地獄
奴隷としてキトリーたちに割り当てられた仕事は、下水道内部を歩き回り上層から落ちてくる下水の配管につまりがないかを見て回ることだった。石造りの地下道の真ん中を幅4トールほどの下水が流れ、その両脇に1トール半ほどの通路が走っている。
通路を歩いていると、時々壁際から飛び出ている頭ほどの太さの配管があるので、手にしている大きな耳かきのような掻き出し棒を使って下水の方に溜まっているものを取り出すのだ。
この作業を怠ると街の上で生活している人たちのトイレなどに逆流してしまうのだ。配管はもちろん真横に出ているわけではないのだけれども、長く使っているうちに変形したり、劣化して出来た僅かに溝などに何かが引っかかり、そこにどんどん堆積していく。下水システムができた当初から、この問題の解決はされることなく奴隷の仕事として受け継がれていた。
一通り仕事の説明を受けた後は、キトリーとルーは別々になって仕事に取り組むことになった。キトリーには母親が監視役として付いており、ルーにも別の人間が一緒に行動している。配管の掃除は一人でも出来る仕事になるのだが、しばらくは監視役が離れることは無いだろう。ルーのことが心配だけども、キトリーにどうにも出来なかった。
一度は母親を売り渡したとはいっても、小さい頃から受けていた虐待の記憶が消えてなくなるわけではない。騎士と同等以上の戦闘技術を有していても、潜在的な恐怖を植えつけられているキトリーは母親に逆らうことは簡単ではなかった。
背後の視線を感じながら、新たな配管を見つけたキトリーは掻き出し棒を突っ込んで、溜まっている汚物を下水に向かって落とし込んだ。直後、配管から大量の汚物と共に水が流れてきた。
「うわっ」
あわてて身を引いたけども、体の半分は汚物にまみれていた。これがこの仕事の最悪の点である。配管掃除をしているタイミングに、街に住人がトイレを使用することもあるのだ。それを察知することは不可能である。タイミングが悪ければキトリーのように汚物まみれになる。
逃げ腰で掻き出し棒を入れようものなら、後ろの母親にぶたれるのは確実であるし、詰まっている汚物を掻き出す事ができないので、監視の有無に関わらず正面で作業をするしかないのだ。一日に掃除をする配管は100本程度あるが、不運に見舞われるのは二日に一回くらいのことである。それが多いのか少ないのか分からないが、最悪な気分になることに変わりは無かった。
キトリーもルーもどういうわけか仕事初めの日にこの強烈な洗礼を受けることとなった。仕事を終えて戻ったところで、全員から大笑いされたことも記憶に新しい。だが、これはここで働く奴隷が誰もが通る道なのだろう。クソまみれの仕事に違いは無くても、こんな風に汚物を全身に浴びるポジションは配管掃除くらいのものである。
仕事は一日の半分で食事は朝と夜の二回のみ。食事もほとんど栄養のなさそうなパンとスープ、たまに腸詰が出ることがあるけども、それらは母親を筆頭としたボスの取り巻き連中に取り上げられるので、新入りのキトリーとルーが肉を口にする機会は全く無かった。
母親の慈悲など初めから期待していないキトリーは、奪われる腸詰は無視してもくもくと食事をしていた。だが、まともに食事が出来るようになったのも、二日目の夜からだった。食堂といえでも下水の匂いが充満していて、とてもじゃないが食べ物が喉を通らなかった。
それでも、空腹の限界が来た二日目には何とか半分ほど胃に収めることができた。ルーは三日目の朝に、パンを少しだけ食べることができたけども、それも仕事が始まったらすぐに戻してしまったそうだ。そんな生活がようやく5日目に入ったところで、ようやくまともに食事が出来るようになった。
匂いになれたわけではない。臭いことは臭いのだ。だが、いつまでも鼻を押さえていても無駄だと悟るのだ。最初に来た時は下水から漂う悪臭だったが、それはいつの間にか自分の匂いとなっている。一日に一度、仕事の後に短い時間ながら、シャワーを浴びることは出来る。石鹸などあるわけもないのだが、シャワー室に入ると先輩奴隷に灰をぶっ掛けられて、それを体中に塗りたくりながらシャワーで流すだけである。灰の殺菌効果がどれほどのものか分からないが、汚物まみれになった後の体をそんなもので洗ったところで十分だとは思えなかった。
ルーとはいつもお湯を入れた桶で、お互いの体を拭いたりしていたものの人前で裸になることに躊躇していたのだろうが、他の奴隷達の手によって服を脱がされ丸裸にされた。
キトリーたちを含む新人は同じ部屋に放りこまれていたので、最初の夜は一晩中泣いているルーを抱きしめて眠った。うるさいと文句を言ってくる先輩奴隷もいたけども、母親が同じ部屋にいなければ、キトリーに恐れるものは無く、一睨みするだけで彼女達は静かになった。
「キトリー、ちょっと来な」
仕事を終えてシャワーを浴び、食事が終わったところで母親に呼び出された。彼女の周りにはいつも取り巻きのような連中が4人はいた。年齢も同じくらいに見えるので、同じ時期に捕まった連中なのかもしれない。
「何?」
「それが、母親に対する態度か?えぇ」
