(3)特務執行官
時を同じくして、アンテラの遥か天空を挟んだ彼方。
地球と火星の公転軌道間に、直径一キロ程の大きさの小惑星が存在した。
それは宇宙に漂う無機質な岩塊のひとつであり、外観上は特になにもないように見える。
しかし、その小惑星こそ、現在人類を守る最後の砦として機能している場所であった。
限られた人間たちのみが知る小惑星――その名をパンドラと言った。
全体が白で統一された、無機質な空間であった。
広さはおよそ二十平方メートルというところか。
調度として置かれているのは飾り気もない円形テーブルと、それを囲む数十脚の椅子のみである。
部屋の片隅にはバーカウンターらしきものが設けられているが、そこも機能重視のためか無駄なものは置かれていない。
今、その部屋にいるのは、三名の人間たちだ。
一人の男は腕組みの姿勢で椅子に座り、もう一人は宙に浮かんだモニター相手にガンシューティングを楽しんでいる。
紅一点の一人は、カウンターでお湯を沸かしながら、なにかを考えているようだ。
「しかし、珍しく暇だねぇ。特務執行官が三人、こうして本拠でボケッとしてる状況ってのも、そうあるもんじゃない」
ゲームを楽しんでいた金髪の男が、あくびを噛み殺しながら言う。
目の前で輝くベストスコア更新の文字も、彼にとって興味の対象ではないようだ。
腕組みをしていた赤髪の男が、そのぼやきに低い声で答える。
「悪いことではあるまい。それだけ奴らの脅威が少ないということだ」
「ま、そうかもしれんが……俺としては駆け回っていたほうが性に合ってるんだ。これも職業病というやつかね?」
「くだらないことを言う。そんな単語は普通の人間にしか当てはまるまい?」
「おいおい。元を正せば、俺たちだって人間だっただろ? そういうメンタリティがないわけじゃない」
「うむ……確かに、そこは否定しないがな……」
どこか調子を乱されたように、彼は唸る。
すると今まで沈黙していた女性が、二人のほうに向き直った。
「今までの統計から考えれば、一人の特務執行官が待機状態を維持できる時間は、平均で六時間二十七分というところです」
「細かいね。そんなこといちいちデータに取ってたのか? アーシェリー?」
「これも仕事の一環です。シュメイスこそ、情報管理官の割にアバウト過ぎるのでは?」
アーシェリーと呼ばれた女性は、無表情に答える。
それに対するシュメイスと呼ばれた男の答えは、妙に達観した人間のものだった。
「情報に潰される人間の多くは、整理がうまくいかない奴だっていうぜ。いらん情報は捨てる。必要度の低い情報は、突っ込んで考えない。それがうまく生きていくための秘訣ってやつさ」
「それは、昔取った杵塚というものでしょうか?」
「ま、そういうこった。それも深く突っ込んで考えちゃいけない情報のひとつだけどな……」
シュメイスは、肩をすくめてみせる。
モニターの光が、その表情に影を添えたように見えた。
「それはそうと……ソルド、緑茶です。データ通りの形式で淹れてみましたが?」
アーシェリーはカウンターより進み出ると、沈黙を取り戻した赤髪の男の元へやってくる。
盆の上に載せた湯呑みを差し出しながら、彼女は青年の顔を覗き込んだ。
ソルドと呼ばれた彼は、ゆっくりと湯気を立ち昇らせている液体を口に含む。
その表情が、わずかにほころんだ。
「……うむ。問題ない。ルナルが淹れるものと、ほとんど差はないな」
「それはなによりです」
トレードマークの眼鏡を煌めかせ、アーシェリーは微笑みを浮かべた。
その様子を、にやけた表情でシュメイスは見つめる。
「そのセリフ、ルナルが聞いたら怒るんじゃないか? 『兄様のお茶は、私が淹れなければダメなんです!』とか言ってな」
「はい。九十九パーセント以上の確率で、その言葉が返ってくるでしょうね。もっとも、彼女がここにいないのでは検証になりませんが……」
「くわばら、くわばら。立ち会いたくないね。そんな検証……」
「なぜ、立ち会いたくないのです?」
「そりゃお前、修羅場になるとわかってる所に、いたがる奴はいないだろうが……」
怪訝そうな顔をするアーシェリーと、どこか呆れた様子のシュメイス。
二人のやり取りを気にすることもなく、ソルドは緑茶をすするのみであった。
『お話中のところ、失礼します』
そこに突然割り込んできたのは、巨大な立体映像だ。
黒髪に愁い顔が印象的な女性――【クロト】である。
「よぉ、【クロト】。今日も美人じゃないの」
『あの……私を褒めても、なにも出ませんが? それより、特務執行官に出動要請です』
「出動要請? 誰からだ?」
わずかに動揺した様子を見せる【クロト】だが、すぐにいつもの事務的口調を取り戻す。
『先ほど【アグライア】より要請がありました。コードナンバーM397の件です』
