太陽の名を持つ男
そこは炎獄と呼ぶにふさわしい光景だった。
目に映るすべてが灼熱に包まれ、朱の闇に染まっている。
折れ曲がった鉄骨と崩落した瓦礫が、無造作に散らばる。
火花を上げているのは、ちぎれた配線と用途不明な電子機器。床に点在するオイル溜まりは、業火の温床となっている。
横たわる重機群の間に紛れて見えるのは、数多の死骸である。
紛れもなく、かつて人であったものだ。
絶叫をあげて固まる者、脅えたように身を丸める者、原型を留めぬまでに破壊された者――様々あれど、今はすべて等しく肉の塊であった。
「なんなんだ!! なんなんだよおおぉぉおぉ!!」
その中で、ただ一人奇跡的に生き延びている男がいる。
だが、彼の瞳は恐怖で見開かれ、狂乱じみた金切り声をあげている。
それもそのはずで、男の目の前には信じられない生物が存在していた。
深みを帯びたオニキスの体色が特徴的なそれは、遥か古代の肉食恐竜に近い姿をしている。
身長はおよそ二メートルほどか。口から荒々しい息を吐き、辺りを睥睨している。
その眼光にはわずかながら、獣らしくない知性の輝きがあった。
「チ……ハカイ……スベテハ、コントンニカエルノミ……スベテハ、スベテハ……」
獣は、熱に浮かされたように同じ言葉を紡いでいる。
「くるなよ! くるなあぁぁぁああぁぁ!!!」
男は逃げることもかなわず、わめき続けている。
腰が抜けたのか、立ち上がることもできない。
その股間には、たった今できたばかりの染みが浮いていた。
「……オオォ……スベテハ……コントンニ……オオアァオォ……チヲォオォォォォ!!!!」
獣は、男の声に耳を貸さない。
それ以前に、お互い相手の言葉を理解しているか怪しいものだ。
地響きと共に一歩を踏み出した獣が、その巨大なアゴを開いて、男に食らいつく。
「うぎあやああああああああああああああぁあぁあぁぁぁぁぁ……!!!」
ぞぶりという音をたて、牙が男の肩口に食い込む。
溢れる鮮血に加え、骨の砕けるような音が響く。
宙に持ち上げられた男は断末魔の絶叫の中で、絶望に浸る。
「ごぎょあああぁあぁあぁぁぁぁあぁ……!!!」
だが、獣は男を食らい尽くすつもりではないようだ。
代わりに何度も噛み直し、男の全身を穴だらけにしていく。
なぶって楽しんでいるかのように、異形の瞳が嬉しげな光を放っている。
「た、たす……あがああ……け、ぐ………あぁ…………」
やがて絶命した男は、動かなくなった。
それを見届けると、獣は彼を無造作に投げ捨てる。
「チ……コントン……ハカイ……ハカイヲ……」
巨躯を引きずるようにして、獣は歩き出す。
獣は、次の獲物を求めていた。
獣はこの場で目に映るものすべてを破壊し、逃げ惑う人々を次々と手にかけた。
抵抗する者も一部にいたが、まるで相手にはならなかった。
今の男のように、容赦なくなぶり殺した。
恐怖、悲しみ、絶望といった負の感情の渦は、獣にとって最高のごちそうだったのだ。
呼吸をするたびに、今もその残滓を感じ取れる。
たまらない。
だが、まだ足りない。
もっと破壊し、殺さなければ。
満たされない。
獣の頭にある衝動は、ただそれだけだった。
しかし、すでに辺りに生ある者はいない。
どうやら先ほどの男で、最後だったらしい。
ならば、遠くに行くことにしよう。
どうせ、時間はたっぷりある。
外に出れば、獲物はよりどりみどりだ。
爛々と輝く目の奥で、獣が漠然とした思いにとらわれた時であった。
ふと、その視線が上に向けられる。
朱と漆黒がグラデーションを描く天の彼方に、星々に紛れて光るなにかがあった。
赤い光――周囲を満たす炎よりも鮮やかな輝きが、徐々に大きさを増してくる。
それが落下してくるのだということに、獣が気付いた刹那の瞬間だった。
轟音が響く。
光は凄まじい勢いで、獣の前方に落着していた。
熱風と共に弾き飛ばされた無数の鉄片が、辺りに飛び散る。
獣の身体にもいくつか当たったが、特に気に留めた様子もなく、彼は視線を前方に戻した。
一時の静寂の後、立ち昇る陽炎の中にシルエットが浮かび上がる。
そこにいたのは、一人の人間である。
どこにでもいるような、若き青年の姿だ。
しかし、常識では考えられない現れ方をした青年は、果たして人間なのか。
