(6)噴き出した狂気
橋の中央で、一人の少年がたたずんでいる。
その橋はかなり古いもので、近い内に取り壊しが決まっていた。
百メートルほど隣にはすでに新型の橋が完成しており、車などの流れもそちらに移行している。ゆえに、こちらの橋を利用する人間はもういないはずだった。
時刻は夕刻の六時を回り、辺りには薄く闇が下り始めている。
少年は息を荒げながら、どこか狂気にも似た視線を川の水面へ向けていた。
「君……こんなところで、なにをしている?」
そこへ姿を現したのは、ウェルザーである。
彼は一人静かに歩みを進めながら、少年の元へやってきていた。
隣を流れるヘッドライトの光が、その場に立つ二人の姿をおぼろげに照らす。
「来ないでください……来ちゃダメだ……来たら……ううぅ……」
少年は苦しみの声を上げながらも、ウェルザーに警告を飛ばす。
その手にはすでに鉤爪が伸びており、腕もやや赤く変色しているようだった。
「すでに衝動を抑え切れないことを自覚していたのか……君は優しい子なのだな」
ウェルザーは悲しげな表情をしながら、少年に語り掛ける。
その手にしたコスモスティアの欠片も、すでに必要はなくなっていた。
容疑者となる人間を片っ端から当たり、最後に辿り着いた少年――その彼は覚醒を間近にしながらも、最後の意思で抵抗を試みていたのである。
これ以上誰にも危害が加わらないように、人気のない場所を自ら選んで――。
「だが、もう苦しむ必要はない。すべてをここで終わらせよう。我が意思に従いて幻惑せよ。電影幻霧……」
ウェルザーの言葉と共に、周囲一帯に深い霧が舞い降りる。
物理的にも電子的にも、すべての視線をシャットアウトした空間で、彼は更に少年に詰め寄る。
ぐわっと口を開いて振り向いた少年は、その禍々しい爪を傍らの男に振るおうとした。
「……悲しき生命に、永遠の眠りを……」
祈るようにウェルザーはつぶやくと、その腕を受け止める。
そして、空いた手で少年の胸板にゆっくりと拳を叩き込んだ。
「ごはっっ……!」
低く重い音を響かせ、圧縮された重力波が開放される。
少年のあばらが粉々になり、内側に守られた内臓がまとめて破壊される。
口から鮮血を迸らせて絶命した少年は、そのまま吹き飛ばされて橋から落下していった。
「……掃討は完了した。セントラル……応答願う」
水面で上がった飛沫を冷めた目で確認しながら、ウェルザーはセントラルへの回線を開く。
光の渦の中で浮かび上がったポニーテールの少女が、男を見下ろした。
『お疲れ様です。ウェルザーさん、どうしました?』
「ICコードを申請する。クラスはB……私のいる座標から五百メートル圏内、十分以内の人間が対象だ」
『了解。セントラルは【ハデス】の申請を承認しました。MCNフィールド展開……操作開始します』
わずか表情を硬くした【アトロポス】だが、すぐに事務的な口調で言葉を返す。
ICコードのBクラスは、事後処理のための情報統制コードである。
指定範囲内の人間の記憶をナノマシンで操作し、改ざんもしくは消去する。いろいろと制約はあるものの、電影幻霧の効果と合わせれば、この橋の上でウェルザーと少年が一緒にいたという事実は完全に抹消されることになる。
数十秒ほどのち、【アトロポス】は瞑目していた瞳を開いた。
『操作は完了しました。ICコードB解除……対象者は割と少なかったですね』
「そうか……」
静かに答えながら、ウェルザーは息をつく。
やむを得ないこととはいえ、人を手にかけるという現実は慣れないものだし、慣れたいものでもない。
そんな彼を見つめていた【アトロポス】だが、ややあって静かに口を開いた。
『ところでウェルザーさん……例のクラウス=レーガーって人の件なんですけど……』
「ああ……なにかあったのか?」
ウェルザーは、改めて顔を上げる。
一枚のスクリーンを浮かべた【アトロポス】は、その中のデータを指し示しながら言葉を続けた。
『彼の経歴は、改ざんされていました。主にこの空白期間以前の部分が……』
「改ざんだと? どういうことだ? いったい誰がそんなことを?」
驚きの声を上げながら、ウェルザーはデータを確認する。
クラウス=レーガーという人物の空白期間以前の部分は、前回見たものと大きく違っていた。
【アトロポス】はそこで更に衝撃的な事実を告げる。
『答えは簡単です。彼は【宵の明星】の構成員ですよ……』
静寂を破るように、小さな足音が響く。
夕闇の支配する校舎内を一人歩くのは、銀髪の少女であった。
その少女――フィアネスは辺りの様子を窺うようにしながら、音楽室までやってきていた。
専用IDでドアを開け、照明のスイッチを入れると、白色の光が辺りを包む。
(おじい様と話をしに行くということでしたが、どうしてクラウス様はこのようなところで……?)
