世界の仕組み
人が並んでいる。
それも無数の人だ。
いったいどこまで続いているのか前のほうは霞がかかっていて用と知れない。それだけではなく列は縦横無尽に走っている。空間は白で埋め尽くされ、立っているのが地面かどうかも定かではない。三次元的に展開される人々の列はねじれの位置にあり決して交わることはなかった。
自分がいつからここにいるのか、どれほど長い時間列の一部を形成しているのか、まるで記憶にない。意識が覚醒しているようで混濁している。
自分の名前はわかる。
加古川美玖。
それを認識すると、徐々に記憶が鮮明になっていく。
最後の記憶。
白い清潔なシーツ、消毒液の匂いのする病院の一室で美玖は眠っていた。
そうか、私は死んだのか。
慌てることもなくただ事実を確認するように自問する。
突然の死ではなかった。3か月間の闘病生活。まだ、29歳という若さで死んだことに後悔はあるけども、受け入れる覚悟は徐々に衰えていく肉体とともに自然とできていた。
だとしたら、ここは天界なのだろうか。
死者の列。
きっとこれから、閻魔様の裁判を受けるのかもしれない。
想像していた場所とは違うけども、死んだことのある人間などいないのだから当然か。思考を止めるものはない。なんだったら、この列から飛び出すこともできるのではないかと思うけども、不思議とそんな気分にはならない。歩いている意識もなく、少しずつ前に進んでいる。
時間の経過を知るすべはないし、そもそも時間の概念があるのかも定かではない。ただ、何となく自分の番が近いことがわかる。
目の前の人たちが少なくなっていた。
列の先には何も見えない。深い霧のような白い靄の中に一人、また一人と消えていく。
そして、自分の番が回ってくる。
白い世界に、白いテーブルと白い椅子。白い服を来た男の人。目の前にあっても特徴のない顔。人種すら判然としない不思議な男。東洋人か、白人か、黒人か、はたまたラテン系なのか、年齢も何もかもが分からない。目を閉じただけで、記憶から消えてしまいそうなほど印象が残らない。
閻魔様というよりただの役所のカウンターに座る事務員のよう。
無自覚に男の前に立つ。
「加古川美玖、-17点。」
「はっ」
驚いて声を上げて、その時初めて声を出せるということに気が付いた。
「-17点?」
「あなたの生涯で獲得した業です。善行は加点され、悪行は減点される」
抑揚のない無機質な声。
「ま、待ってよ。別に善人だなんていうつもりはないけど、だからって悪行なんて何も」
美玖は小市民だ。ボランティアに参加するほど、積極的に善行をつくこともなかったけども、決して悪行といわれるような行いをした覚えもない。どこにでもいる普通のごくありきたりの経理課の会社員だった。
「私が一体何をしたっていうの」
「輪廻は巡り新たな生を受ける。説明したところで記憶にも残らない。意味のある行いとは思えませんが」
「そ、それでも知りたいのよ」
「仕方ないですね」
やれやれと溜息をつくしぐさをする。実にわざとらしい。仕草だけは嘆息しているのに、言葉は棒読みでどんな感情も感じられない。なんだかんだで全員に説明しているのだろう。聞きたがらない人がいるとは思えない。
パラパラと台帳のようなものをめくり、美玖の生涯に行った善行、悪行のリストを確認する。
「そうですね。一番大きなところで、-20点のマイナスがあります。イジメに遭っている同級生を助けなかった」
「そ、そんなのみんなだって・・・」
高校一年生のころの事を言っているのだろう。クラスでいじめがあった。それは間違いはない。でも、美玖は見て見ぬふりをした。いじめられているクラスメイトをかわいそうだと思った。でも、手を差し出せば、矛先が変わる。周りの誰もがそうしていた。自己防衛の何が悪い。人を助けるのなんて生易しいことではない。
「あとはもう、拾った小銭を着服したなどのような小さな積み重ねです。善行も些細なものがいくつかあるようですが、全部説明する必要はないでしょう」