その髪は、炎に負けぬほどの朱を宿している。
その瞳は、闇夜の猫に似た黄金の輝きを見せる。
恐怖の色は欠片もなく、あるのはむしろ怒りの感情だった。
「指定ポイントに到着……目標を発見した。ただちに掃討する」
青年はつぶやくと、一歩を踏み出す。
周囲を包む炎をものともせず、焼け焦げることもなく、彼は目の前の獣に近づいていく。
不思議なことに獣は、動くことができないでいた。
先ほどの男のように、容易くいたぶれそうな相手にも関わらずである。
「ずいぶんと派手にやってくれた。だが……貴様の生命は、ここで尽きる」
青年は辺りの惨状を見渡しながら、静かな口調でつぶやく。
金の瞳がより激しい輝きに満ち、炎の中に映える。
口から漏れたのは殺意の言葉だが、そんな生易しさで言い表せない空気が彼の周りに漂う。
「オオオオォォォォオオォォォオオォォォォォ!!!」
咆哮が轟く。
それは今まで威圧されていた獣の口から漏れたものだ。
風を巻いて、青年に豪腕が振り下ろされる。
地面を叩き潰すかのような一撃だった。
再びの轟音。
それは肉のひしゃげる音にしては、あまりに大きなものだった。
「ウガアアァァアアアァァァァアアァァァァァァ……!!!」
しかし、その後に響き渡ったのは、青年の絶叫ではない。
巨大な獣が、天を仰いで叫んでいた。
肩口からもぎ取られたようにその腕がちぎれ、どす黒い血が飛び散っている。
宙を舞った異形の腕が消し炭のように燃え尽き、地面に落下した。
青年はただ拳を振り上げて、その場にたたずんでいるだけである。
「バカ、ナ……キサマハ、ナンダ? ナンナノダアァァァ!?」
獣が、明確に意思のある言葉を口にする。
それは驚愕と恐怖――理解不能な目の前の青年に対する恐れが、獣の脳を支配していた。
燃え盛る炎を薙ぎ、青年の名乗りの声がこだまする。
「我は太陽……炎の守護者! 絶望導く悪の輩を、正義の炎が焼き尽くす! 我が名は、特務執行官【アポロン】!」
同時に、青年の手がゆっくりと開かれた。
太陽を圧縮したような力強い炎が、そこに生まれている。
その炎が閃光と共に放たれ、獣の身体を瞬時に包み込んだ。
「ウ……ウオオオヲヲォォォォオオオォォォォオオォォ……!!」
世界が一瞬、白く染まった。
巨大な異形が弾け、燃え上がり、塵となっていく。
断末魔の絶叫と共に、獣はあっけなく消滅する。
まるで初めから、その存在すらなかったかのように。
「掃討……完了」
あとには、無情な青年の声が残るのみだった。
「オリンポス・セントラル……アクセス」
青年はしばし周囲の状況を観察してため息をつくと、手の平を胸元で天に向けた。
そこに光の渦が現れ、やがて収束し、目の前に立体の映像を結ぶ。
長い黒髪の女性の姿だった。どこか愁いを帯びた表情が印象的な美人である。
『こちら、オリンポス・セントラル……【クロト】です』
「【アポロン】より、コードナンバーS114の件で報告。対象の排除は完了。だが、生存者はない。完全に手遅れだ」
『了解。お疲れ様でした』
青年の報告に、【クロト】と名乗った女性はわずか目を細める。
あくまで事務的でありながら、その様子は望ましくない言葉を聞いた人間のそれだった。
「事後処理は大変だろうが、よろしく頼む。もっとも生存者がいない分、情報操作は難しくないかもしれんが」
『それは……皮肉ですか?【アポロン】?』
「そういうわけではないがな。ただ、もう少し早ければ、生き延びる者もいただろう。それが悔やまれるだけの話だ」
『仕方ありません。私たちは万能の存在ではありませんから。ですが、救える人もいることは確かです。直接、現場に赴くあなたたちには、無責任な言葉になってしまうのでしょうけど……』
彼女は、やや穏やかなトーンで語りかけた。
気を遣わせてしまったことにふと気付き、青年はわずかに笑みを返す。
「すまんな。少し愚痴っぽくなった。これより帰還する」
『了解』
通信を終えると映像は再び光に戻り、飛び散るように消えた。
青年の瞳には、先ほどまであった雄々しい輝きはなくなっている。
代わってあったのは、悲しみとも哀れみとも取れる光だ。
燃え尽きた生命と己が倒した獣に祈りの言葉を捧げながら、彼はいまだ煙る空へと向けて飛び立っていった――。