(9)資格者の少女
満天に広がる星空の中、二条の月光が大地を照らす。
静けさに包まれた真夜中、ウェルザーは一人病院の屋上にたたずんでいた。
もちろん利用時間外なので、人目につかぬよう空から侵入したのは言うまでもない。
(杞憂に終われば、いいのだが……)
空を見上げつつ、彼は思う。
ノーマンの話を聞き、見舞いに行った時のフィアネスは完全に虚ろな状態で、声を掛けても視線を動かす程度だった。
その目はまるで、生きる意思を感じさせない魚のような目だった。
そしてウェルザーは、かつて同じような状態にあった人間を知っていた。
(セルピナ……)
わずかに瞳を閉じ、心の中でつぶやく。
月の光に照らされた顔に、翳りが落ちる。
(フィアネス嬢が、お前と同じだと思いたくはない。だが、もし同じ行動を取ったとするなら……)
なにかを思い返すように考えたその時だった。
屋上への入口となる扉が、ゆっくりと静かに開かれたのである。
その向こうから姿を現したのは、銀色の髪を持った少女であった。
(……フィアネス嬢!)
それは紛れもなく、フィアネスであった。
きらめく髪が揺れ、その下にある顔をあらわにする。
しかしそこにはやはり生気がなく、包帯だらけの姿と相まって生ける屍のように見えた。
呆然とするウェルザーに気付くこともなく、彼女はふらふらと歩きながら、屋上の端へと辿り着く。
そこに張られたフェンスを、力を振り絞るように登り始めたところで、ウェルザーはハッとしたように駆け出した。
「フィアネス嬢! なにをしているんだ!?」
大声で呼び掛けるものの、フィアネスの動きは止まらない。
しかし彼女もウェルザーの存在にそこで気付いたのか、フェンス上に身体を乗せるように預けてつぶやいた。
「放っておいて下さいませ。私は……私は、もう生きていても価値のない人間なのですわ……」
そのまま彼女は身を乗り出し、フェンスの外へと身体を投げ出す。
舌打ちしたウェルザーは、そこで振りかざした手から重力の力を開放する。
次の瞬間、落下しようとしたフィアネスの身体がぴたりと止まり、次に浮き上がるようにしてフェンスのこちら側へと舞い戻った。
屋上内にゆっくりと降ろしたところで、ウェルザーは少女の傍らに駆け寄る。
「なぜですの……?」
そこで初めて、フィアネスは表情と呼べるものを見せた。
身を震わせ、目の前に現れたウェルザーに驚愕の視線を向ける。
そこには驚きの他に憤りや悲しみ、絶望といった負の感情がごちゃ混ぜになって浮かんでいた。
「なぜ、助けましたの!? あのまま死なせてもらっていれば、私はもう苦しまなくて済んだというのに……!!」
食らいつくように叫んだ少女に、ウェルザーは思わず平手を放っていた。
それは自分でも意外なほど、反射的に出たものだった。
そして続いた言葉もまた、強い感情に支配されていた。
「バカを言うな!! 君の祖父が、なぜ生命を懸けてまで、君を助けたと思う!!」
その言葉に、フィアネスの目から涙が溢れる。
ディックとの思い出と、彼に対しての様々な想いとが渦を巻いたのだろうか。
「ですが……私は、そのおじい様にひどいことを……! 一時の甘い感情に流されて……!」
「聞くんだ! フィアネス嬢!」
少女の肩に手を置き、ウェルザーは続ける。
彼自身もまた抑えようのない思いが溢れ、止めることができなかった。
「どんな人間も完全ではない! そうすることが正しいと自分を正当化し、その結果として取り返しのつかない過ちを犯してしまうことだってある!」
その脳裏には、まだ人間だった頃の記憶が次々と蘇っていた。
自身の思いを信じ、ただひたすらに突き進んでいた時代――その果てに訪れた暗き結末までも。
「それでも、してしまったことは変えられない。どれだけ後悔しても、過去は戻らない。私たちにできることは、その過去を受け止めた上で、今をどうするかということだけだ!」
今、こうしてここにいることは本来なかったことである。
しかし、神の慈悲か運命の悪戯か、ウェルザーは新たな生命を得て蘇った。