彼女がここにやってきた理由は、クラウスとの待ち合わせのためだった。
ただ、その顔には不可解といった表情が浮かんでいる。
それもそのはずで、この音楽室はディックのいる理事長室とはかなり離れていた。
人目を避けるにしても、待ち合わせる場所は他にもある。ましてや他の教師や生徒たちも、ほぼいない時間帯だ。
なにかの理由があるのだろうが、フィアネスとしてはその理由が思いつかなかった。
壁にもたれながらぼんやりとしていると、やがてドアが開き、一人の青年が姿を現した。
スーツを纏った男は大きなカバンを持ち、なぜかその手には白い手袋がはめられている。
「クラウス様?」
「ああ、フィアネス……待たせたね」
その青年――クラウスは、いつもの微笑を浮かべながら室内に入ると、IDでロックをかける。
その行動に首を傾げつつも、フィアネスは彼の元に歩み寄って声を掛けた。
「いえ、そんなに待ってはおりませんが……これから理事長室に行くのですよね?」
さも当然とばかりに言った彼女だが、クラウスから返ってきた返事は意外なものだった。
「いや……別に、理事長室に行く必要はないよ」
「え?」
次の瞬間、フィアネスは青年によって激しく突き飛ばされる。
辺りの譜面台などを薙ぎ倒し、少女は音楽室の中央辺りに倒れ込んだ。
「あうっ! く……クラウス、様……?」
「さぁ、楽しいショーの始まりだ!」
クラウスはそう言うと手にしたカバンを開き、中から二本のナイフを取り出す。
そのまま両手に持って、彼は倒れた少女目掛け、それを投擲した。
「なっ……ああぁあぁっっ!!」
ナイフは狙い過たず、フィアネスの両足に突き刺さる。
絶叫と共に、その傷口から鮮血が噴き出した。
少女の下半身が血にまみれていく様子を眺めながら、クラウスは口元に歪な笑みを浮かべた。
「これでもう逃げられない。ここは完全防音だから、助けを求める声も外には届かない」
「ど……どうして、ですの……? クラウス様……どうして、こんな……?」
痛みと驚愕とでその表情を歪めながら、フィアネスは震える声で問い掛ける。
クラウスは高らかに哄笑を上げながら、少女を狂気の視線で見下ろした。
「ふん。理由を教えてやろうか? お前があのディック=ルークラフトの孫だからさ」
その口調は、フィアネスの知る優しい青年のものではなくなっていた。
清廉潔白なイメージは完全に消え失せ、顔には小悪党めいた邪笑が浮かんでいる。
しかし不思議なことに、こちらの態度のほうが彼という人間には馴染んでいるようにも映った。
「あのジジイは、とんだ偽善者だよ……人が苦しんでいることを知りながら、あっさりと切り捨てるクソ野郎だ」
その言葉を唾と共に吐き捨てながら、クラウスはカバンに手を入れる。
ジャラジャラという金属音が響き、中からは更に無数のナイフが出てきた。
「だから、今度は俺が奴を苦しめてやる番なのさ。奴の大切なものを、軒並み奪ってやるんだよ……!」
そのナイフを一本ずつ手にすると、彼はフィアネスに向けて連続で投げ始めた――。




