『枯れ専じゃない』ことを証明するため、女子高生は『先祖の記憶、遺伝する説』を推す。
この春、高校生になったばかりの安彦梨々は、教室の窓枠に両手をつき、物憂げな表情で青い空を見上げていた。
「やっぱり、先祖の記憶って遺伝するのかな?」
ポツリと、独り言のようにつぶやく。
窓際の席で、いつものように文庫本を開いているのは、梨々の親友、浅長玲香だ。
「はあ?」
彼女はパタリと文庫本を閉じ、視線を梨々に向ける。彼女の眉間には、深いシワが刻まれていた。
「朝っぱらから、なに寝言みたいなこと言ってんのよ? 登校中に、頭でも打った?」
「え?……あ、ゴメン! べつに、難しい話をしようとしてるワケじゃなくて」
親友の顔が不機嫌そうにゆがんでいることに気付き、梨々は焦って首を振る。
玲香は勉強があまり得意ではない。
そのことを日頃から気にしていているせいか、手には常に文庫本。
裸眼で充分生活していけるほど視力は良いクセに、度の入っていないメガネを掛けている。賢く見られたいからだそうだ。
外見も賢そうに見えず、内面も賢くないという場合より。
賢そうに見えるのに、実は賢くない――という方が、バレた時のダメージは大きいと思うのだが。
とにかく玲香は、賢く見られたい系女子なのだ。
梨々も成績が良い方ではない。特に理数系は苦手だ。
なのに何故、学校に着いて早々、遺伝などという小難しい話をし始めたのかと言うと――。
「昨日も公園に行ったんだけど」
「ああ、そう。懲りずにまた、ストーカーしてたんだ?」
「ちょ――っ、やめてよ! ストーカーじゃないってば。見てていいかどうか、ちゃんと本人に訊いて、了解ももらってるんだから」
梨々は両手を前に出し、真っ赤になって否定する。
玲香は呆れた顔つきで頬杖をつき、
「あーそう。……けど、アンタもよく飽きないわね。絵ー描いてるとこなんか見てて楽しい? アタシにはさっぱり理解できないわ」
再び眉間にシワを寄せ、軽く首を振った。
梨々はぷうっと頬を膨らませると、『いーでしょ、べつに』とそっぽを向く。
ストーカーとは、穏やかではないが。
彼女が想いを寄せている幼馴染の同級生、小川真人が、美術部の課題だか何だかで、このところ毎日、学校近くの公園で絵を描いているのだ。
幼い頃から彼に想いを寄せる梨々は、少し離れたところからその様子を見守っている、というわけだった。
「もうすぐ夏休みっていう、この浮かれた季節に。しかも、最高気温が毎日のように更新されてく、殺人級に暑い中。野外で暗くなるまでひたすら絵を描いてる男を、ただボーッと眺めてるだけなんでしょ? ご苦労なことね」
からかい口調でニヤついてみせた後、玲香はひょいっと肩をすくめる。
梨々は微かに頬を染め、うらめしげに玲香をにらみつけた。
「うるさいなぁ。恋したことない玲ちゃんには、わからないのよ」
言い返しながら、窓辺から自分の席(ちなみに玲香の後ろだ)に移動し、乱暴に椅子を引いて腰を下ろす。
玲香は首だけ後方に向け、
「あら。したことあるわよ? 二次元限定なら、数え切れないくらい」
さしてダメージを受けていないようで、ケロリとした顔で言い返す。
「二次元じゃなくて、現実の話!」
「現実だって二次元だって、恋は恋でしょ?」
「ちっがーう! 二次元の人に恋したって、ムナシイだけじゃない。想像の中でしか会えないし、さわれないし」
「へーえ。梨々はさわれなきゃ好きになれないの? ってことは、小川くんにはいつもさわりまくってるんだ?」
「なっ、何よそれ!? さわってるワケないでしょ!」
瞬時に赤面し、梨々はキョロキョロと辺りを見回す。
誰かに聞かれたら――特に、片恋相手の小川真人に聞かれたらどうしてくれる、といった感じだ。
玲香はククッと笑い声を漏らし、
「そーよねぇ? いつも見てるだけだもんねぇ? 相手は幼馴染なのに、ボディタッチすらできないなんて。さわろうと思えばいつでもさわれる、現実世界なのにねー? そっちの方が、よっぽどムナシイんじゃない?」
意地の悪い視線を梨々へと送り、念押しするかのように、もう一度ククッと笑った。
「うるさいなぁもうっ! 玲ちゃんのバカッ!!」
教室中に梨々の声が響き渡った瞬間。
ガラリと戸が開き、担任の教師が入ってきた。
昼休み。
梨々と玲香は、いつものように机をくっつけ、お弁当を食べながら談笑していた。
