蘇生術
「行きましょう!」
二人はあわてて駆け出した。水路を見下ろす人々の様子を見ていれば、人が落ちたのかもしれないと思ったのだ。アシュートの街の背後にはカラビナという山がそびえ、そこから流れ込んでくる水が街の水路を作っている。いまの時期は雪解け水が多く流れ込み、水位が増している上に冷たい。落ちた瞬間に心臓が麻痺していてもおかしくないし、すぐに低体温症になる危険もある。
水路まで駆け寄ったとき、10歳くらいの少年が浮かんでいるのが目に付いた。うつぶせに浮かぶ少年にもがくような動きは見えず、意識を失っているのが分かった。すでに心臓が止まっている可能性すらある。
「ルー、お湯を貰ってきて」
短く指示を飛ばすと、背後から上がる悲鳴を無視してキトリーはジャケットを脱ぎ捨てて水路へと飛び込んだ。凍りつきそうな水温に心臓がびっくりするけども、きちんと鼓動は続いている。水深は深いけれども、水の流れはほとんど感じられない。少年の姿を捕らえて泳ぎだす。
長く浸かっていたらキトリーと言えども、すぐに体が動かなくなるだろう。これは時間との勝負だ。
キトリーは少年の側まで来ると、呼吸できるように体をひっくり返す。口元に耳を寄せても、呼吸している気配は無い。手足が震えていて確かなことはいえないけども、心臓の鼓動も感じられなかった。
「誰か、引っ張りあげて」
キトリーが悲鳴のように叫ぶと、野次馬達も動き出す。夏の増水にも耐えられるように、水路は深くはしごの無い場所で上に上がるのは困難を極めるというのに、はしごが近くに見えなかった。キトリーは冷たい水に一度深く沈みこむと、少年の体を肩車できるようにして持ち上げた。
ぐにゃりと力の入らない体を持ち上げるのはかなり厳しい。足がつけば、それでも良いのだろうが立ち泳ぎではあまり高く少年を上げることは出来なかった。水路の上では男の人が地面に横になって懸命に手を伸ばしてきた。彼が落ちないようにと数人が体を支えている。
キトリーは水路の壁に少年の背中が来るように無理矢理バランスを取ると懸命に水を蹴って体をうえに持ち上げる。男の人の手が届くようにと、キトリーはその状態から男の子を両腕の力だけで持ち上げた。少年の肩に辛うじて男の人の手がかかる。
そこまで行けば後は、何とかなるだろう。少年が引き上げられると、入れ替わるように野次馬の一人が棒切れを持って戻ってきた。キトリーは下ろされた棒に両手で掴むと、どうにか体を引っ張りあげる。
-寒いっ!!
歯がガチガチと打ち鳴らされ、唇は真っ青になっている。両腕を抱きしめながら、先に引き上げられた少年の様子を見ようとした。少年の周りには人だかりができていて、すぐ横でひざを突く神官を除き、皆少しばかり距離を取っていた。沈痛の面持ちで見下ろす姿を見れば、手遅れにしか見えなかった。
少年の傍らの神官は自分の力の及ばぬことを悔しがるように首を左右に振った。いくら奇跡の代行者といえども、心臓の停止したものには手の施しようがないのだ。それが限界であり、この世界の理である。だが、
-冗談じゃない!