「勝手に話を進めないでよ。見て見ぬふりなんてみんなやってることじゃない。そんなことまで悪行に数えていたら、善人なんて一人もいないでしょ」
「いますよ。稀にですが、善行を積み、輪廻から解脱を果たす人も」
「ちなみに、何点よ」
「500点。善きにも悪しきにも」
つまり、500点で天国、-500点で地獄行ということか。
「ちなみに小銭の着服は何点マイナスなの?」
「1点です」
「参考までに、私の善行一つでいいから教えてもらえる」
「そうですね。電車でおばあさんに席を譲ったことは1点加点されています」
「一番得点が高かった行為は?」
「1点以上の得点を取ったことはないです」
「え?」
善人ではないと言ったけど、29年もの人生を振り返ればもっと何かあるだろう。誰にでも手を差し伸べるような博愛主義ではないけども、友人や知人のために尽力することはあったと思う。それでも、なお、たったの1点にしかならないのであれば、500点なんて遠すぎる。
いや、そうでもないのかと思いなおす。
マザーテレサのような聖女である必要はない。一日一善、電車でおばあさんに席を譲る程度の善行でいいのなら、たった二年で天国行きになるのだ。もちろん、ここでの記憶は失われるのだろうけども、解脱への道とはそれほど厳しくはないのかもしれない。
「そろそろいいですか」
「え、ええ。一応は」
「それでは、次の人生では善き行いを」
彼の言葉とともに、意識は混濁し消滅した。
加古川美玖の人生は終わりを迎え、遠く離れたオーストリアに住むヘルツォーク家の三男アルノーとして新たな生を受けた。
自我が目覚め始めたのは生後6か月を過ぎたころ。
加古川美玖の記憶と死後に天界で交わした会話も不思議と覚えていた。
ただ、一度成熟したはずの精神もアルノーとして生まれ変わった時点で幼児化していた。おそらく、記憶の引継ぎが行われるという奇跡の中にあっても、精神の減退は必要なことなのだろう。精神は肉体に同調する。それがなければ、幼児期を過ごすのは精神破壊を引き起こしかねなかった。
一人の人間として、身の回りのことが出ていたものが、食事も下の世話もなにもかも人に頼らざるを得ない状況、ましてや赤子というものは、意思を訴えるすべを泣くことでしかできなかった。屈辱に耐えられるよう形に精神は変容した。
男性として生を受けたことに対する違和感もなかった。アルノーとして男の子としてわんぱくに育ち、少年、それから立派な青年へと成長した。女性との恋愛も経験することになった。
3歳ころには、アルノーの精神もそれなりに育ち天界の記憶の意味を理解した。そして幸運に歓喜した。この世の仕組みというべきものを理解しているのだ。善行を行うのは難しい。だが、天国へ至るということを知っているなら話は違ってくる。喜んで善人になろう。
そう考えたアルノーは可能な限りで善行を重ねた。
男子として生を受けたこともあり、アルノーは体を鍛えた。先の人生では、イジメに遭うクラスメイトに手を差し伸べられなかったのは、心と体の弱さだと思った。だからこそ、アルノーは心身ともに鍛えることにした。その甲斐もあってか、街中で暴漢に襲われる若者を救うこともできた。善行は多岐にわたって行われたという自負もある。
美玖の生が20世紀から21世紀にかけての29年間だったのに、アルノーの生はそれから100年ほど遡った時代だった。戦禍にも見舞われた時代は、お世辞にも治安がいいとは言えなかった。
歴史に詳しいわけではない。中学、高校の授業を受けた程度の最低限の知識。それでも、世界がこれから進んでいく方向は分かっていた。
世界大戦が起こる。
戦争は間違いなく悪だろう。
戦場では人が死ぬ。
望む望まないに関わらず、銃を持てば簡単に人の命を奪えてしまう。
見て見ぬ振りが悪行だというのなら、戦争へ参加することはそれ以上の悪と言わざるを得ない。
拒否することできない徴兵でも、それが覆されるとは思えない。理不尽な天界のルールに徴兵されたから仕方なかった。などという言い訳が通じるとは思えなかった。