「コードナンバーM397……火星都市アンテラの連続殺人に関連したカオスレイダー暗躍の一件か。にしても、アルティナがそんな要請をしてくるってことは、結構ヤバイ感じだな?」
『彼女の報告では、対象が半覚醒状態にあるとのことです。恐らくは二十分もたないかと』
「そいつは、ギリギリだな。俺が行くか?」
『いえ、ローテーションオーダー通り、ここは【アポロン】にお願いします』
シュメイスの提案を断り、【クロト】は赤髪の青年に目を向けた。
その【アポロン】こと、ソルドは飲み終わった湯呑みをテーブルに置いて立ち上がる。
「……問題はない。すぐに出る」
その表情は、すでに一人の戦士のものに変わっていた。
わずかな緊張感が、その場に満ちる。
「あんま派手にやり過ぎんなよ? ただでさえ、お前の絡む一件は始末が面倒臭いと言われがちなんだからな」
「善処しよう。しかし、それは状況次第だ」
「武運を祈ります。ソルド」
「了解した。アーシェリー……充実した一時に感謝する」
忠告と激励を送る二人の仲間を背に、ソルドは足早に歩き始めた。
レストスペースをあとにしたソルドは、より強靭な鋼鉄に包まれた空間に足を踏み入れる。
無数の輝きが星のように満ちる場所だが、ロマンチックという言葉には程遠い。
金庫のような扉が閉じると、内部に満ちたエアーが排出されていく音が聞こえる。
あっという間に消えていく空気。
並みの人間なら死ぬことになる空間も、彼を含む特務執行官には戦闘前の儀式の場に過ぎない。
精神を集中し、肉体の構成を変換する。
全身を構成する特殊細胞が、無機質な超金属細胞へと瞬時に入れ替わる。
人として生きている時間から、超人へと変わる時――正確には超兵器へと変わる時だろうか。
それは人としての精神では、耐え難い苦痛でもある。
それも彼らの背負った業のひとつなのか。
『反重力カタパルト、オンライン……全システムオールグリーン……射出ゲートをオープンします』
頭の中で【クロト】の無機質な声が聞こえる。
太いパイプのような空間に淡い緑光が満ち、ソルドの身体がゆっくりと浮かび上がる。
視線の向こうで巨大な扉がゆっくりと口を開けていく。
その向こうに見えるのは、漆黒の宇宙空間だ。
『目標……火星都市アンテラ。空間座標X357、Y46、Z557……ロックオンを完了』
緑の光が徐々に白く変わってくる。
迫りくる出撃の時に、ソルドの心も昂ぶる。
無論、彼は戦いを望んでいない。
しかし、戦うことが彼に課せられた使命だ。
人々の未来を繋ぐため、男は果てなき戦いの道を歩む。
『発射シーケンス、オールクリア……【アポロン】、テイクオフ!』
「特務執行官【アポロン】、出撃する!!」
全身に響く強烈なGと共に、身体が前方へと押し出された。
ほんの一瞬で超音速を超えたソルドは、全身を灼熱の赤光に包み、虚無の真空へと飛び出した。
所戻り、火星都市アンテラ郊外。
「うああああああああぁああぁぁぁぁあぁぁぁ……!!」
ジョニー=ライモンは控え室で、一人もだえ苦しんでいた。
ベッドに顔を押し付け、絶叫を押し殺す。
楽譜の束が、無造作にカーペットに散らばっている。
その所々には、わずかな血の跡が滲んでいる。
リサイタルの開演まで、あと数分というところであった。
「俺は……おれ、は……どうしちまった、んだ、ああああああぁあぁぁぁあぁぁぁ……!!」
ジョニーの頭の中は、焼け付くようだった。
思考がまとまらず、様々な記憶が乱れ飛んでは消えていく。
死の間際の走馬灯と違い、情報の奔流が無作為に脳を横切っていく感じだ。
今まで何度か、偏頭痛はあった。しかし、今回のこれは桁違いのレベルだ。
「ぼ、ボリス……俺、はあああああああああぁぁあぁぁぁ……!!!」
思わず友人の名を叫ぶジョニー。
その頭に、自分のものとは違うなにかの声が聞こえてくる。
『じょにぃ……じょにぃ……オマエハ……オマエハスデニ、ワレノモノ……ゼツボウヲ……ハカイヲ……シヲ……』
「や、やめろ、おおおぉぉおおおぉぉぉ…………!!!!」
『コロス……ハカイ……ナニモカモ……ぼりす=べっかぁ、シヲヲォォォォ……!!!』
恐るべき声の主は、ジョニーの意識を、心を喰らっていく。
恐るべき混沌の渦が、ジョニーという人間を飲み込んでいく。
抵抗はできない。
抵抗など、できない。
突然襲ってくる天災に人々がなにもできないように、今のジョニーに声の主を退けることは不可能であった。
「ライモンさん? そろそろお時間です! 準備をお願いします! ライモンさん!?」
やがて訪れた静寂の中、彼を呼びに来た人間の声が聞こえてくる。
ゆっくりと、まるで幽鬼のように立ち上がりながら、ジョニーはドアのほうへと向き直る。
「……わかった。いマ、イコウ……」
その声、その表情は確かにジョニー=ライモンでありながら、どこか歪んだ雰囲気を放っていた。