(10)冷たき余韻
フィアネスは一人、窓の淵に肘を乗せ、星の海を眺めていた。
パンドラの外縁部には、通路に沿っていくつかの窓が並ぶ区画がある。
そこからは宇宙の星々を眺めることができ、時には地球や火星の光を拝むこともできる。
戦闘要塞として改造されている今のパンドラは娯楽が少なく、レストスペースで待機していてもやることはない。
ここで星の海に思いを馳せ、人の生きる地を見つめることで、気持ちを新たにする特務執行官は意外と多いのだ。
ただ、フィアネスにとって星空を眺めることは、それ以上に重要な意味と想いとがあるようだった。
「人はどこまでいっても、今を生きることしかできない……」
誰に言うともなく、彼女はつぶやく。
その脳裏には、かつての記憶がリフレインされていた。
忌まわしくも、彼女にとっては大切な記憶――。
満天に広がる星空の中、二条の月光が大地を照らす。
静けさに包まれた真夜中、病院の屋上に出たフィアネスは呆然と空を見上げた。
しかし今の彼女の目にはその美しい空でさえ、心癒すものとして映らない。
その瞳は虚ろであり、同時に澄んだ輝きに揺れていた。
(……このまま歩けば、すべて終わりますのね……)
ふらふらと進みながら、フィアネスは思う。
その全身は包帯だらけであり、素肌の露出している頭を除けば、まるでミイラのようだ。
フェンスの張り巡らされた屋上の端へと歩いた彼女は、力を振り絞るように鉄の網を登る。
登り切ったその先に見えたのは、無数の人の営みの光。そして下方に広がるのは死へと続く無限の闇であった。
「フィアネス嬢! なにをしているんだ!?」
フェンス上に身体を乗せるように預けた時、背後から男の声が聞こえてくる。
フィアネスは、その声の主が誰なのかはわかっていた。
しかし彼女は振り向くこともなく、つぶやくように言った。
「放っておいて下さいませ。私は……私は、もう生きていても価値のない人間なのですわ……」
そのまま身を乗り出し、闇の中に身体を投げ出す。
重力に引かれ、フィアネスは死の奈落へと落下を始める。
しかし、目を閉じようとした瞬間、閃くような輝きが彼女に迫り、続いて身体がふわりと浮くような感覚に襲われた。
やがて彼女の姿は、時間を巻き戻したかのように屋上の片隅へと舞い戻る。
「なぜですの……?」
目の前に現れた黒髪の男を見つめ、彼女は声を震わせた。
そのまま昂る感情をぶつけるように、男に声を浴びせる。
「なぜ、助けましたの!? あのまま死なせてもらっていれば、私はもう苦しまなくて済んだというのに……!!」
その瞬間、パァンという甲高い音が響く。
フィアネスの頬に、男の平手が叩き付けられたのだ。
思わず頬を抑えた彼女に、続いて男の怒声が飛ぶ。
「バカを言うな!! 君の祖父が、なぜ生命を懸けてまで、君を助けたと思う!!」
「ですが……私は、そのおじい様にひどいことを……! 一時の甘い感情に流されて……!」
「聞くんだ! フィアネス嬢!」
涙ながらに訴えるフィアネスを遮り、男は続ける。
力強い手が少女の肩をしっかりと掴んでいた。
「どんな人間も完全ではない! そうすることが正しいと自分を正当化し、その結果として取り返しのつかない過ちを犯してしまうことだってある!」
その言葉には、説得のためだけとは思えないほどの強さと激しさがあった。
「それでも、してしまったことは変えられない。どれだけ後悔しても、過去は戻らない。私たちにできることは、その過去を受け止めた上で、今をどうするかということだけだ!」
そこには同時に、なぜかほの暗い感情も垣間見えるような気がした。
フィアネスはただ、動くこともできずに聞き入る。
「人はどこまでいっても、今を生きることしかできないのだ! だから……今の自分をあきらめるな!」
「今を……生きる……」
呆然とつぶやく彼女の身体を、温もりが包み込む。
優しく抱き締めてくる男の腕の中で、フィアネスは星空を見上げながら大粒の涙を流した――。
(……今にして思えば、あれはウェルザー様もご自身に言い聞かせていたのかもしれませんわね……)
意識を現実に引き戻し、フィアネスは思う。
あの一連の言葉はウェルザーの抱えた苦悩と同時に、彼の抱いている決意をも表していたのだと。
かつて聞いた話に加え、秘匿記録を見終えた彼女は、一人静かに新たな誓いを心に刻んでいた。
「フィアネス……」
そんな彼女の耳に届いた声がある。
振り向いたフィアネスの目に、赤い髪の男の姿が映った。
「あら……? ソルド、どうしましたの?」
「いや……君の様子が、少し気になってな」
やってきたソルドはそう言いながら、頭を掻く。
その言葉に少し目を見開いたフィアネスは、ややからかうような口調で答えた。