ゆえに、アルノーは医学の道に進んだ。
軍医であれば、人を殺すよりも救う立場に進むことができる。戦争を止めるなんて大それたことはできなくても、善行を重ねることは可能だと考えた。たとえ前世の記憶があっても、医学の道に進むのに役には立たない。アルノー自身も、人より記憶力が優れているわけでも、頭の回転が速いわけではなかった。だから、死に物狂いで勉学に身を投じた。
時代はアルノーに厳しかったが、生まれた家は裕福だった。勉学に励む息子にお金を惜しまなかった。そこへ進むまでのアルノーの生き方もよかったのだろう。天国へ行くために善行を続けるアルノーに対する周囲の目は好意的だった。
医学を修め、医者になってそれほど時間が経過したころ、軍医として従軍することとなった。
戦場でアルノーはできる限りのことを行った。軍医として多くの同胞の治療を行い、それ以上に仲間の死を見届けた。軍医といえども、常に後方勤務というわけにはいかなかった。
前線で銃弾の飛び交う中に身を投じることもあり、メスの代わりに小銃を持たされることもあった。止むを得ず、敵兵を撃つこともあった。
戦場の狂気の中にいて、止めることはできなかった。
後悔はある。
でも、それ以上に人々を救ったという自負もあった。
投下された爆弾でアルノーとしての人生が終わりを迎えた時も満足して逝くことができた。
気づいたとき、長い長い列を構成する歯車の一つになっていた。
2度目の死。
短い人生だと思う。短命は時代のせいか、あるいはこのの魂は短く輪廻の巡る定めなのか知るすべはない。
ただ、それもこれで終わりだろうと思う。
白い世界に、白いテーブルと椅子。座っている事務員のような男が前回と同じかどうかは定かではない。特徴のないことが特徴の男。
「アルノー=ヘルツォーク、-274点」
「・・・」
何を言われているのか理解が出来なかった。呼ばれた名前に間違いはない。だが、続く点数は悪い冗談としか思えない。
「ふざけるな!」
テーブルをたたきつけ、男に詰め寄ろうとするが体はまるで動かない。会話の自由は認められているが、肉体の自由はなかった。
「なんで、俺がマイナスなんだよ。相当善行を重ねた記憶があるぜ」
ちらりとアルノーを見上げ、手元の台帳をパラパラとめくる。
「どこにも見当たりませんね。ここにある業はすべてマイナスの行いだけのようです」
「はあ?なんでだ。なんでそうなる。一つもない。そんなバカなことがあってたまるか。食うに困っている人には食事を提供し、理不尽な暴力にさらされているものには手を差し伸べた。戦場でだってそうだ。戦場で数多くの同胞の命を救い、前線で配給が十分ないときでも、俺は仲間全員で少ない食料を回すように手を尽くした。上官に冷たい目で見られてもだ!それが善行でなくなんだっていうだ。それは当たり前の行いだとでもいうのか。ふざけるなよ。空腹にあえぎ誰もが、自己を優先させようとするあの場で・・・」
「ふむ。しかし、ここには記載はないですね」
台帳を二度ほど確認してから、アルノーの目を見る。
目ではなく瞳の奥、アルノーを見ているようで見ていない。
アルノーのすべてを見るような気持ちの悪い視線。
「なるほど、あなたは、ご自分の善行に見返りを求めていませんでしたか」
もちろん求めていた。善行の果てにある約束された未来を。現世での不遇など大したことではない。
ーだって俺は・・・
「ご存じだったのですね。稀に起こるのです。こちらの記憶を持って生まれることが。残念だというしかありませんが、あなたの行いはすべて偽善です」
「・・・はあ? 偽善は悪だとでもいうつもりか。下心があろうとなかろうと、それらの行為で救われるものがいるなら、その行為はすべからく善だろう」
「無償の愛こそが善です。見返りを求める行為は善ではない」
ゆるぎなくはっきりと応じられる。
抑揚のない冷たい声にアルノーはますます激情を募らせる。
「だからといって、悪行でもないだろう」
「ええ、その通りです」