話題は今朝の続きだ。
いや。続きと言うより、今朝梨々が話そうとして話せなかったことについて、と言った方が正確か。
玲香は卵焼きを口元へ運ぶ手を途中で止め、 眉間にシワを寄せて首をかしげた。
「はあ~? 昨日、公園でチラッと見掛けたじーさんにときめいちゃったぁ?……アンタ、いつから枯れ専になったの? 愛しの幼馴染はどーすんのよ、捨てるの?」
「捨てないよ!!――ってか、捨てるって何よ捨てるって? 拾ったことなんてないし、拾われたことすらないんだから、その言い方はおかしいでしょ!」
梨々は箸を握り締めながら抗議し、玲香は『やれやれ』といった風に肩をすくめる。
「だって、『昨日ね? 公園のベンチに座ってるおじいさんがいたんだけど、その人を見たとたん、ビビビッって、体に電流走るみたいな感覚がしたの』なーんて言い出すからさ。『小川くんからじーさんに乗り換え? 梨々、枯れ専だったのかー』って、思っちゃったワケよ」
「乗り換えないよ! カレセンでもな――っ、……んん? 〝カレセン〟ってナニ? 割れ煎なら知ってるけど」
卵焼きを咀嚼して飲み下すと、玲香はフッと口元をほころばせた。
まるで、『なんだ、そんなことも知らないのか』とでも言いたげだ。
梨々は内心ムッとしたが、こんなところで口論になっては、朝の二の舞いだ。グッと堪えた。
玲香は次のおかずへと箸を伸ばし、口元に笑みを浮かべる。
「枯れ専ってのは、『枯れた男性専門』の略。要するに、枯れてる男の人……確か、四十代から五十代以降の年上男性のことだったと思うけど。そういう、経験豊富で落ち着いてる年代の男性が好きって人のことを、枯れ専って言うの。割れせんべいとは全くの別物よ」
「へー。かなり年上の男性を好きになっちゃう人のこと、枯れ専って言うんだ? 初めて知ったー」
梨々が感嘆の声を漏らすと、玲香は満足げにうなずいた。すごく得意そうだ。
勉強では梨々に敵わない(と言っても、微々たる差なのだが)ので、教えられることがあったのが、単純に嬉しいのだろう。
「あっ。でも、違うんだってば! 私は枯れ専とかじゃなくて!」
梨々は慌てて否定し、箸を握ったままの拳を机に叩きつけた。
玲香はモグモグと口を動かし、マグボトルに入ったお茶で、残りのおかずを一気に流し込む。
すっかり空になった弁当箱に蓋をし、両手を合わせて『ごちそうさまでした』とつぶやくと、梨々に向き直った。
「枯れ専じゃないなら、どーしてときめいたのよ? タイプだったからじゃないの?」
「私のタイプど真ん中は真人くん! 幼稚園時代から一ミリとも変わってない!」
握り締めた箸をブンブン振り回し、梨々は真顔で力説する。
玲香はマグボトルのお茶を一口飲み、 呆れたようにため息をついた。
「それは知ってるって。嫌ってほど聞かされてるし。……で? タイプじゃないなら、どーしてときめいたの?」
「だから! それがあれよ、あれ。遺伝ってヤツよ」
「は? 遺伝~?」
「うん。あ、えっと。遺伝って言うか……」
梨々は言いよどみながら、チラリと玲香の様子を窺う。
玲香の顔には、『難しい話なら聞かないわよ?』と書いてあった。
「えーっと、だからね? 私はこう考えたの。そのおじいさんを見たのは、昨日が初めてだったし、顔が好みだったワケでもない。なのにときめいた。ものすごーく。ビビビビッって電流走っちゃうくらい。これっておかしいよね?」
「うん、まあ。おかしいっちゃ、おかしいかな?」
「おかしいわよ。好みでもないのにときめくなんて。私が、すぐ誰かを好きになっちゃう恋愛体質だって言うなら別だけど。昔から真人くん一筋だし。彼以外、好きになったことないし!」
ここが大事だと言わんばかりに、梨々は机をバンバン叩いて主張する。
玲香は『ハイハイ』とうなずき、親友の話を黙って聞いていた。
興奮冷めやらぬ様子で、 頬を紅潮させた梨々が、次いで放った言葉は。
「だからこれ、私の気持ちじゃなく、過去の人――先祖の記憶が、関係してるんじゃないかと思うの!」
両手で机を叩いて締めくくると、梨々は得意げに胸を張る。
玲香はじいっと梨々の顔を見つめていたが、やがて、マグボトルをおもむろにつかんだ。グイッとお茶を飲み干し、ふうっと息を吐く。
再び梨々に視線を戻し、ジト目で一言。
「何それ?」
