本当に向き合う為に、いつか僕は本当になる。
「これが、へぎそば?っていうのか」
「はい。のど越しも良く、そば粉につなぎで布海苔を使っている為、香りも楽しめる蕎麦なんです」
そう応える見た目二十歳半ばくらいだろう。藍染の着物が似合う雪女は、小首をひねり微笑んだ。そんな彼女。雪菜を目の前にして、僕は今まで経験した事のない現状に。複雑な気持ちに。頭を掻いた――。
少し前、僕は久しぶりに笑った。自分の中にある細い線が切れたかのように。
愛想笑い。忍び笑い。含み笑い。そうじゃなくて心底、声を大にして、腹を抱えて笑ったんだ。
そもそも僕は今の仕事をこなす上で笑う事はない。
一時間前程、目の前に懇願する雪女は、喉元に剣先を向けた僕に。
「殺される前に……へぎそばを食べさせてください」
そう言った。おかしいだろ? 今まで命乞いする怪異なんて腐る程見てきたのに、この子は飯が食いたいと言うのだから。
僕はそれを許した。絶世の美女だとか、フランス人形のような絢爛な緋色の瞳に惹かれた。なんて事ではなく。今まで怪異を退治してきた中で、彼女の最後の頼みはなんの濁りもなく、諦めのように僕の目に映った。だから何となく。その願いを聞こうと思い、現在に至る訳だ。
普通なら。こんな選択を僕は選ばなかっただろう。だってこれは仕事なんだから。
「それで、最近。結城さんは転勤されてきたと?」
創業の歴史を感じさせる店で、暖色の照明が包む個室で木製テーブルを挟み向かい合う僕達は、掘りごたつの先で足を寛がせていた。
テーブルには、簾の上に一口サイズに丸められた艶やかな柳緑の蕎麦とめんつゆ。小皿には葱が盛られ、隣にはこんもりとワサビ。そして、海老、椎茸、しし唐、ナスの天ぷら。
時刻は二十時。これを目の前に僕のお腹が急かす音を鳴らすが、彼女の声がそう遮った。
「あ? あぁ。一昨日な」
「……」
「なんだよ。食おうぜ」
じっと見詰める雪女は小さく頷くと、めんつゆに、葱と和からしを入れる。
おかしい……。いや、そもそも怪異と飯食ってんのがおかしいんだけど。そうじゃなくて。
「ワサビもいいですけど、からしもアクセントが効いておいしいのですよ」
察しがいいな雪女。伊達に二百年近く生きているだけある。
「それに小千谷ではへぎそばが生まれた当時、ワサビは採れなかったんですよ。その代わりというか。なので最初は和からしだけだったんです。私は馴染みのある味の方が好きでして」
詳しいな雪女。伊達に二百年近く生きているだけはある。
「そうなのか。じゃぁワサビを入れる風習が生まれた時はどうだったんだ?」
「それはもう……」
盛られたワサビを全てつゆに入れながら話を聞く僕に「あーん!」と、彼女の声に肩が跳ねる。思わず、つゆの入った器に小皿ごと落とす所だった。
……なんちゅう卑猥な声を出しやがる。
視線を上げると、身を乗り出していた雪菜は手に持っていた箸を軋ませ、某ゲームで何でも吸い込むピンクの球体のように頬を膨らませていた。
「な、なんだよ」
「結城さん。先ほども言いましたけど。まずは布海苔の香りを楽しむんです。そんなにワサビ入れたらワサビの香りしか。いや、ワサビの味しかしないじゃないですか」
身を引いた彼女は呆れた表情で、かぶりを振る。
「いいんだよこれで」
「……それなら結城さんだけ蕎麦じゃなくて、そこら辺の泥にワサビ塗ればいいじゃないですか」
「酷い言われようだな! 謝れ! 全国のワサビ愛好家に!」
「いいですから、新しいつゆを頼みましょう」
――間もなくして、新しいつゆを頂いた僕は彼女の顔色を伺いながら、数回に分けて、ごく少量のワサビを入れる事を許された。
飯を食べるのにここまで苦労するとは……。
吐息と共に、次は早う食えという眼差しを向ける雪菜を一瞥して僕は蕎麦を持ち上げた。僅かに香る磯の匂いで必然的に唾液が一気に増えるのが感じる。
本能のまま、蕎麦の半分をつゆに浸し、啜る。
蕎麦は冷水でしっかり締めている故に、非常に歯ごたえがよく、空腹だったからだろうか。その後鼻から吹き抜ける磯の香りが先ほど以上に色濃く僕の感情を幸福で満たしていく。
「……! うまいな」
「でしょう?」
得意げに笑う彼女も蕎麦に手を付けだした。
蕎麦を啜る彼女は、頬に手を当てて、笑みの花を咲かせた。見ているこっちまで幸せになる。雪女なのに、ひまわりのように明るい。そんな笑みだ。
彼女が天ぷらに箸を進めるのを見て、僕も続く。
まずはナスから。つゆに浸けると、衣に染みていき、その変わりにというのか。ナスのうまみ成分を含んだ。油がつゆに広がっていく。