「またそんなことを口走って……いけませんわよ。そうやってさりげなく女性に優しくしようとしては。ルナルやアーシェリーが聞いたら怒りますわ」
「別にそんなつもりでは……」
「ふふふ……冗談ですわ。でも先ほどは、ありがとうございました。礼を言わせていただきますわ」
いつもの調子を取り戻したように笑うと、彼女は軽く頭を下げる。
「本当に恥ずかしい限りですわ。あの時はつい、カッとなってしまい……サーナにもひどいことを言ってしまいました。彼女にも謝らないといけませんわね」
そう言うとフィアネスは窓の側から離れ、元来た方向に向けて歩き出す。
すれ違うように肩を並べたその時、ソルドはつぶやくようなトーンで彼女に告げた。
「……君にとってウェルザーの存在は、よほど特別なのだな」
「そうですわね。あの時も言いましたけど、あの方は私にとってのすべてですから……」
迷うことなく答えたフィアネスだが、そのまま少し歩を進めると、ふと足を止める。
「ソルド」
名を呼ばれ振り向いた赤髪の青年に、彼女は背中越しに言葉を続けた。
「特務執行官の使命……それは重要なことですわ。ですが、それ以上に私の生命はあの方と、あの方の想いとに捧げたのです。この先どこまでいっても、それは変わりませんわ……」
「フィアネス……」
「もし、ウェルザー様の意思に背く者が現れたら……私はためらいなくその者を討ちますわ。それだけは、心に留めておいて下さいませ」
もっとも、そんなことは決してないと思いますけど……と付け加え、フィアネスはその場から歩き去る。
最後は柔らかな口調になっていたものの、ソルドはその言葉に彼女の強い覚悟と決意とを感じ取っていた。
赤い光と闇が交互に渦巻く世界――そこに浮かぶ岩場の上に、【テイアー】はたたずんでいた。
その前の空間には、丸い穴のようなものが開いている。穴はスクリーンのように、こことは違う場所を映し出していた。
薄暗いながらも、整然と整えられた部屋だ。大きめのテーブルとソファが設えられたその場所に、二人の男女がいる。
葉巻を吹かすダイゴ=オザキと、酒瓶をあおるアレクシア=ステイシス――混沌の下僕たちはわずかの間、思い思いの時を過ごしていた。
「ふ~ん……あれが君のお気に入りの覚醒者かい?」
音もなく現れた【ハイペリオン】が、その映像を見つめる。
そんな仲間に目をくれることもなく、【テイアー】は少し満足げな口調で言った。
「ええ……人の姿を保ったまま覚醒した珍しい事例ね。そして、かなりの力を秘めている……」
しかし【ハイペリオン】は対照的に、あまり面白くなさそうな様子だった。
金の瞳が歪み、その口元にも笑みは浮かんでいない。
「それはそうと……特務執行官に手を出したようだね?」
「ええ……それがどうかしたかしら?」
「少し気が早かったんじゃないかい? まだ僕たちの力も充分じゃないっていうのに……」
「あの程度の相手に、なにを言ってるんだか……邪魔な存在は、速やかに排除したほうがいい」
鼻を鳴らすような仕草で、【テイアー】は答える。
彼女にしてみれば特務執行官は路傍の石程度の存在であったが、同胞復活の妨げになっていることに違いはない。
混沌の力を世に満たそうとする【統括者】としては、さっさと消えて欲しい相手である。
「ふ~ん……意外とせっかちだったんだね。君は」
「お前が悠長過ぎるだけよ。私はタラタラ遊んでいるお前とは違う」
「まぁ、仕方ないか……ただ、これで奴らも本腰を入れてくるだろうから、今までのようにはいかないかもしれないね」
わずか非難めいた言葉を発した仲間に対し、【ハイペリオン】は嘆息するような仕草を見せる。
普段の言動こそ不真面目な感じだが、彼としては特務執行官を侮っているわけではないようだった。
「確かに今の彼らは、取るに足らない存在だ。けど、忘れないで欲しいね。奴らは、あのいまいましい【秩序の光】の持ち主だということを……侮っていると、足元をすくわれるよ」
ゆらりと背を向ける動作をしながら、彼は言い放つ。
【テイアー】はそんな彼に目を向けることもなかったが、そのあと聞こえてきた言葉には、思わず瞳を歪めた。
「ああ。それと、あのアレクシアって女だけど……僕はとっとと処分したほうがいいと思うね」
「……なんですって?」
「確かにサンプルとしては面白い。けど、覚醒して自らの意識を保つということは、僕たちにとって危険なことだよ。ある意味、特務執行官よりもずっとね……」
いつになく冷めた口調の【ハイペリオン】に【テイアー】は憤りを覚えつつも、反論しようとはしなかった。
再び映像を見つめた銀の瞳の奥に、わずか厳しい光が垣間見えた――。
FILE 4 ― MISSION COMPLETE ―




