(4)人の持つ闇
その日の夜、一通りの捜査を終えたウェルザーはノーマンと別れ、学園の理事長室を目指していた。
時刻は夜の八時を回ったところであり、当然のことながら付近に生徒の姿はない。
施設の大半も消灯しており、電気がついているのは限られた場所だけだ。
(……今日は思うような収穫を得られなかったか。三件の殺人に関して、教師陣のアリバイははっきりしていた。そうなると、やはり犯人はクラスメイトの線が強いか……)
歩きながら、彼は思う。
まだ始めて半日とはいえ、捜査は思ったほど進展していない。
施設規模が大きいだけに無理もなかったが、カオスレイダー絡みの殺人ともなると覚醒の危険性も出てくる。
悠長に構えている暇はないだけに、ウェルザーも焦燥を隠せなかった。
「……どうしてダメなんですの!?」
考えを巡らせつつ理事長室に近付いた彼は、突然聞こえてきた声に思わず足を止める。
見ると理事長室のドアが少し開いており、そこから光と共に声が漏れていた。
「フィアネス、何度も言っておろう! 彼だけはやめておきなさい!!」
言い争う声の主は、ディック=ルークラフトと孫娘のフィアネスのようだった。
ウェルザーは足音を忍ばせ、扉の少し前まで歩を進める。
「わかりませんわ! おじい様はおっしゃったじゃないですか! 私が望むように生きれば良いと!!」
「確かに、そのようには言った! だが、彼との交際を認めるかどうかは別の問題だ!」
「だったら、理由をおっしゃってください!」
二人の口調はかなり激しい。
フィアネスの気性が激しいのは先刻承知だが、穏やかで冷静なディックがここまで声を荒げるのをウェルザーは聞いたことがなかった。
「彼は教師で、お前は生徒だろう! そのような不純な関係を認められると思うのか!?」
「不純なことなどしておりませんわ! それでしたら、私が生徒でなくなれば良いのでしょう!? この学校を辞めれば、問題もなくなりますわ!」
「それこそバカげておる! お前はいつからそのような物分かりの悪い子になった!?」
「物分かりが悪いのは、おじい様のほうですわ!!」
エキサイトする口論にウェルザーが入るタイミングを計りかねていると、扉が音を立てて弾かれ、中からフィアネスが飛び出してきた。
ふと顔を合わせる二人だが、それも一瞬のことで、少女は絨毯を蹴立てて走り去る。
「待ちなさい! フィアネス!!」
続けて出てきたディックは、その場で呆然と立ち竦む彼を見て、目を見開く。
ウェルザーは少しばつの悪そうな表情を浮かべながら、頭を下げた。
「……失礼致します。ルークラフト卿……お取込み中でしたか」
「ウェルザー殿か……申し訳ない。お恥ずかしいところをお見せした……なにかご用ですかな?」
「いえ……一応、経過をご報告しておこうと思ったので……」
「そうですか……どうぞ中へお入りください」
静けさの戻ってきた中、二人は理事長室へと足を進める。
勧められたソファに腰掛け、ウェルザーは現在の捜査状況を報告した。
「……それで、ルークラフト卿。フィアネス嬢が先ほど言っていたのは、もしやクラウス=レーガー氏のことですか?」
一通りの報告を終えたあとで、彼はそっと話を切り出した。
ディックはその言葉に、わずか眉を動かす。
「聞いておられたのか?」
「はい。大筋のところは……申し訳ありません。立ち聞きするつもりはなかったのですが……」
「いえ、構いません……確かにその通りです」
謝るように頭を下げたウェルザーに答えると、彼は立ち上がる。
そのまま背を向けて数歩歩くと、小さく息をついた。
「……フィアネスには、人並みの幸せを掴んで欲しいというお話はしましたな?」
「ええ。ルークラフトの承継の件ですね。確か相続放棄は了承済みだと……」
ウェルザーは、昼の会話の内容を思い返しながら答える。
その言葉を受け、ディックはわずかに頷いてみせた。
「その話をして以降、フィアネスは彼――クラウス=レーガーに対する感情を抑えないようになりました。それまでは家の立場も考えてのことだったのか、あまり自己主張をしませんでしたが……」
表情こそ見えなかったものの、そこには苦悩が滲んでいるように感じられた。
ウェルザーはフィアネスの取った態度を照らし合わせ、ひとつの結論に達する。
「それはつまり、フィアネス嬢はレーガー氏を……?」
「はい。一年前にやってきた彼に一目惚れしたようです。きっかけは些細なことだったようですが、やがて一緒にいる機会が多くなり、今ではお互い気持ちの通じ合う仲になったようでして……」
やはりとばかりにウェルザーは頷くも、少し意外な思いもあった。
フィアネスが青年に思慕の念を抱いていたのは気付いていたが、どうやらただの憧れではなく、相思相愛の関係になっていたようだ。
「ルークラフト卿のお気持ちは、それとなくわかります。フィアネス嬢はまだ若い……一時の感情に流されて、間違った決断をしないか心配なのですね」
娘や孫を持ったことのないウェルザーだが、ディックの懸念は読み取れた。
しかし同時に、あれほど感情的に口論するほどの要因はないようにも思えた。