「えーっ? だから、先祖の記憶よ! わっかんないかなー?」
親友の素っ気ない反応に、梨々は不満そうに唇をとがらせる。
玲香はマグボトルをバッグにしまい、机横のフックに掛けると、さらに冷めた目を梨々に向けた。
「先祖の記憶って何? ワケわかんない」
「私だってわかんないけど! でも、そうとしか思えないんだもん。タイプでもない人見てときめく理由が。遺伝とか、先祖の記憶が絡んでるとしか、思えないんだもん!」
「いきなり遺伝とか先祖の記憶とかって考えるアンタが、一番ワケわかんないって。普通は、『ああ。アタシ、こーゆー趣味もあったんだな』ってなるでしょ? そっちの方が、遺伝だの何だの意味不明なこと言い出すより、よほど自然よ」
「だって! 真人くん一筋のこの私が、他の人にときめくなんてあり得ない! 太陽が西から上るのと同じくらい、あり得ないんだってば!」
「自分が心変わりしたと考えるより、先祖の記憶がどーのって考える方が、まだ現実味があるってこと?」
「そう! そのとーりっ!」
梨々は胸の前で両手を握り締めながら、何度もうなずく。
玲香は深々とため息をつき、椅子の背もたれに寄り掛かると、足を組んで、再び梨々をジト目で見据えた。
「じゃあ、先祖の記憶が遺伝子情報だかに組み込まれてるとして、よ? そのじーさん、もしくは、じーさんのソックリさんだかにときめいた先祖ってのは、誰なのよ? 見当ついてんの? じーさんにときめいたってんだから……もしかして、アンタんちのばーさん?」
「そんなの、わかるワケないでしょ。仮にそうだとしても、正解かどうかなんて確かめようがないし。ばあば、三年前に亡くなってるし」
「あ~、そっか。そーだったっけ」
思い出したように、玲香は両手を打ち合わせた。
「――とすると、『先祖の記憶は遺伝するか?』、証明できる可能性はなくなったわね。詰みよ、詰み。この話はこれでおしまい」
玲香は椅子の背もたれに寄り掛かり、両手を頭の後ろに回す。
「そんなことないわよ。ばあばが無理なら、直接本人に訊ねればいいんだから」
梨々は不敵に笑って腕を組むと、玲香と同様、背もたれに寄り掛かった。
「え? 本人って……じーさんに?」
「当たり前でしょ。他に誰がいるの?」
梨々の答えが予想外だったのか、玲香は目を丸くしている。
長い間、片恋相手に対し、何のアクションも起こせなかったことからもわかるように。梨々は積極的な性格ではない。
その梨々が、『直接本人に訊ねる』などと言い出すとは……。
「善は急げって言うし! 今日公園に行って、おじいさんがいたら話し掛けてみる。明日、結果を報告するね? 楽しみにしてて!」
ひたすら意外そうに、ポカンと口を開けたままの玲香を前に。
梨々は両手を握り締め、意気揚々と宣言した。
翌朝。
梨々の顔を見るなり、『で? じーさんと話したの?』と訊ねる玲香に、梨々は満足げにうなずいた。
「詳しい話は、昼休みにね!」
もったいぶって返事すると、ニマニマと笑いながら頬杖をつく。
すぐに結果を知りたかったが、玲香はグッと堪え、大人しく昼休みまで待つことにした。
「で? 結局どーなったのよ?」
いつものように机をくっつけ、弁当を食べている最中、玲香がしびれを切らしたように訊ねた。
梨々は意味ありげに笑い、大きくうなずく。
「もちろん、話し掛けたわ。あのおじいさん、鍛冶屋敷一って名前なんだって。珍しいよね」
「は? かじ……なんですって?」
「鍛冶屋敷。か、じ、や、し、き、は、じ、め。――ね? 珍しいでしょう? おじいさん、私がノートとシャーペン渡したら、こういう字ですって、漢字教えてくれたの」
梨々は机からノートを取り出し、開いて玲香の前に置く。
そこには、美しく整った字で『鍛冶屋敷一』と書かれていた。
「へえー。確かに、こんな苗字の人初めて。しかも、すっごくキレイな字」
玲香は感嘆の声を上げながら、梨々のノートを覗き込む。
梨々は得意げに胸を張り、
「でしょでしょ? おじいさん、めっちゃ達筆なんだよね」
ニコニコと嬉しそうで、まるで自分が褒められたかのようだ。
玲香は呆れ、『なんでアンタが得意そうにしてんのよ?』とツッコむが、照れ臭そうにペロリと舌を出すのみ。
(この反応……。もしかして、ホントにじーさんを好きになっちゃったって言うんじゃないでしょーね?)