軽く頭をはたかれて、キトリーは奥歯をきつく噛みしめた。その気になれば、母親を含めて取り巻き連中も一瞬で倒す自信はあるのに、体がすくんでどうしようもなかった。
「何ですか」
「お前と一緒に入ってきた娘がいるだろ。ルーとかいったか?中々可愛いじゃないか」
母親の下卑た笑みに、嫌な予感がした。
「明日、兵士が巡回に来ることになっている。お前達が入った次の日も巡回の日だったから、覚えているだろう。連中は一週間分の食料を持ってきた後は、私達の仕事の進み具合を確認する。私達が外と僅かながらも接触できるのはその日だけだ」
「…何が言いたいんです」
「こんな薄暗い地下で過ごすってのは精神的にきついとは思わないか」
「だから、何が言いたいんです」
言葉が徐々に強くなるのを抑えられなかった。次にどんな言葉が出てくるのか想像するだけで吐き気がする。
「兵士達もいつも同じ連中でな。まあ、顔なじみになっている。だから、ある程度はこちらの話にも耳を傾けてくれるんだ。キトリーは何かほしいものはないかい?母さんが頼んであげてもいいんだ」
甘い誘惑をささやくときの、母親の声色を聞いて背中がゾクゾクとした。小さい頃、ほしいものをねだったとき、決まって母親はそんな声を出した。
「ああ、そうか。じゃあ、買ってやろうか。その代わり…」
と、子供のおねだりにも決まって対価を求めてきた。そんな母親が、何の交換条件も出さずに「頼んであげる」などと甘いことを言うはずがない。
「ここに来る兵士共は下っ端連中でね。脛に傷のあるものも多い。まともな兵士に比べると割と融通が利くんだ。さすがに外に出るのは無理でも、街にある甘いお菓子を買ってきてもらうくらいならしてくれる」
「でも、ただではないんでしょ」
にやりと母親が口元をゆがめた。
「ああ、やっぱりお前は聡い子だね。お前の連れていた娘なら、兵士もよろこんで抱くだろう。まだ、ここにきて日も浅いし、そこまで酷い匂いもしないだろうからね。まあ、もちろん、そのときには石鹸でキレイに洗ってあげるさ。きれいに成れたらあの子も喜ぶんじゃないかい?」
「ふざけないで」
怒鳴り散らしたかったけど、キトリーの口から出たのは震えるようなか細い声だった。
「お前も若いからどうかと思ったんだ。他の連中も、キトリーは美人だってほめるからね。母さんとしてはうれしかったさ。でも、やっぱり実の娘にそんなことをさせるわけにはね」
母親の蛇のような目が怖かった。
娘を兵士に差し出すことを微塵も躊躇わないだろうという確信があった。教育係に名乗りを上げられたときは、戦々恐々としていたけども、奴隷としての生活で、時々叩かれたり、腸詰を取られたりしたといったことはあったけども、密告したことへの復讐としては些細なものだった。余りにも生ぬるいと感じていた。
だから、安心することなどキトリーは出来なかった。たった八年とはいえ、母親の性格は熟知している。きっとどこかで何かを仕掛けてくるはずと思っていた。それが、まさかこういう手段を使ってくるとは思っても無かった。母親もまたキトリーのことを理解しているのだ。
だが、考えてみれば分かることだった。普通の奴隷達と違い、母親とその取り巻き連中の衣類はマシで、見た目も整えられていた。何らかの恩恵をどこからか引き出していることは明らかだったのだ。
キトリーは男達の慰み者になっても平気だと嘯くことは無い。でも、自分の所為でルーがそういう目に遭うのは、もっと我慢ならなかった。そういう性格が完全に読まれていた。キトリーは前世の記憶があるために、人助けをしていると思っているけども、根本的に善良な人間なのだ。自己よりも他者を優先する。そういう性格になったのは、天界の記憶があるからかもしれない。でも、彼女の人格はそのように形成されている。
「あの子を説得してくれよ。私より仲のいいお前が説得したほうが良いだろう。ここにいる皆のためになるんだ。別にあの子だって損をするわけじゃない。たっぷり楽しめばいい。聞いた話じゃ、兵士達はなかなか良いものを持っているらしいよ」
くくくっと下品な笑い声を上げ、周囲のものも同調して大きな笑い声になる。母親が屑だというのは生まれてすぐに気付いていた。だが、母親の横暴を許すわけには行かないが、どうしても逆らうことができなかった。
キトリーは両親を保安局に売った日のことを思い出していた。どうやって勇気を奮い立たせたのだろう。他に方法がなかった。それほどまでに追い詰められていたのだ。いまもそうじゃないだろうか。キトリーがこの場で要求を突っぱねたところで、母親と取り巻き連中は力づくでルーと兵士をどこかの部屋に閉じ込めるだろう。
-私がどうにかするしかない
ルーを守る。その誓いは口だけなのかと自問する。あの時、あの瞬間、ルーの言葉に救われたのはソールズベリー領の人々だけでなく自分だったと自覚する。彼女を守ることを人生の目標と見定めたというのに、あれから何度ルーを危険な目に遭わせただろうかと、己の不甲斐なさを噛みしめる。
「…私が相手するよ」
搾り出すようにそう口にし、母親の口が裂けるほどにやりとゆがんだ笑みを形成していた。
次回、母親




