(1)ある男たちの再会
蒼と朱の雲間に、夜が滞っていた。
乾燥した風が、耳障りな笛の音を残して駆け抜ける。
巨大な墓標を思わせるビル群を縫い、空間鉄道と高速道路が交錯する。
街を照らす七色のネオンとヘッドライトが、光の洪水を生み出している。
闇を振り払う輝きは、人の生と叡智の証だ。それは故郷の星を離れた今でさえ、変わらない光景である。
光の下、街を歩く人々は、一様に厚着をしている。
火星北部の都市アンテラの夜は、お世辞にも過ごしやすい気温と言い難い。身をすくませて歩く者や赤ら顔でふらつく人間が多いのも、ここでは見慣れた光景だ。
違和感があるとするなら皆が皆、身ぎれいな格好をしていることくらいだろうか。
センスの違いがあるとはいえ、ボロをまとった人間の姿は一人としていない。金銀宝石の装飾をしていない者も少ないくらいだ。
「……胡散臭いところだ」
伸びた顎ひげを無造作に撫で回し、ボリス=ベッカーはつぶやく。
くすんだ茶色の瞳には、嫌悪の光が浮かんでいる。
彼自身も見栄えの良い格好はしていたが、元の品格が高くないことは誰の目から見ても明らかだ。
ミラー越しに彼を見やったタクシーの運転手が、軽く笑みを浮かべる。
「お客さん、火星の人じゃないですね?」
「まぁな……なんでだ?」
「他から来た人は、みんな似たようなことをおっしゃいますから」
「だろうな。お呼ばれでなけりゃ、一生来ることはなかったろうよ」
ぶっきらぼうにボリスは答える。
実際、こんな居心地の悪い場所はとっととおさらばしたいというのが本音だ。
貧乏人は、金持ちが嫌いである。
「失礼ですが、ご出身は?」
「コロニーのベータだ」
「ほう……じゃ、同郷ですな。私も生まれはあそこでして……ここに来た当初は、やはり落ち着かなかったものですよ」
運転手が気を遣ったように言う。
仕事柄、対応には慣れた様子があるが、あまり感情面での変化が見えないのは不自然な話だ。
鼻を鳴らすボリスの口元が、微妙に歪む。実際に運転手が同郷であるかは疑わしい。
「だが、今じゃすっかり慣れた感じだな。成金相手のあこぎな商売で、金回りが良いせいか?」
「これは手厳しい。ですが、否定はしませんよ……ここじゃ当たり前の相場ですからね」
「そうだろうな。金持ちにしてみりゃ、はした金だ。むしろチップのほうが多かったりしてな」
「いえいえ……そんなことはありませんよ」
皮肉を漏らすと、運転手の笑みも苦笑に変わる。
ボリスの視線は、彼の脇で輝く運賃メーターに注がれていた。
桁が文字通り、一桁違う。故郷の人間が見たら、機械の故障かと疑ってしまうだろう。
もっとも、それで商売が成り立つということは法外ではないということだ。金持ちから金を取ることは経済の活性化に繋がるのだから、悪いことではない。
幸いボリス自身も、今回は自分の金で乗車しているわけでないので、いわば他人事だ。
足を組み替えて彼がシートに沈み込むと、赤の光と共にサイレンの音が響いてきた。
「フン。なにやら、物々しいな」
「ああ……ここ最近、殺人事件が頻発していましてね。保安局も躍起になっているようです」
「殺しか。治安の良し悪しはあれど、物騒な事件はどこでも起きるもんだ」
「確かにそうですが……最近は異常ですよ。特にこの事件の犯人なんかはね」
運転手が脇のボタンに触れると、ボリスの眼前に映像が浮かび上がる。
そこには夥しい血にまみれた殺人現場と、たむろする野次馬の姿が映っていた。
どうも今朝のニュースの録画らしい。見出しには【またも動機不明の怪殺人。バラバラ惨殺死体の犯行に使われた凶器とは?】と出ている。
「ほう……どこのどいつかは知らねぇが、よくやるもんだ。憂さ晴らしにしちゃ派手過ぎだがな」
「快楽殺人という線もあるようですがね。どっちにせよ、証拠を残さない手口はたいしたものです」
「ま、俺にゃ関係ねぇ……メシは地元のメシ屋が一番。よそ者は口を出さんさ」
ひとしきり内容を見たボリスは、興味なさげにつぶやいた。
関係ないという言葉の中に、うんざりした響きが混じっている。
運転手は不思議そうに口を開きかけるも、すぐに黙り込む。ボリスの瞳に、それ以上の追及を許さぬ厳しい輝きがあったからだ。
メシは地元のメシ屋――その言葉の意味は、彼の態度が物語っている。
和やかな雰囲気は、すでに固まっていた。
タクシーは、アンテラの西郊外に出る。
この辺りは広大な敷地を持つ家が多く、一目見て富裕層の住む区域だとわかる。
ただ、保安局の車は市街以上にやかましく巡回している。
この地域は衛星軌道でも監視の目が光っており、事が起これば数分で武装警官が押しかけてくる仕組みだ。