訝しむ玲香だったが、梨々はただニコニコと笑っている。
おまけに、今日も会う約束をしているという。
心配になった玲香は、『アタシも行ってもいい?』と訊ねた。
放課後。
梨々は『ちょっとトイレ』と玲香に告げ、教室から出て行った。
玲香は『今だ!』とばかりに、梨々の想い人である真人に近付いた。
「ねーねー、小川くん。今日も公園行って、絵を描くの?」
ニマニマ笑いで、帰り支度をしている真人に声を掛ける。
彼は横目で玲香を見、『描くけど。それが?』と素っ気ない。
梨々のことで、普段からさんざんからかわれているので、彼女に苦手意識を持っているのだ。
「昨日も梨々、公園にいたよね? その時、何か見なかった?」
「何かって?」
「だからー。梨々、じーさ――、おじーさんと、楽しそうに話してなかった?」
「……話してたけど。それがナニ?」
真人の返答に、玲香は『ほほう?』と、内心で感嘆の声を上げた。
(絵を描いてる間でも、一応、梨々の様子がわかる程度には、気にしてるんだ?)
予想以上に脈アリな気配を感じ取り、玲香は俄然、からかう気満々になった。
「フッフッフ。二人の仲良さげな雰囲気、どー思う? 何か感じなかった?」
「何かって?」
「何かは何かよ。『妙に親しそうだな』とか、『何話してるんだろう?』とかって、気にならなかった?」
「べつに。知り合いなのかな、くらいしか思わなかったけど」
「へーえ。そっかー。そーなんだー?」
終始、ニマニマ笑いを浮かべつつ、意味深な反応を示す玲香に、いい加減ウンザリしたのだろう。真人は玲香を軽くにらんだ。
「何なんだよ、さっきから? 何が言いたいんだ?」
イラ立ちを隠そうともしない、不機嫌そうな声だ。
玲香はケロリとした顔で、『フッフーン。どーしよっかなー? 教えてあげよっかなー?』などと、もったいぶった態度を貫いている。
「答える気がないなら、もういいよ。俺、行くから」
とうとう我慢の限界に達したらしい。真人はカバンを引っつかみ、風呂敷で包んだ四角くて平べったい物体(絵を描くパネルらしい)を小脇に抱え、玲香の前を通り過ぎた。
玲香はフッと笑った後、去って行く背中に向かい、
「梨々ねー? あのおじーさんに会った瞬間、メチャクチャときめいちゃったんだってー!」
そう声を掛けたのだが。
真人はその場で立ち止まり、『えッ!?』と甲高い声を上げて振り返った。
翌日の昼休み。
弁当のおかずをつまみながら、梨々はニコニコ顔で玲香に訊ねた。
「ねえ。昨日、おじいさんに会ってみてどー思った? すごく感じの良いおじいさんだったでしょ?」
「うーん、そーねー。確かに、すごく雰囲気の良い人だったね! あーゆー人を、『老紳士』って言うのかもねー」
わざと大きな声で返事すると、玲香は廊下側の後ろから二番目の席を、チラリと窺う。
そこは真人の席だった。彼は一切こちらを見てはいなかったが、購買で買ってきたらしいパンを片手に持ったまま、微動だにしない。
全神経を耳へと集中させ、こちらの会話を聞き取ろうとしているのだろう。
「フフッ。気にしてる気にしてる。昨日のあれが効いてるわね」
玲香が満足げにつぶやくと、梨々はキョトンとして小首をかしげる。
「玲ちゃん? 何が効いてるの? 『昨日のあれ』って?」
「キッシッシ。いーのよ、気にしなくて。こっちの話だから」
口元に片手を当て、含み笑いをしてみせる玲香に、梨々はたちまち顔をしかめ、『ヤダなぁ。気味悪い笑い方ー』と不満を漏らした。
玲香はコホンと咳払いし、
「まーまー。アタシのことなんかより、老紳士の話をしましょーよ」
満面の笑みを浮かべ、昨日の話の再開を促した。
更に、次の日の昼休み。
昨日と打って変わり、神妙な面持ちで弁当を食べている梨々を不審に思い、玲香は恐る恐る声を掛けた。
すると、梨々はおもむろに顔を上げ、暗い声で、
「実は……。昨日も、おじいさんと公園で話してから、家に帰ったんだけどね? 帰ったら、ちょうどお母さんが、ばあばの古いアルバムを整理してるところで――」