「だったらなぜ、-274点なんてことになる。俺のやってきたことがすべて0点にしかならなかったとしても、それほどの悪行をどこでつんだ。・・・戦争か。戦場で人を殺したからか」
「いえ、戦争での殺人行為の責任をただの一般兵には求められていません」
「だったら・・・」
「チンピラに絡まれている若者を助けた覚えがありますか」
「・・・何度かある」
「ならば、近所に住まう若者の未来に心当たりは?」
「それは・・・・いや、まて、そんな、それは、だって目の前で絡まれていたら助けるだろう。助けるのが善行じゃないのか」
「本来、それは善行として認められるでしょう。ですが、歴史を知るあなたに対してそのルールは適応されない」
「ふざけるな。そんな、理不尽なことがあってたまるか」
授業で習った程度の世界史の知識。それでも、彼がいずれ何をするのか、それはもはや常識といっていいレベルの誰もが知る事実。
だったら見殺しにするのが正解だったと。
イジメを見て見ぬ振りしただけで、-20点も減点をされる仕組みのこの世界で、いずれ大罪を犯すであろう人物なら、見て見ぬふりをしろ。そんな理不尽が許されるのか。命は平等ではないとでもいうのか。
-そんな一方的な点数システムが、天上の神の定めたルールだとでも。
足掻くことが馬鹿らしくなる。
ここでいくら吠えたところで、目の前の男は機械的に物事を処理するだけ。
激情に駆られて暴れずにいられたのは、天界の不思議な力で押さえつけられているからかもしれない。凪いで行く心は、受け入れる道を選択する。
「・・・地獄行じゃないんだろ。だったら、次はちゃんと記憶を消してくれ」
記憶があることが不利にしか働かないなら、そんな記憶はなくなったほうがいい。
「もちろんです。-274点ですので次の生は少々困難が多いでしょうが、それでは次の人生では善き行いを」
聞き捨てならない言葉に、言葉を返そうとするがすでに声を発する自由も奪われていた。
意識が混濁し闇に落ちる。
加古川美玖は、アルノーを経て、キトリーとして新たな生を受けた。
どういうわけか、記憶のリセットは今回も行われなかった。
それはキトリーに絶望を与えた。
見返りを求めずに善行をすればよい。
ただ、すべてを知るキトリーにそれは難しい。
善行を働くときに、見返りを求めないことはできる。どうせ、期待したところで、それは唯の偽善とされてしまうことが分かっているのなら、そこに何の期待も込められない。だとしたら、それは純粋な善行へと変わる。だが、だとしたら、自分は純に善き行いをしているのだから、天国に行けるのかもしれない。
知識が邪魔をする。
知っているせいで、思ってしまう。
思考のパラドックス。
悪事を見過ごすこともできず、かといって善行はすべて偽善へと転じる。
悪行は当然のことながら減点対象となる。
どれだけ努力しようとキトリーのこの世界での得点は最大で0だ。
慎重に慎重を期したところで、天秤はマイナス側に傾く可能性の方が高いのだ。
どんなことであれ、知識はないよりある方がいい。しかし、天界での出来事を知っているということは、マイナスでしかなかった。
なんて理不尽なことだろうと思った。
だが、理不尽はそれだけではなかった。
天界の男の言葉の意味を新たな生を受けて早いうちに理解する。
キトリーの両親は盗賊を生業としていた。
一度、傾いた天秤は、傾きを深くすることはあっても、反対側に倒すことはできないようにできているらしい。一度、泥沼にはまれば抜け出せない。転がり始めたボールは底に着くまで転がり続けるしかないのだ。
なんなんだそれはとキトリーは思う。
キトリーが生まれて間もないころ、母親は赤ん坊の彼女を抱いて市場に来ていた。
野菜や果物の積まれた屋台の近くで、商品を手に取りながら吟味して買い物をする。どこにでもある日常の風景。
母親は何気ない動作で、キトリーの頬をつまむと、なんのためらいも見せずねじった。
「うぎゃーーー」
痛みにキトリーが悲鳴を上げ、周囲の耳目が集まる。