この後の蕎麦は更に旨いだろう。
大きく一口。熱々の天ぷらが、つゆのお陰で適度な温度となり、口の中全体にジワリと平がるナスの肉汁。更に追いの一口。つゆの余韻と共に次は衣のサクサク感を楽しむ。
一度に、二度おいしい。とはまさにこの事だろう。
「ナスも上手いな」
「他の天ぷらも絶品ですよ」
人が食べている様が見ていて楽しいのか、夢中で貪っていた僕は彼女の変わらない笑みに一瞬で我に返った。
「解せないな」
「何がでしょうか」
「……君は。本当に人を殺してきたのか? 今こうして話しているとそうは思えないが」
箸を置いて、僕は彼女を真っすぐに見詰めそう言った。僕の知っている怪異としての存在。その括りに彼女は当てはまらない。というか誰しもがこの状況を見たらそう思うだろう。
その問いに箸をピタリと止めた彼女は、逡巡とした様子を見せ、俯く。
その表情は、悲しみというよりも諦めに近い。そんな顔をしていた。
「私はそんな非道な行いはしません」
「なんでだ? 君は怪異だろ?」
止まっていた彼女の箸はつゆの器に静かに置かれ「怪異……そうですね」と胸に手を当て、同じ表情を見せ続けた。
「結城さん。私は一族になんて呼ばれていると思いますか?」
……相手の心の内は読めるとか。そんな冗談を言える空気ではない事くらい僕にだって分かる。だからこそ、僕は何も言わずに彼女の次の言葉を待った。
「そんな超能力持っていません……一族の恥さらし。怪異ではない何か。です」
やっぱり読めるのか⁉
一族。いや、他にもいるだろうとは思っていた。というか、それが当たり前だ。基本的に僕達の仕事は一族の根絶やしが目的ではないし、正直なところ。増えすぎた場合の生態系バランスを保つのが本来の目的だ。
怪異とは人に恐怖を与えるだけの存在ではない――。
座敷童みたいな良い怪異も存在する。もしも、怪異という存在を消しかけるような行動を起こせば、良い怪異の存在すら危うくなるケースもある。これは過去に起きた事件でもある。世には出ない情報ではあるが、僕達内部では大事件まで発展し、てんやわんやだったらしい。
「なんでだ?」
「私が幼かった頃。小さな村で仲良かった男の子が居まして」
「人間、か」
これは意外と自然な事だ。怪異は人間に近づくもので存在に意味を成す。そこには必ず何かしらの理由があるわけだが。
まぁ、大体は……。
しかし、僕の考えとは真逆であった。
幼少期。彼女の家族は人間から見ればとてもいい家庭であった。人間の殺生を好まず、一族から離れて暮らしていたらしい。
両親、姉と雪菜。と小さく長閑な村の外れに住んでおり、その村では自分達はどの様な存在であるかも知られていた。
それを受け入れ、互いに支え合って生きてきたという。
雪菜はその村で一番に仲良くなった男の子がいたようで、数十年の歳月を共に暮らした。まるで、兄弟の様に双方の家族からも慕われている程の仲だ。雪菜は長年、歳の取り方に悩みを抱えていた。先に老いていき、逢えなくなるとか。そうじゃなく、共に老いていき、苦労を分かち合えたらな。と。
でも、その男は一ミリもその事を気にせず接してくれるうちに、雪菜は次第に彼に惹かれていったという。
そんな彼が還暦を迎えた頃だ。大きな事件が起きた。
怪異として、一族が雪菜一家を放っておくことは無かったのだ。
一人の雪女が、一家の元に現れた事により、戦闘慣れしていない両親は歯も経たなかったらしい。
一族の代表としてきたその雪女は、チャンスを与えた。
――怪異らしく、人を殺めよ。
その答えを出すには、村を襲う事以外に無かった。
それでも渋る両親に、一族の代表は雪菜の家族の話に一切耳を傾ける事なく、酷く罵倒した。
『一族の恥。
なぜ怪異として今も生きている事が不思議だ。
そんな奴らは早く死ね。とっとと死ね。今すぐ死ねと』
それに対して、雪菜の姉は。
「出来ないなら私がやる」
そう言って、雪菜を刺し、両親を殺め、村もさえ壊滅させた。
勿論、彼も。
一命を取り留めた雪菜は、姉を恨む事は無かったという。
情に厚い姉を数百年も知っていた訳だから。それに多分雪菜の姉さんは――。
そんな彼女が救われたのは、この店の蕎麦だったらしい。
店員の親身な対応に、最初は大粒の涙を溢しながら、食べたという。
以降、人を避け、雪菜は生きている。また巻き込まないように。家族からの教えを守り、今もありのままで生きていると。
「私について、結城さんはどのように聞いていらっしゃいましたか?」
