(8)次なる行動
「……レ……ん……」
どこからか声が聞こえる。
耳障りの良いソプラノの声。
「フ……ちゃん……」
陽だまりを思わせる優しい声。
それを耳にしながら、フューレは目を覚ますように意識を向ける。
「誰……?」
周囲は黒一色の闇である。
自分がどこにいるのかもわからないほどの漆黒だ。
しかし、その闇に風穴を開けるように、柔らかな光が差し込んでくる。
「……フューレちゃん……」
声はその光の向こうから聞こえてくる。
はっきりとした言葉になった時、少女は声の主が誰なのかに気付く。
「リーン!? リーンなの!?」
フューレは、光の元へと駆け出す。
光は徐々に彼女の視界を埋め尽くし、やがてそこにたたずむ者の姿を浮かび上がらせる。
「フューレちゃん……」
そこに立っていたのは、リーン=アステリアだった。
学校の制服に身を包み、見知った愛くるしい笑顔を浮かべている。
「リーン! 無事だったの!?」
フューレもまた同じように笑顔を浮かべ、手を伸ばす。
しかしその時、リーンの口から意外な言葉が漏れた。
「……たすけて……」
少女の表情が瞬時に泣き顔に変わる。
それはまるで面を付け替えたかのような変化だった。
続いてその顔が、また一転する。
「……来て……フューレ……お前を……」
浮かび上がった邪悪な微笑の中、意味の読み取れない言葉が漏れる。
やがて光の中にいずこかの景色が映り、リーンはその方向に遠ざかるように消えていった――。
「リーンッ!!」
自宅のリビングで、フューレはソファから飛び起きた。
ソルドと別れたあと、あれこれ考えている内に眠ってしまったらしい。
外はすでに陽が昇り始めており、朝方の優しい光が少女の顔を照らす。
しかし、その光を受けるフューレの表情は、まったく晴れなかった。
(なんだったの? 今の夢は……)
わずかな頭痛を感じながら、少女は窓際へと歩み寄る。
夢にしては妙にはっきりしていて、リアリティがあった。
(リーンがあたしを呼んでる? でも、あれは……?)
昨晩の記憶が蘇る。
あの時、歪な形相で自分を襲ってきた姿が、夢の悪魔的微笑のリーンに重なっていた。
いまだにあれがリーンであるとは思えなかったし、いったい彼女になにが起きているのか知りたかった。
ただ、それを知ると思われる人物は、フューレの前からはいなくなっている。
(確かめなきゃ……リーンに会って……!)
元々、人に頼るよりは自分で行動することが多い彼女だった。
今回もまた、そうするしかない。他ならぬ親友のためならなおさらのことだ。
光を浴びる中で少女は強く決意を固めていたが、同時に先ほど見た夢の最後の光景が気になっていた。
(でも、あの場所……どこだったっけ? 確かにどこかで見た気がするんだけど……)
水の輝きと緑の木立、吹き抜ける優しい風――それは不吉な夢の中で唯一懐かしさを感じさせるものだったが、フューレはそこがどこだったのかを思い出せずにいた。
同じ頃、ソルドの姿はフューレやリーンの自宅を見下ろせる施設の屋上にあった。
ノーマンらと別れたのち、彼は一晩をここで過ごすこととなった。
リーンが再度襲撃をかけてくる可能性を考慮してのものだったが、それは今のところ杞憂に終わっている。
(フューレ=オルフィーレか……)
朝日の下で、彼は物思いに耽る。
監視を続ける中、ソルドはフューレに関する情報を整理していた。
(両親は政府高官とその秘書で、共に火星各地を飛び回っている……)
少女の親は元々政府関係者ということもあって、割とすんなり情報が見つかった。
ただ、多忙を極める役職であるために、なかなかプライベートの時間は取れないようである。
(ロックダウンの影響もあって、なおさらこの街に戻って来れないということか……)
結果として、フューレはほぼ放置状態ということになっているらしい。