その瞬間、皆の意識がキトリーに向いた間隙をついて、キトリーの父親は周囲の買い物客の財布を抜き取った。一瞬の早業、誰にも気づかれることない、二人の、いや”三人”の連携プレイ。
悪事の片棒を担がされたことに絶望を覚えた。
キトリーの精神は、アルノーとして生まれ変わったときと同様に退行していた。目の前の悪事を頭の片隅で認識しつつも、理解できなかった。
ただ、それでも、二度目ということもあり、彼女はその事態に対応した。
徐々に理解を深め、赤子の身で、できる限りの抵抗を行った。
泣き喚くタイミングをずらす。
それでも、毎回うまくいったわけではない。でも、可能な限り邪魔をした。
3歳に成る頃には、両親はもっと直接的にキトリーに犯罪の手伝いをするように強要した。ナイフの使い方を教えて、人込みでの気配の消し方、気づかれないように対象へと接近する方法、財布を抜き取る手の動き。
もちろん、それらは盗賊としての英才教育の始まりに過ぎなかった。
ただ、おとり役として人込みで対象へ話しかけるように促された。そんな時は、わざと関係ない場所で転んで泣いたりして、愚図を演じた。熱が出たふりや、おなかが痛いふりをして、仕事を拒絶した。そんな時は、折檻された。
人に見られないように顔を殴るのを避けるなどということもなく、酷いときには腫れあがるほど殴打した。食事を抜かれるのも日常茶飯事だった。母親はそんなキトリーに
「働かざる者食うべからず」
などと尊いことのように、犯罪行為を正当化した。
青あざのできたキトリーは、両親にとって都合のいい道具と化した。町の中に、顔を腫らした愛らしい少女がいれば、まともな人なら心配して声をかける。彼女のもとへ駆け寄った親切な人から、両親は金品を奪った。
時に町の外へ遠出することもあった。
キトリーの両親には盗賊団の一員という顔もある。商人の積み荷や護衛の情報が入ったときに、人数を集めて襲うことも生業としていた。そんな時にも、キトリーは囮として使われていた。
商人の馬車がくる少し前に、街道のど真ん中に放り投げ、両親を含めた盗賊団は身を隠す。一人ぼっちにされたキトリーは不安と寂しさから泣いた。
両親の悪行の邪魔をしようという気持ちはあれど、精神は幼い子供のものだった。
一人きりで泣いている少女を見て、商隊は足を止める。護衛もいるし、警戒は緩めない。それでも、気は取られてしまう。そこへ、盗賊団は強襲する。数の暴力でもって、すべてを奪いつくす。
キトリーにできることなど、何もなかった。
時々は邪魔したが、時々は失敗した。
8歳になったキトリーは街の保安局に両親を売った。
犯罪奴隷としてどこかで強制労働を受けることになった肉親と違い孤児となったキトリーは神の家に預けられることになった。その時になってようやく自分のいる世界が、全く知らない別の世界であるということに気が付いた。
アルノーの人生を生きた時、時代も場所も変わっていたことから、きっと今回もどこか知らない国の知らない時代なのだろうと思っていた。盗賊の娘としての英才教育は受けても学校教育とは縁がなかったから世界のことを知るきっかけがなかった。
神の家での生活は、とても幸せなものだった。
ぶたれることもなく、犯罪の片棒を担がされることもない。ただそれだけのことで心が穏やかでいられた。
神の家は美玖やアルノーの知る教会とおおむね似ている。神の教えを守り、神に祈りをささげる。ただ、司祭様の祈りは天に通じた。
『神の奇跡』
司祭様は神の奇跡の代行者として祈りをささげる。その力は癒しの奇跡をもたらし、病人やけが人を救った。癒しを受ける人々は神の家に幾ばくかのお金を寄進する。それにより孤児たちの生活を含めた神の家の関係者の生活は賄われていた。
孤児は礼拝堂、治癒院といった神の家の施設のほかの、関係者の生活エリアの掃除、洗濯、食事の準備といったことを衣食住が与えられる代わりとして行う。
それらにもちゃんとした理由がある。