そして、彼がやるべきことは決まっている。今を生きる人々のために、現れた災厄を葬り去ることだ。
「人はどこまでいっても、今を生きることしかできないのだ! だから……今の自分をあきらめるな!」
「今を……生きる……」
自らに言い聞かせるように彼は叫び、同時にフィアネスを抱き締める。
なぜ、そうしたのかはわからない。
しかし腕の中でフィアネスの身体が震え、宙に澄んだ輝きが弾けた時、二人は柔らかく温かな光の渦に包まれていることを知った。
「これ……は……!」
その心地良い輝きに包まれる中、ウェルザーは浮かび上がったひとつの事実に驚愕の表情を浮かべていた。
その後、ウェルザーは落ち着いたフィアネスを再び病室に送り届けた。
幸い彼女が抜け出したことに気付いた者はなく、騒ぎにならなかったのは僥倖であった。
少女がそのまま眠りに落ちたのを見届けると、彼は屋上へ舞い戻り通信回線を開いた。
光の渦の中に浮かび上がったのは、一人の男の姿である。
それは、オリンポスの司令官的立場となったライザス=ヘヴンズフォースであった。
『資格者の反応だと?』
そのライザスは同僚から告げられた言葉を繰り返し、目を見開いた。
「ああ……私も意外に思ったが、間違いない。【レア】から聞いた話とも一致する」
ウェルザーはそこで、懐からひとつの結晶を取り出す。
それは天空の月に負けぬほどの白い光を放つ宝石であった。
激しくも優しい輝きがゆっくりと明滅し、男たちの目にその存在を焼き付ける。
『資格者の魂は、戦士の魂と共鳴する。そして【秩序の光】も、資格者の魂に共鳴し輝きを強める……か』
ライザスがなにかを思い返したかのようにつぶやく。
【レア】から聞いたコスモスティアに認められし者――資格者となる人間は、ライザスら戦士となった者との直接的な接触によって見分けることができるというものだった。
『いずれにせよ、それは僥倖だったというべきだろう。その娘に話をして……』
「それはダメだ!」
しかし、彼が言葉を続けようとした時、遮るようにウェルザーが叫んだ。
その表情は、あまりにも険しい。
「確かに、彼女は資格者なのかもしれん。だが、忘れたのか? コスモスティアを受け入れるということは、人としての生命を捨てることだと……!」
『うむ……それは……』
ライザスは、沈黙せざるを得ない。
カオスレイダーを掃討する戦士――のちの特務執行官は、人の姿でありながら人を捨てた者である。
その最低条件として求められるのは死を迎えた者、もしくは人としての生を捨てる覚悟を持った者である。
ライザスたちは【統括者】の王によって生命を奪われたが、今回判明した資格者――フィアネスは、まだ生きている人間なのだ。
「……フィアネス嬢には、これからの人生を生きる権利がある。なにより彼女は若過ぎる。たとえコスモスティアが認めた人間であろうと、私は彼女を戦士にすることには反対だ……!」
手にしたコスモスティアを強く握り締め、ウェルザーは言い放つ。
まるで砕けよと言わんばかりに手を震わせるが、コスモスティアはなんの変化も見せない。
しばらくしてライザスは嘆息すると、落ち着きを取り戻した声で同僚に告げた。
『……そうか。確かに無理強いはできんからな。それにルークラフト卿のお孫さんなら、なおさらか……』
ウェルザーもまた、徐々に落ち着きを取り戻してきていた。
自分でもなぜここまで感情的になってしまったのかわからないまま、彼は詫びの言葉を言う。
「……急な連絡ですまなかった。ライザス……ただ、報告だけは入れておきたくてな」
『わかっている。とりあえず事が落ち着いたら速やかに帰還してくれ。我々のやるべきことは、まだ山ほどあるからな……』
そんな彼の気持ちをわかっているとばかりにライザスは笑むと、光の渦と共に消え去った。
再び静寂の戻ってきた屋上で、ウェルザーは明滅するコスモスティアを見つめる。
天と地から注がれた光が、苦悩に満ちた顔を浮き彫りにしていた。