家族がほとんど帰らず、一軒家に一人で住まわなければならないという現実――ますますもってミュスカに似ていると、ソルドは思った。
(その寂しさを埋めてくれたのがリーン=アステリアなら、彼女がこだわる理由もわかるというものだな)
ただ、フューレがミュスカと大きく違っていたのは、リーンが近くにいたという点だろう。
不満があったとはいえ、少女が日常生活の中でやさぐれなかったのは、やはり親友の存在が大きかったらしい。
(しかし、このままフューレだけを見張っているわけにもいかない。警戒しなければならないのは事実だが……)
ただ、リーンという少女にとって、フューレがすべてかどうかはわからない。
もちろん大切な存在であるのは確かだろうが、覚醒のトリガーとなる人間は他にもいる。
(リーン=アステリアの親にも会っておく必要がある。どうやら昨晩は戻らなかったようだが……)
その最たる者が、リーンの親族だった。
わずかなため息を漏らしつつ、ソルドは立ち上がる。娘がカオスレイダーに憑かれたことは伏せるにしても、行方不明になった事実は伝えなければならない。
見下ろす光景に大きな変化が現れないことを今一度確認すると、彼は行動を開始した。
その日の陽も高くなり始めた頃、ノーマンはある路地裏に潜みつつ、オリンポスとの通信を行っていた。
ライザスへの報告はすでに済ませたあとの話で、今、彼の目の前に浮かび上がっている映像は黒い長髪の男である。
「ご無沙汰しております。ウェルザー殿」
その相手――特務執行官【ハデス】ことウェルザーは、老紳士の挨拶に微かな笑みを浮かべる。
『久しぶりだな。ノーマン……手ひどくやられたと聞いたが、無事でなによりだ』
「サーナ様のおかげです。あの方がいなかったら、確実に死んでおりました」
先刻の報告で、昨晩あった出来事は伝達済みだ。
この通信はその後、ウェルザーから送ってきたものである。
『【統括者】の一人と出会ったと聞いたが?』
「はい。【テイアー】と名乗りました。なんとも不気味で恐ろしい相手です」
『【テイアー】か……ひとまず詳しい状況を説明してもらえるか?』
その目的は、どうやらフォローに際しての情報共有であった。
ライザスに聞いたところでは、今回の件についてはウェルザーにフォローを一任するということらしい。
あくまで概要的なものに留めていた報告と違い、ノーマンは起きた出来事の詳細を的確に説明する。
『なるほど……話はわかった。では、今もソルドたちは別々に捜査を継続しているのだな?』
「はい。しかし今のところ、新たな事件の発生は確認しておりません。昨晩ソルド殿の追っていた少女の起こした事件が最後ですな」
頷くウェルザーに対して、ノーマンは最新のデータを提示する。
ここ数日は数時間おきに事件が起こっていたが、【テイアー】の出現以降、ぱったりとその動きは止んでいた。
もちろん偶然の可能性もあるが、【統括者】たちの取っていた行動を考えると理由は明白だろう。
『寄生者の拉致か……奴らはなぜ、そのようなことを……?』
「わかりませんが、ただ……」
そこでノーマンは嘆息する。
彼は昨晩【テイアー】に言われたことを、そこでそのまま口にした。
『これまでのようにいかなくなると、【テイアー】が言っていたのか?』
それを聞いたウェルザーの表情が厳しいものに変わる。
ノーマンはシルクハットを整えながら、ツバの下でわずかに目を伏せる。
「はい。それがなにを意味するかはさておき、我々にとって厄介なのは事実かと……」
その時吹き抜けた風に、埃が舞った。
静かに答えた老紳士を見下ろしながら、ウェルザーはやや唸りつつ瞑目する。
『そうか……わかった。私も間もなくそちらに向かう。合流次第、次の方針を考えよう』
「かしこまりました」
次いで鋭い眼光と共に放たれた男の言葉に、ノーマンは微かに頷いた。