孤児たちが神の家に住まうことが出来るのは小成人となる13歳まで。それを過ぎると神の家を出て、働きに出るようになる。もちろん、本来の成人である16歳まではあくまでも下働き程度の簡単なお仕事だ。
貴族や富豪や大店の家などで家政婦として働くのが最も多い孤児たちの就職先だった。そのためにも、最低限の教養と家事全般のスキルを習得できるように孤児たちに仕事をさせていた。
ただし、犯罪者の娘であるキトリーに就職先を探すのは困難を極めた。できることなら神の奇跡の代行者となる道を歩めればよかったのだが、あいにくと適性がなかった。
小成人を間近に控え、神の家から出されるわずか数日前に仕事先が決まったのはキトリーにとって僥倖だった。
ただ、長続きはしなかった。
屋敷で働き始めて2月が過ぎたころ、大奥様のイヤリングが紛失するという事件が発生した。当然疑われるのは、盗賊の娘という立場だった。話も聞いてもらえず屋敷を追い出されたキトリーになすすべは何もなかった。唯一の救いは、イヤリングや売却した代金も実物も荷物から発見されなかったことから、犯罪者として施設送りにならなかったことかもしれない。
ただ、それを幸運というには、彼女の置かれた状況は最悪だった。神の家には戻れず、住む場所もなく、ほんの二月で稼いだ僅かばかりの小銭しかなく、新しい仕事を見つけることもできずに、すぐになくなった。
神の家の協力があって、半年以上かけて見つけた仕事。当てのない彼女には、見つけられるはずもなあった。
空腹に膝を抱えて路地裏に座っていると、同じような身なりの少年が声をかけてきた。
「腹減ってんだろ。こいよ」
絶望のどん底にいるキトリーに垂らされた一本の蜘蛛の糸。
見上げればぼさぼさの髪の毛の薄汚れた少年が、にやりと笑みを見せる。
その手をつかみたい。
本心より、そう思った。
だけど、キトリーは首を横に振った。
彼のやさしさがありがたかった。ボロボロになる心を温かくほぐしてくれた。でも、その手を取ることはできなかった。
キトリーにはわかっていたから。
彼らがどうやって食べ物を手に入れているのか。
まともな手段でない。
働くことすら許されないからといって、盗みが正当化されることはない。
キトリーの知る理不尽な天界のルールに当てはめれば、間違いなく悪業として減点される。
『-274点の世界』から脱却するには、プラスに転じることが出来なくても、可能な限り減点される機会を減らす以外にない。
この瞬間、彼女の中で覚悟が決まった。
悪行や善行は人の世にあるものである。
ならば、人との関りを絶とう。
この世界が13歳の少女に甘くないことは理解していた。
街の外には、見たこともないような凶暴な魔物がいると聞いていた。
それでも、人々から奪いながら生きていくくらいなら、その厳しい世界に身を置こうと考えた。どのみち加点はない。できるのは減点を減らすことだけなのだから。あっという間に、魔物の餌になるかもしれない。盗賊の娘として、悪事に加担させられ続けた彼女の現在の点数は分からない。でも、まだ-274点を下回ってはいないだろうと、期待する。これ以上、減点を増やしてより悪い世界に転生するのも、地獄行きになるのも遠慮したい。
さっさと死んだほうが、加点も減点もされずマシかもしれない。
自殺が減点対象にならないならという前提条件が必要になるが。
それに、簡単に生を投げ出すつもりはない。
魔物に食べられるのは痛いだろう。
死にたくはない。
死ぬのは怖い。
だったら足掻くだけだ。
2度の人生を生きたキトリーなら同じ13歳より多少は知識はあるかもしれない。
それでも、できることは多くない。
でも、あきらめるのは、こんな理不尽な仕打ちをした神様とやらの思い通りになるのが悔しくて腹立たしかった。屈するのはまだ先だ。
彼女は少年の手を振りほどき、立ち上がった。
「おい」
声をかける少年を無視して歩き出す。
路地を出て、大通りを歩き、街の外門を潜り抜けた。
この日、キトリーは人の世と決別した。
次回、ルーとの再会