第二章 拉麺編 ①
歓楽街の外れで翻る朱色の暖簾の外にまで、食欲を掻き立てる芳しい匂いが漂っている。冷えた夜空の下、格子戸の硝子に透ける温かな灯りと相まって、客の足を掴んで離さない店だ。沢本は改めて感心しつつも、深呼吸して気持ちを引き締め、「拉麺一龍」と白く染め抜かれた暖簾を潜った。自動的に開いた格子戸の奥、カウンターの向こうでこちらを見た父親の顔が、途端に険しくなる。「いらっしゃい」の一言も掛けられないまま、沢本は無言で、空いているカウンター席に座った。
「一龍大盛り、煮卵、葱増し」
短く注文し、再び沈黙する。注文の復唱はない。父親は他の客達と言葉を交わしつつ、麺の入ったてぼを茹で機に浸け、並べた丼に寸胴鍋から掬った豚骨スープを注ぎ、先ほどとは別のてぼを上げて麺を綺麗に盛り付け、手早くトッピングを施して、喋っていた客達の前に置く。
「お待ちどう」
客達への朴訥な声かけと流れるような動きのついでのように、沢本の前に、ごとりと水のグラスが置かれた。一ヶ月前までは母親がしていた役割だ。長年の立ち仕事が祟ったのか、膝を痛めて店に立てなくなった母親の代わりを、父親は決して雇おうとしない。自動販売機や自動給仕を導入しようともしない。母親への愛ゆえだろうが、このままでは父親まで体を壊すことになると案じていた沢本の許に、意外な報せが来たのが今日だった。
「あれ、ひでちゃんじゃないか」
常連客の一人に、とうとう気づかれて声を掛けられた。
「御無沙汰しています」
立ち上がって会釈した沢本に、カウンターの一番端の指定席にいた常連客の石井は、分厚い手をひらひらと振り、眼鏡の奥の目尻に皺を刻んで笑う。
「道理で、かずちゃんの機嫌が悪くなった訳だ」
「かずちゃん」とは、一樹の愛称。即ち沢本秀樹の父親のことだ。石井は開店当時からの昔馴染みなのである。
「そろそろ帰ってきて、この店手伝ったらどうだい? さっちゃんのことは聞いてるんだろう?」
「さっちゃん」とは、母親の幸恵のこと。明け透けに言われて、沢本は首を竦めた。
「今の仕事にやり甲斐を感じているので……」
拉麺店の仕事を軽んじている訳ではない。しかしカウンターの向こうに立って、来る日も来る日も拉麺を作り続けている自分を想像できないのだ。それで父親とは不仲になって、既に三十年だ。用事がなければ、この店に寄ることもなかったーー。
ごとんと、沢本の前のカウンターに拉麺丼が置かれた。並々と注がれて輝いているスープは豚骨。大盛りのストレート麺は中太。トッピングは焼豚と麺麻と増し増しの葱と煮卵。美味しそうだ。拉麺店で働く気はないが、拉麺は大好物で、中でも、看板メニューであるこの一龍拉麺は幼い頃から毎日でも食べたい拉麺なのだった。
「ありがとう」
小さく礼を述べて、箸を取り、沢本は早速麺を口に運ぶ。豚骨スープが絡んだ麺は、香りも味も舌触りも歯触りも、喉越しまで申し分ない。
(旨い。さすが親父)
焼豚も口に運ぶ。香ばしい脂身の甘さが堪らない。その余韻が残る内に次の麺を啜る。美味しい。口中が喜んでいる。次は煮卵だ。スープと一緒に口に含み、ゆっくりと潰す。濃厚な味が口一杯に満ちた。
(ああ)
飲み込むのが勿体ないほどの旨味。感動とともに咀嚼し、煮卵を味わい尽くしてから、沢本は更に麺を啜る。旨い。葱も旨い。麺麻の味も歯触りも最高だ。濁った豚骨スープの酷も堪らない。スープの最後の一滴まで心に刻んでから、沢本は一息ついて顔を上げた。こちらを見ていたらしい父親が、ふいと視線を逸らす。構わず、沢本は心の底から言った。
「御馳走様でした」
父親が、この一杯にどれだけの労力を費やしているか知っているからこそ、「御馳走」だとしみじみ感じる。石井が破顔した。
「相変わらず、いい食べっぷりだなあ」
「この拉麺が大好きなので」
満足感のまま微笑んで応じ、沢本は箸を置いた。今日ここへ来た目的は、残念ながらこの拉麺ではない。もう十五分ほどで、閉店時間の深夜零時が来る。客達が帰った後、父親と、あることについて話さねばならないーー。
「……い、おい、いつまで寝てる気だ」
不機嫌な父親の声に、沢本ははっと目を開けた。いつの間にか意識が飛んでいた。石井や他の客達の話を何となく聞いている内、寝てしまっていたらしい。カウンターの上に乗せていた両腕を下ろし、沢本は父親を見た。カウンター内の片付けはほぼ終わったらしく、父親は前掛けを外して布巾と消毒液を持って客席へ出てくるところだ。清掃の邪魔なので声を掛けてきたのだろう。
「ごめん、ちょっと疲れてて」
椅子から下り、沢本はカウンターから離れた。父親は、いつも綺麗に磨き上げている木製のカウンターを、念入りに拭いていく。その、以前よりも痩せた背中に、沢本は問うた。
「うちの会社の人工知能育成計画に、親父が応募したって聞いた。どういうつもりだ?」
自然、口調が険しくなってしまう。父親には、店を継がないことへの腹いせのように、いつも擬似人格電脳育成社での仕事を貶されてきたのだ。
「どういうつもりも何も、ただで使える労働力って話だから、ものは試しと思っただけだ。おまえが聞いたってことは、おれは選ばれなかったってことか。個人情報保護も何も、あったもんじゃねえな」
暗に、応募を握り潰したのかと問い返されて、沢本は荒く溜め息をついた。
「逆だよ。親父は契約者として選ばれた。だから、おれが最終確認に来たんだ。本気で、擬似人格電脳を搭載した人造人間とーー死ぬまで暮らすつもりか?」