ある意味、刑務所よりも居心地が悪いんじゃないかと、ボリスは思った。
そこから数分も走ると、目的地が視界に入ってきた。
遥か昔のゴシック様式を模した白亜の建物だ。
周りには広大な庭園が広がっており、地球由来の植物が、美しい花々をつけている。
門の脇には空間投影型のCGプレートが浮かんでいる。
【ジョニー=ライモン、ディナーリサイタル。天才ピアニストと過ごす音楽の夕べ】という文字が、目立ち過ぎるくらいに輝いていた。
「……ここか。あいつも偉くなったもんだ。こんなところでリサイタルたぁな」
タクシーを降りたボリスは、フリーパスを運転手に投げてドアを閉めた。
こうして近くで見ると、建物は圧倒的な存在感をもって彼を威圧してくる。
頭を廻らすと、着飾った紳士淑女がこちらへ歩いてくるのが見える。
着こなしも身のこなしも洗練された彼らから見れば、ボリスの格好はよほど奇異に映るらしい。
誰もが訝しげな視線を向けつつ、彼の脇を通り過ぎていく。
(……やっぱ、ガラじゃねぇってことだな)
無造作に頭をかきながら、ボリスはここに来たことを後悔し始めていた。
居心地の悪さは覚悟の上だったが、似た雰囲気の人間がまったくいないのも気が重い。
周囲を気にかけぬよう歩み出す彼だったが、ふと気になる気配を感じて顔を上げる。
入口脇で歓談する数人の男女の中に、一人異質な雰囲気を持つ女がいた。
(ほう……こんな場所に似合わねぇのは俺だけかと思ってたが、そうじゃねぇのも混じっていやがる)
ボリスの眉が、わずかに跳ね上がる。
彼の目に飛び込んできたのは、鮮やかなオレンジのドレスに身を包んだ女だ。髪も茶とオレンジのメッシュであり、容姿の美しさも相まって人目を引く。
明らかに違和感のあるボリスと違い、周囲の空気とも見事に調和している。
しかし、瞳の奥に潜む剣呑な眼光は、修羅場をくぐってきた者だけが持つ特有のものだ。
つまりは殺人者か、それに等しい者の目である。
(どうにも怪しすぎだな。俺も人のことは言えねぇが……)
ふと、タクシーの運転手が言っていた殺人事件のことを思い出す。
身体中の血が疼くのを感じながら、ボリスは女を横目に館内へと足を進めていった。
「ふーん……ずいぶん鋭い嗅覚を持ってるわね。同業とは思えないけど」
そんな彼の様子を見つめ、当のメッシュの女は、わずかに眉をひそめていた。
ホールの中には、かなりの客が集まっていた。
十メートル以上の天井を持つ室内も、妙に狭く感じられる。
あの天井の高さから下を眺めれば、アリの群れが這い回ってる様子に似てるかもしれない。
つまらないことを考えながら、ボリスはウェルカムのウィスキーを喉に流し込む。
芳醇な樽の香りが口内を満たすが、安酒に慣れている身としては、あまり美味に思えない。
火星の人間は人工食材を口にしないとは、よく言ったものだ。
「よぉ、ボリス! 来てくれたのか!!」
そんな彼の耳に、男の声が飛び込んでくる。
ボリスが振り向くと、黒髪をオールバックに整えた一人の紳士の姿が見えた。
取り巻きの人々をかき分けるようにやってくる紳士を見て、ボリスの表情が思わず緩む。
「久しぶりだな。ジョニー……しばらく見ねぇうちに、お上品になったじゃねぇか」
彼がグラスを掲げると、ジョニーと呼ばれた紳士は屈託のない笑みを返した。
ボリスよりはずっと洗練された外見でありながら、その雰囲気はお互いに近いものがある。
タキシードの襟を正すような仕草を見せて、彼は口の悪い男に囁いた。
「とりあえず上辺だけ取り繕ってるのさ。お前とつるんでバカやってた頃と、中身に差はないつもりだぜ?」
「そんなもんかね? ま、昔のよしみで、そういうことにしといてやるよ」
「相変わらずだな。お前も……しかし、本当によく来てくれた」
「一応、招待状もらったからにはな。本当なら来たくもねぇ場所だ」
そう言うと、ボリスはよれよれの封筒を取り出してちらつかせた。
今時、紙の招待状というのも前時代的である。
ジョニーは苦笑して、肩をすくめてみせた。
「まぁ、俺も正直、お上品な奴らの相手に疲れてたんでな。迷惑と知りつつお前を呼んだのさ。そいつが無駄にならなくて本当によかったぜ」
「は? なんだと? 俺はお前の気晴らしのために呼ばれたってのか?」
「ハハハ……そう怒るなよ。メシも酒もたくさん用意してあるからな。せいぜい楽しんでいけ。あとでまたゆっくり話そうぜ」
退けたはずの招待客が再び集まり出したことに気付き、彼は速やかに踵を返す。
見事にかわされた怒りのやり場に困りながら、ボリスはグラスの残りを飲み干した。
「強引なところは、変わってねぇ。ま、そうでなきゃ、のし上がることもできねぇか……」