「雪女が人を殺め、一部の村から何人もの被害が出していると。そう報告書には書かれていた」
「それは……少しばかり。悔しいですね」
見ていられない。そんな悲しい顔だ。
……僕がこうして彼女の言葉に耳を傾けるのは。
東京で勤務していた頃を思い出したからだろう。最初の一年。この仕事に就いて、初めて気付いた事がある。怪異にも家族が居たり、愛する人が居たり、それが人間相手って時もあった。
盲目。と言われればそうなんだろう。そこに対して、覚悟が足りていなかった。怪異に命乞いをされる度、僕は切っ先を下ろしてしまう。それが正しいと思い。
でも、その行動に対して周りから投げられる言葉は『なんでここにいるんだお前。所詮七光りか』だった。だから変わろうとした。自分の心を押し殺して、すり減らして。そうして退治できるようになれた。
けれど、周りからの僕に対しての評価は変わらず。それだけじゃない。僕を知らない人まで僕をそういう人間だと決めつける。いつしか、僕は笑う事が出来なくなった。
不思議なものだ。人って、案外簡単に笑えなくなる。弱く脆い。
なのに、彼女は笑う。僕よりも酷い仕打ちに合ってきたというのに。
僕だって世間に負けず、雪菜の家族のように、自分を貫き通したかった。
――今の僕という存在は嘘なのだ。
そんな僕でも、今思う。彼女とこうして話が出来て良かったと。でなければ今頃。
「でも、今私は安堵しています」
「どうして?」
「だって私はこの後あなたに退治される訳ですから、本当にありがとうございます。怪異殺しとか物騒なお仕事ですけれど、私はそれに救われます。もう後ろ指を差されずに済みます」
深々と頭を下げ、無理に笑う雪菜の表情に僕は。
「僕は君を退治しないよ」
絵に書いたようだ。僕を見る彼女の緋色の双眸が見開く。しかし、直後目を俯かせ。
「それは結城さんに迷惑を掛けます。いいんです。もし情を持たせてしまったのならば、申し訳ございませんでした。決してそのつもりでは――」
「僕は迷惑だなんて思わない。虚偽報告なんて楽勝だ。それに情なんかじゃない。もっと確かなものだよ。こうして飯を食べて話をしたからこその結果。君がどうであれ、僕の意見は決して変わらない。君はいい怪異だ。また後ろ指差される事があれば、僕が――」
思わず言葉が詰まった。
自分で言って情けない。嘘が本当に向き合えるわけがない。
周りから認められたくて、僕はここまでやれる人間だ。だから噂に惑わされず判断して欲しい。
そう思っていたのに、今ではただ与えられた情報を元に、それを信じ、そうと決めつけ退治している。その方が楽だったから。
でも、結局。そうじゃない。この仕事に就いたばかりの僕は間違っていなかった。純粋にどんな人間も怪異も、噂に惑わされず、まずは向き合う事を大事にしていたあの頃。
僕もこれを期に、戻れたらって思う。遅くはない。そんな簡単な事じゃないだろうけど。
でも今の僕にも出来る事がある。僕は雪菜を死なせてはいけない。どんな事を犠牲にしても、仰々しく言えば、世界を壊してでもってくらいに。守り抜きたいと。
その自信だけはある。怪異が十匹相手であろうと勝ち続けてきた僕だからこそ。
だからいつか。彼女に。
「……」
僕達はそれから暫く何も話す事はなかった。残りの蕎麦と天ぷらを食した僕達は店を出ると、外は雪が降り始めていて。
真っ暗闇の空を見上げ、ぽつりと。
「……僕が君に本当の僕を見せられるまで、そばに居てほしい。それじゃぁ、ダメかな?」
「え?」
「え?」
振り返り、固まる彼女を前に降る雪が頬に触れ、自分の顔が熱くなっている事に気付く。
僕、今滅茶苦茶な事言ったな。
「い! い、いやその。ぼ、僕は君を信じるし? 君の生き方も尊重する。勝手なのも重々承知だけど。どうしていけば解決するのかまだ分からないけれど」
テンパってて何言ってんのか分からねー。でも。
雪菜を見詰め、僕は拳を握りしめた。
「でも一つだけ分かっていて欲しい。僕は君の味方だ。後ろ指を差す連中らからだって守って見せる。兎に角、もっと笑って生きていて欲しいんだ。だから……交換条件って事で」
「交換……?」
「また旨い店を教えてくれないか? 一緒に飯を食べたいからさ。その、さっきだって詳しかっただろ? 僕はまだ青森について何も知らないし」
途中から尻すぼみする僕は、彼女の顔が見れず、暫く返事が返ってこない事で、自分が俯いていた事に気付いた。再び、僕は顔を上げると。
彼女は涙で頬を溶かし――。
「喜んで」
そう声を震わした。
またここから始められますように。