「ばあば? 三年前亡くなった、アンタのおばあさんのこと?」
「そう、ばあば。亡くなってすぐとか、数ヶ月してからならわかるけど、亡くなってから三年も経ってるのに、いきなりばあばのアルバムを――なんて、変な感じだなぁって思ったんだけど……」
心なしか、梨々の顔色が悪い。
玲香はまさかと思いつつ、話の先を促した。
「お母さん、私を手招きして、『見て見て! おばあちゃんの若い頃の写真』って。なんだか妙な感じがして、怖かったんだけど、お母さんに変に思われるのイヤだったから、居間のソファに座って、写真を見てたの。そしたら――」
「そしたら?」
梨々はゴクリとつばを飲み込み、すっかり青い顔になってつぶやいた。
「あのおじいさん……鍛冶屋敷のおじいさんに、すっごく似てる人が写ってる、セピア色した写真があったの。私、ビックリしちゃって……。その人指差して、お母さんに訊いたの。『この人誰?』って」
梨々の目に、うっすらと涙がにじんでいる。
玲香は背筋にヒヤリとしたものを感じながらも、誰だったのか訊ねた。
「お母さんも、詳しくは知らないって。でも、ばあばにその写真見せられて、『この人、お母さんの初恋の人だったらしいわよ』って、コッソリ教えてもらったんだって」
「え!? おばーさんのじゃなくて? おばーさんのおかーさん!?」
「うん。それでね? 『名前知ってる?』って訊いたら、『確か、カジ……ナントカさんって、変わった名字だった気がする』って……」
「カジナントカ!?……って、それもう間違いないじゃん! おばーさんのおかーさんの初恋の人ってことなら、鍛冶屋敷さんのおじさんとか……とにかく、血が繋がってる人なんじゃないの!?」
「……やっぱり、そうとしか思えないよね?」
梨々の両目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「ちょ――っ! 何で泣くワケ!? アンタが言ってたんでしょーが、先祖の記憶がどーのって! その説が証明されたかもしれないのに、どーして泣かなきゃいけないのよ? 当たって喜ぶとこじゃないの?」
急に泣き出した梨々を前に、玲香は焦り、キョロキョロと辺りを見回す。
案の定、教室中の生徒の注目は、梨々一人に集まっていた。
「だって。だって、ばあばのお母さんが……ひいばあばの初恋がっ」
絞り出すようにそれだけ言うと、とうとう梨々は両手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。
その日の放課後。
落ち着きを取り戻した梨々から、玲香は話の続きを聞いた。
セピア色の写真に写っていたのは、梨々の曽祖母の初恋の人で、戦争に赴き、若くして亡くなってしまったのだそうだ。
曽祖母は嘆き悲しみ、適齢期だったにもかかわらず、十年ほどは結婚する気になれなかったらしい。
だが、十数年後。
穏やかで誠実な梨々の曽祖父と出会い、結婚。二児を授かる。
祖母から聞いたことによると、曽祖母は曽祖父に悪いと思ったのか、戦争で散った初恋の人の話は、彼の前ですることはなかった。
ただ、曽祖父のいないところでは、晩年、ポツリポツリと、語ってくれることがあったのだそうだ。
初恋の彼は、親同士が決めた許嫁で、幼い頃から良く知っていたため、互いに惹かれ合っていたのだという。
だが、戦争が始まり、『せめて結婚だけでも』と急かす周囲に、初恋の人は、頑として首を縦に振らなかった。
曽祖母のことが嫌いだったから、ではない。
彼女を未亡人にしてしまうかもしれないと思うと、どうしても決心がつかなかったかららしい。
曽祖母は『それでもいい』と、彼に泣いてすがったそうなのだが。
彼の決意は固く、曽祖母は承知するしかなかったのだそうだ。
「それでね。初恋の人は、戦争に行くっていう前日に、ひいばあばに会いにきてね? 手紙と、あの写真だけを渡して、去って行ったんだって。その時の写真が、あのセピア色の写真。手紙もね、ちゃんと大切に取ってあって――」