キトリーは奥歯をギリっと噛みしめると、凍える体を熱くするものを感じた。
「どいて!」
有無を言わさぬ彼女の声に、為すすべなく立ち尽くしていた神官は一歩後退した。水に落ちてそれほど時間は経っていない。まだ、蘇生は可能なはずだった。キトリーは少年の口の中に手を突っ込んだ。体の表面は冷たく冷え切っているけども、体の中は十分に温かい。冷たければ彼が別の場所で落下して流されてきた可能性もあった、でも、落下したのは間違いなくすぐ近くなのだ。
少年の気道を確保して息を吹き込む。
少年の顔を見ながら、胸部圧迫を行う。
1、2、3、4、5…
再び少年に息を吹き込む。
心肺蘇生法を見るのは初めてなのだろう。キトリーの奇行に周囲からどよめきが起きる。
「ちょっと、うちの子に何を?」
母親らしき女性が詰め寄ってくるけども、キトリーは彼女を無視して人工呼吸を続ける。これが蘇生の措置だと知らないものからは、異常な風景にしか思えないだろう。成人前の子供、それも死者に向かって接吻をする成人女性の図というのは、死者を愚弄する行為に見えても仕方ないのかもしれない。
「下がって」
キトリーは獲物を狩るときのごとく、母親を邪魔をさせないように一喝する。彼女の気迫に気圧されるように、母親はたじろいで後退する。息の吹き込みと、胸部圧迫を交互に繰り返すこと数回目にして、少年の口から水がごぽっと吐き出された。
「キトリー、お湯貰ってきました」
タイミングよく鍋に入れたお湯をルーが両手に抱えて持ってくる。
「ありがとう」
キトリーは水を吐き出した少年の心音を確かめ、確かに蘇生したことを確認すると体を持ち上げて残りの水を全て吐き出させた。乱暴にも見えるやり方に周囲から悲鳴が上がるが、直後少年が咳き込みながら意識を覚醒させた。
「ごほっ、げほっ」
死んだはずの少年が生き返るという奇跡に周囲の目は冷たい。
「…お母さん」
少年が母親の姿を確認すると、よろよろと歩いて彼女の胸に飛び込んだ。本来なら抱きしめるところだけども、母親は呆然と立ち尽くしていた。目の前の少年が、息子が生き返ったという奇跡。神官すらお手上げだった状態から復活したというのに、彼女の顔に喜びは見られない。
キトリーは釈然としないまま、ルーが持ってきてくれたお湯の温度を確かめると少年の冷え切った体にかけた。母親ごと濡れてしまうけど、この際仕方がないと割り切る。
「どうしたんですか?」
「わかんない」
不思議な周囲の様子に小首を傾げるルーにキトリーは率直に答えた。感謝を求めたつもりは無かった。目の前におぼれていたものがいたから助けた。心臓が止まっていても助けられると知っていたからただそうしただけだ。だが、この反応は余りにも想定外だった。
「…魔物化したのか…?」
誰が呟いたか知れない言葉にキトリーはハッとした。心肺蘇生術を知らないこの世界の人たちにとって、止まった心臓が再び動き出すことはありえない。死体が動き出す理由はたった一つしかないのだ。
「ま、待って。この子の心臓は止まってなかった」
あわてて口にするキトリーの言葉は神官によって否定される。
「いや、この子は死んでいました」
己の力なさを恥じるように神官が呟く。
通りすがりの女性と、クルシュナ教の神官の言葉。人々が信じるのは、もちろん後者だ。その上、少年を水路から引き上げるまでの行いはともかく、その後の彼女の行動を理解できるものはいなかった。
奇妙で奇怪、異様とも言える少年への口付けとリズミカルに胸を押さえつける奇行。
「あんた、何をしたんだ。普通死体はこんなに早く魔物化したりしない。あんたがやったのか?」
「ち、ちがう。その子は魔物じゃない。確かめれば分かる。その子の心臓は動いている」
キトリーの必死の叫びも、違う常識の前には通用しない。キトリーからすれば自明のことでも、知らなければただの蛮行。一人も味方になりそうな人がいなかった。キトリーは助けを求めるように、助け出した少年の母親に視線を合わせた。だが、少年の母親は恐怖に顔を引きつらせると、自分の息子を突き飛ばした。子供が生き返ったと思うよりも、魔物に抱きとめられたと彼女の中の常識が答えを出したのだ。
-ダメだ
「お母さん?」
何が起きたか把握できていない少年の悲痛な声が耳に入ってくる。次の瞬間、キトリーを引き上げるために使われた棒が少年に向かって振り下ろされた。軌道は見えていた。でも、寒さに凍りついた彼女の体はいつものようには動かなかった。
「あ、あ、あ、あ…」
喉から絞り出される声。目の前で少年の頭が砕け、鮮血と脳漿が飛び散った。
「うそっ」
蘇生を知らないルーには助けられた少年が惨殺される異様な光景に映ったのだろう。口元に手をやり、目の前の悪夢から視線をそらし嗚咽を洩らした。少年の母親は二重のショックから自失している。そして、野次馬連中が動き出す。
「魔族だ。魔族がいるぞ!」
恐怖は伝播する。一人があげた悲鳴に人々が続く。少し前から起きていた騒ぎに、人が集まり始めていた。そして、起きた少年の惨殺事件。だが、それは魔物化した元人間を殺したものだと人々は認識している。一番の問題は、死体の魔物化を促した一人の女性である。
「ルー。ごめん」
冷たい川に飛び込んだキトリーの体は、活動できなくなるほど冷え切っていた。体は小刻みに震え、唇だけでなく顔面は蒼白になっていた。少年を助けたいという思いに突き動かされて、限界以上の力を出していたけども、一度救った命が無残にも刈り取られたことで、彼女の心はへし折れた。
意識が混濁し、キトリーは目を閉じた。薄れゆく意識の中で自分を心配するルーの声だけが遠く聞こえていた。
次回、教会との取引