「ただ、私も捜査の過程でレーガー氏の人となりは拝見しましたが、稀に見る好人物だと思います。今は立場の違いがあっても、近い将来には解決できることだ。あそこまで強硬に反対する理由はない気もするのですが……」
「はい。確かに彼は立派な青年です。生徒の面倒見も良いし、熱意や誠意に溢れている。そして強い自制心の持ち主だ……」
そのウェルザーの言葉に、ディックは訥々と漏らす。
彼としても、クラウス=レーガーという人物を評価しているのは間違いないようだ。
しかし、そのあとにぽつりとつぶやいた言葉が、ウェルザーの心に一滴の染みを落とした。
「ですが……私には、彼の清廉潔白さがあまりにも嘘っぽく映るのです」
「嘘っぽい、ですか?」
「彼に関する話を聞くと、皆が一様に言います。一時の感情で怒ることもなく常に相手のことを考え、気遣いに長けた素晴らしい人物だと……ほんの少しでも悪く言う人間が、一人としていないのですよ。ウェルザー殿、人とはそんなに簡単な生き物でしょうか?」
「それは……」
ウェルザーは、思わず閉口する。
それは彼が事情聴取をした時にも感じた違和感だった。
あの時のクラウスの落ち着き払った態度は、仮面を張り付けた人形のような印象を受けたのである。
普通なら事件の犯人でないとしても、疑われたことに対する苛立ちの感情などは多少なりと垣間見えて良いはずだ。
「どんな人間にも、必ず負の側面は存在します。彼の性格の裏には、なにかとてつもなくどす黒い感情が潜んでいるような……そんな気がしてならないのです」
それは長年、資産家として人を見てきたディックだからこそ抱いた疑念だったのだろう。
ウェルザーとしてはそれに反論する気持ちはなく、逆に気付かされた気持ちになった。
「なるほど。それがレーガー氏との交際を反対する理由ですか。確かにフィアネス嬢には伝えにくい話ですね」
「……これが、私の考え過ぎなら良いのですがな。人を見る目が曇っているのは、私のほうなのかも知れません」
「いえ……出過ぎたことを申しました。この件に関しては他言致しませんので、どうかご安心を……」
「こちらこそ、変に気を遣わせてしまって申し訳ない。事件の捜査、引き続きよろしくお願い致します」
改めて向き直ると、ディックは頭を下げた。
ソファから立ち上がり、同じように一礼を返したウェルザーは、そのまま理事長室をあとにする。
(どんな人間にも必ず負の側面は存在する、か……)
校舎から出たウェルザーは、正門へと向かう道を進んだ。
道沿いの外灯はまだ灯っているが、それ以外はすでに闇が支配している。
昼間は賑やかだったこの場所だが、今は木々の騒めきしか聞こえない。
(そういえば、フィアネス嬢はどうしただろうか? こんな時間に一人で帰るのは危険だが……)
ウェルザーがふとそんなことを思った時、正門前にたたずむ人影を見つける。
外灯の光を受けて輝く銀の髪は、今まさに考えていた少女のものだった。
「こんばんは。フィアネス嬢」
変に警戒させないよう足音を立てて近付くと、彼は声を掛ける。
フィアネスはそんな彼を一瞥したあと、いまだ不機嫌さを残した表情で答えた。
「……なんの用ですの? 捜査官さん」
「用というほどではありませんが、このようなところに一人では危険ですよ? よろしければ、お送りしましょうか?」
「結構ですわ。私も子供じゃありませんし、まもなくレーガー先生が来てくれます。あなたのような優男に送ってもらう必要はありません」
「やれやれ……嫌われたものだ」
優男という言葉に苦笑を漏らしつつ、ウェルザーは肩をすくめる。
確かに彼女の想い人であるクラウスは筋肉質な体型だったので、比較すればそのように見られても仕方がない。
「まぁ、嫌われついでに申し上げますが、あなたのおじいさんとは、もう少し冷静に話し合ったほうが良い。彼もあなたのことを心配しているのですから……」
「余計なお世話ですわ! さっさとお帰りになったらどうですの!」
夜風に当たって少しは落ち着いたかと思いそのように伝えてみるも、逆効果だったらしい。
ため息をついたあと、ウェルザーは眉を吊り上げた少女に一礼して学園の正門を出た。
(これは、しばらくこじれそうだな。もっとも、私が首を突っ込む問題でもないのだろうが……)
薄暗い歩道を歩きつつ、彼は思う。
実際に今、自分がすべきことはカオスレイダー事件の捜査であって、お節介を焼くことではない。
こうしている間にも寄生者は、着実に覚醒へと向かっているだろう。
改めてノーマンに連絡を取ってみようと思い立ったその時である。
(ん? あれは、レーガー氏か?)
ウェルザーの目は、隠れるように道路の端に停車した一台の車を認めていた。
中では青年――クラウス=レーガーが携帯端末を操作しており、誰かと通話しているようだった。
それとなく観察しながら通り過ぎたウェルザーだが、彼はそこで意外なものを目にする。
(!?……今の表情は、いったい……?)
それは昼とまったく異なり、どこかほの暗い憎悪を感じさせる顔をしたクラウスの姿であった。