なにこの部屋!」
部屋に入るなり大きな声をあげたのは、赤髪の少女だった。彼女はアリシアを見つけ、きっと睨みつけるとさらに大きな声をだした。
「すごい悪臭なんだけど! 裏のウチまで匂ってきて困ってるの! なんとかしてくれない!?」
アリシアはその少女をじっとみつめた。年は十五か、六か、自分と同じくらいにみえた。そばかすのある頬は血色がよく、丸い瞳は少しつりあがっていて、意思の強さがあらわれている。アリシアはそれを嫌に感じた。
「ちょっとまって」
かすれた声でつぶやくと、アリシアは首もとにかけたヒモをたぐり鍵を取りだした。ベッドのしたにある箱を解錠すると、数枚の硬貨を取りだす。施錠したあと向きなおると、アリシアは少女へ硬貨を差しだした。
「これで汲み取り業者を呼んでちょうだい。場所は、この部屋と玄関。おつりはあなたにあげるわ」
「そういう問題じゃないんだけど! 家の人は何をしてるの!? どうみても人が住む環境じゃないじゃない!!」
「住んでるのは私だけよ」
アリシアのつぶやきに、少女は怒りを忘れてきょとんとした表情を浮かべた。
「あなた一人なの? まって、あなた病人?」
少女があらためてまじまじとアリシアの姿をみつめる。栄養が足りず痩せこけた手足は、ダニに噛まれたのか赤い斑点がいくつも浮かんでいる。金色の髪はあぶらで固まり、フケでまみれていた。
「違うわ。もういいでしょ? 次から気をつけるから、もう帰ってちょうだい」
アリシアはぶっきらぼうにいうと、硬貨を床に置いてからベッドに寝転がり、少女に背を向けた。
「ちょっと!!」
少女は咄嗟に声をあげたものの、アリシアは壁を向いたまま返事をしない。
「今回だけだからね!」
そういい残し、硬貨を拾うと少女は部屋をあとにした。
◆
街の中心街にある一軒家。豪邸とは言わないまでも、一家族が住んでも十分すぎる広さがあり、屋根や窓の装飾を見れば裕福なことが伺い知れる。それなのに、庭は荒れ放題で雑草が生い茂り、空き瓶が家の内外問わずそこらかしこに転がっている。ゴミだけならまだしも、ひどい悪臭が常に漏れだしているのは異常だ。
赤髪の少女・ライラは先週、薬師の師匠とともにこの街に越してきた。知り合いのつてで、薬局兼住居を手頃な金額で借りられて喜んだものの、住んでみれば近隣から悪臭がするという大問題があった。一週間我慢して様子をみたがそれ以上は耐えきれず、文句をいいに今日訪れたのだ。最悪、人が死んでいる可能性も覚悟して行ったが、糞尿に囲まれて暮らす女性の姿はそれ以上の衝撃があった。住人がいれば文句をいうつもりでいたものの、あまりの衝撃に硬貨だけ預かってきてしまった。
通りを少し歩いて、右折を二度し、先ほどの屋敷の裏手にある商店へたどり着く。店の傍にある狭い路地を進み裏口から入ると、ライラは「ただいま」と声をあげた。
「おかえり、どうだった?」
奥で調剤をしていた女性が、手をとめずにライラに返事をした。
「師匠! 聞いて!!」
いきおいよく調剤室にかけこもうとしたライラだったが、思いとどまり、調剤室の前に椅子を運ぶと今見聞きしたことを語った。
話を聞き終えた師匠は、「可哀想にねぇ」とだけ呟いた。
「師匠は知ってたの?」
「そりゃあ、ご近所付き合いがあるから多少は耳にするよ」
「教えてくれてもよかったのに! でもなんでみんな臭いのをほっとくのよ!」
「そりゃあ、関わりたくないんだよ。近くに飲食店もないし、あるのは工房だろ? 多少の匂いに目をつむれば関わらずに済む」
「私は嫌! 悪臭のする薬局なんか売れるわけないじゃない!」
「たしかに、それはライラの言うとおりだ。次からは私がお金もらいにいくよ」
「なんで? 次からは気をつけるって言ってたから行く必要はないはず。肌がボロボロで年齢もわからないけど、そんなボケてる年齢には見えなかったわ」
「ああ、おまえと同じくらいだったかね? それでも人間ダメなときはダメになる」
「うそ! あの人、私と同い年なの!?」
「ライラ」
低い声で師匠は言った。真面目な話だとわかり、ライラは背筋をのばし師匠の言葉を待った。
「酒は薬にもなるが、飲みかたを間違えれば身体を壊す。裏の人はそのうち死ぬだろう。もう少しの辛抱だから、関わるのはおよしなさい」
「なんで? あの人死んじゃうの? 病気なの?」
「言っただろう? 病気じゃない、酒との付き合いかたを間違えたんだ」
「治せないの?」
なんで、なんでと子どものように聞くのは、ライラの長所であり短所だ。薬の調剤についても、聞きたがりのライラは自分が納得するまで尋ねるから飲み込みもはやい。
ふぅ、と小さく息をつくと、師匠はごまかすことなくライラに告げた。
「もしも、あんたが酒中毒になったら、私は全力でとめる。けれどそれには、時間も気力もかかる。金ももらわず赤の他人にできるほど簡単なことじゃない。私たちは聖人ではないと理解できるね?」
「…………はい」
時間と気力がかかることは理解したが、気持ちの面では納得できないままライラは頷いた。病気でもないのに、命をあきらめるのは違うと思った。それがまだ十代の少女だったら、なおさらだ。ライラは心のなかで、私があの子を救ってみせると自身に誓った。