「え? じゃあ、梨々も読んだの?」
「うん。ひいばあばに宛てた手紙なのに、申し訳ないなとは思ったんだけど……。ばあばも、お母さんも読んじゃったそうだから、私だけ遠慮するのも、気にし過ぎかなと思って」
「そっか。……で、どんな内容だったの?」
「うん……。ひいばあばを、すっごく大事に想ってたんだなぁってことが、伝わってくるような内容だった」
「……そ、か……。なんだか、切ないね」
「うん」
しばらくの間、二人は教室に残り、複雑な想いを噛み締めていた。
戦争がなかったら、結ばれていたかもしれない二人。
しかし、二人が結ばれていたならば、梨々は生まれてきていなかったのだ。
「悲恋は切なくて、辛いことだけど……」
「諦めずに生きてれば、その先に……明るい未来が待ってるかもしれないんだね」
しみじみした後、二人は顔を見合わせ、フフッと笑い合った。
梨々は椅子から立ち上がり、
「そろそろ行かなきゃ! 私、今日も鍛冶屋敷さんと約束してるの。それでね、あの写真と手紙も持ってきたんだ。写真の人は、ホントに鍛冶屋敷さんと繋がりのある人なのかどうか、確かめてもらおうと思って」
「あっ。じゃあ、アタシも行っていい?」
「もちろん。一緒に確かめよう?」
二人はカバンを片手に持ち、もう片方の手を繋ぎ合うと、勢いよく教室から飛び出した。
その後、判明したことによると。
セピア色の写真の主は、やはり、鍛冶屋敷一の親類だった。
彼が生まれた頃、すでに他界していたため、会ったことはないそうだが。
写真の彼は、伯父に当たる人だったらしい。
手紙と写真を渡し、事の経緯を伝えると。
彼は不思議そうな顔で『とても偶然とは思えない。きっと、神様のお導きだろう』と、やわらかく微笑んだ。
その後も、女子高生二人と一人の老紳士の交流は続いたが。
一ヶ月もしないうちに、梨々と老紳士とは、少しだけ疎遠になった。
理由は、梨々に恋人ができたからだ。
相手はもちろん、梨々の初恋の君である小川真人。
どうやら、玲香のあの一言、
「梨々ねー? あのおじーさんに会った瞬間、メチャクチャときめいちゃったんだってー!」
が、効果テキメンだったらしい。
(俺のことが好きなんじゃなかったのか!? あんな、幾つ離れてるかもわからんじーさんに、メチャクチャときめいたってどーゆーことだ!?)
真人はひどく動揺し、自分でも意外に思うほど、嫉妬にさいなまれたという。
数日後、悩みに悩んだ彼は。
公園から家に向かう帰り道で、梨々に告白。
めでたく、カップル誕生と相成った。
梨々が老紳士と疎遠になったのは、
「だってー。おじいさんと話してると、真人くん、機嫌悪くなっちゃうんだもーん」
という、事情があるから。
玲香はニヤニヤ笑いながら、
「うっわー。束縛激しそー。ダイジョーブ? アンタの彼氏、そのうち暴力振るったりしちゃうんじゃないのー? うわー、こっわーい。気を付けなさいよー?」
と茶々を入れ、梨々は余裕顔で、
「嫉妬したって、真人くんは暴力なんか振るわないし、ヒドいこと言ったりしないもん。ちょこっとすねちゃうだけだもーん。……クフフッ。かっわいーんだから」
とやり返す。
親友二人が共にいる時間は、前より減りはしたが。
相変わらず仲は良く、うまく行っているようだ。
暇な時間を持て余しているように見える、玲香はと言うと。
老紳士と毎日のように公園で会い、薄暗くなるまで、ベンチで語り合っている。
枯れ専の傾向は、梨々ではなく、玲香の方にこそあったのか?
否。
恋愛というよりも、年の離れた友情が生まれつつあるといったところだろう。……とりあえず、今のところは。
この先、絶対に恋愛関係には発展しない、と断言できるわけではないが。
可能性としては、ゼロではないという程度ではあるまいか。
どちらにせよ、まだ若い彼女達には、無限の可能性が広がっている。
今はただ、幸多かれと願うばかりだ。