神の奇跡
ルーと人型になったククルに肩を借りながら宿に戻ってきたキトリーの顔色は蒼白だった。単純に血を失いすぎていた。加えて戦いの中、脳内を巡るアドレナリンのお陰で感じていなかったが、吐き気を催すほどの激痛が襲っていたのだ。キトリーは歯を食いしばって絶えていたが、熱も出はじめ呼吸も荒くなっていた。
部屋の戸をノックすると、「はい」とすぐに返事は帰ってきた。
「イーナさん、お願いがあります」
ルーは扉が開かれるのをじっと待った。節約を考えながらも、一緒の部屋で過ごすのはキトリーとイーナ二人の精神衛生上良くなかったので部屋を分けていた。永遠にも思える時間を待つと、部屋の戸がゆっくりと開かれた。満身創痍のキトリーの姿に声を失う。
「キトリーの治療をお願いします!」
ルーが真摯に頭を下げる。つられてククルも頭を下げ、キトリーも朦朧とする意識の中、それに続いた。
一瞬の逡巡。
しかし、すぐにイーナは部屋に入るように手招きした。
「ベッドに寝かせて」
部屋の中に入り、ベッドにゆっくり腰掛けると、時間をたっぷりと使って横になった。ほんの少しの振動だけでも腕をハンマーで殴られたような激痛が走るのだ。
「お湯を貰ってきます。それから、何か必要なものはありますか?」
「ろうそくを買ってきて。最低4本あればいいわ」
「わかりました」
ルー達が外へと駆け出していくと、イーナは自分の荷物の中から一枚の大きな布を取り出した。藍色の布には金色の糸で刺繍が施されている。クルシュナ教のシンボル、中央に大きな丸があり、そこから上下左右に線が延び、両端にも小さな丸が描かれている。
中央の丸が創造主を表し、四つの丸が創造主を支える4柱の神を意味している。
イーナが布を広げ、窓の前に小さな釘のようなもので固定する。窓から入る光が布を通して、床に注がれる。金糸で施された刺繍の部分だけが、奇妙に浮かび上がる。イーナは荷物から香木を取り出し、火をつけた。煙と共に、部屋に落ち着いたにおいが広がっていく。
「動ける?」
「え、ええ」
辛うじて返事をしてキトリーは立ち上がると、イーナが布団を剥ぎ取りベッドを動かした。床の上に浮かび上がっていたクルシュナ教のシンボルがベッドの上に映りこむ。彼女の指示に従って、キトリーは創造主を意味する中央の丸が体の中央に来るようにベッドに横たわった。
そのとき、バタバタと足音が廊下から響き、ルーが部屋に飛び込んできた。ほんの僅かの間に変わった空気に一瞬たじろぐも、ルーは手に入れたろうそくをイーナに差し出した。ろうそくに火をつけ、四柱を意味する四つの丸に一つずつ並べていった。
「悪いけど、部屋から出てもらえる」
「で、でも・・・」
「治さなくてもいいの?」
イーナの言葉はルーを黙らせるのに十分だった。ルーは不安そうな顔をしたまま、キトリーの手を一度触れるとそのまま部屋を出て行った。いつの間にかイーナの手には銀細工で作られたクルシュナ教のシンボルが握られている。キトリーの横に身をかがめた。
「これから儀式を始めます。祈りの言葉は分かりますか?」
「え、ええ・・・」
神の家にいるときは、朝と夕の礼拝で毎日唱えていたのだ。かなり前のこととは言えしっかりと覚えていた。
「傷はかなり深そうです。儀式の終了まで数時間掛かると思いますが、その間祈りの言葉を絶やさないようにしてください。声が出なくても、決して絶やさぬように」
「はい」
キトリーは苦しそうに返事をすると、祈りの言葉を口にする。
「天におわす四柱の神々よ。
其は我等に与えるもの。
其は我等を救うもの。
其は我等を罰するもの。
其は我等を許すもの。
我等は其を尊び、
我等は其を愛し、
我等は其に感謝し、
我等は其に請うもの。
日々の糧に感謝し、己の罪を見つめ、
他者を敬えるよう お導きくださいませ。
クルシュナの光を注ぎますように。
エン・ラーナ」
キトリーの祈りの言葉を聞き、満足そうに頷くとイーナは怪我を負っている左腕の前で膝をつき額を近づけた。キトリーの耳に届かぬほどの小声で、クルシュナ教の祈りの言葉を口にする。そのまましばらく俯いていると、彼女の体がぼんやりと輝き始めた。
金色のオーラは神の威光を称えるように神々しく美しい。
イーナは前を閉じたまま、祈りの言葉を唱え始めた。クルシュナ教の祈りでない。ルーの唱える精霊魔法ともこのなるまた別の言語。神々の言葉なのだろうかとキトリーは朦朧とする意識の中で考える。イーナの祈りの言葉が、体の中に流れ込むような錯覚を覚えた。
仄かに温かく、湯船に使っているときのような心地よさがある。
いつの間にか左腕を襲っていた激痛が和らいでいる。痛みが完全に癒えたわけではないが、随分とマシになり、祈りの言葉を唱えるのが楽になった。
何十回、いや何百回目の祈りの言葉か分からなくなった頃、左腕から痛みが消えた。痛みだけでなく感覚そのものが無くなっていた。指先から手首、腕、肘、肩。キトリーの目に見えるのに、存在が感じられなかった。イーナのほうをみようとしたが、まぶしくて何も見えない。
それほどの異常事態にもかかわらず、キトリーの中に焦りは無かった。流れ込んでくる神の力は、キトリーの精神をも安定させていた。ただ、心地よい感覚だけがそこにあり、身をゆだね続けた。
ろうそくは半分ほどの長さになっており、儀式が始まったとき、窓から光が入っていたけどもすっかり日は落ちて、外は暗くなっている。しかし、日の光を受けて浮かび上がっていたはずのクルシュナ教のシンボルは絶えずベッドの上に残っている。
ガイララトウの牙で穿たれた肘の周りの傷跡はすでに見えなくなっていた。倍ほどに腫れあがっていた腕も、元の状態に近づいていた。儀式の終了は近そうだった。
祈りの言葉を唱え続けたキトリーの喉はカラカラになっていたが、不思議と痛みは無く、徐々に左手の感覚が戻ってくる。指先から掌、手首と凍りついた体をお湯に入れたときのように先端から少しずつ己のものとして取り戻すことが出来た。そのときには燃えるような痛みはどこにも無かった。
「…終わりました」
イーナの言葉を聞いて、ゆっくりと身を起こす。先ほどまで光に包まれて見なかったイーナの顔が薄暗い室内でしっかりと見えた。奇跡の代行に彼女はつかれきった顔をしている。キトリーは左腕の状態を確かめた。バキバキに砕かれたはずの肘は、見た目には何の痕跡もなく元通りである。親指から一本ずつ曲げていき、動きをていねいに確認する。完治しているのは疑いようも無かった。
「ありがとう」
キトリーはそれだけ口にすると、強烈な眠気に誘われてそのまま意識を失った。
次回、ルーの進む道




