(8)想いと覚悟
薄闇の中で、アレクシアは目を覚ました。
やや低い天井が目の前にあり、背に当たる感触はそこがベッドの上であることを認識させる。
ただ、どこであるのかまではわからず、ひっそりとした静寂だけが辺りを包んでいた。
(私は、なぜこんなところにいるの……?)
意識を取り戻す前のことを思い出し、アレクシアは眉をひそめる。
彼女は潜入したガーデンレストランで、仇敵である緑の髪の女に殺される直前だった。
目の前に迫る槍の冷たい輝きが、今も鮮明に記憶に残っている。
「あの世……ってことはないわね。こんな薄汚れた場所……ぐっ!」
つぶやきながら身を起こすと、右腕が鋭い痛みを発する。
肘の辺りから折れているようだが、よく見るとその腕にも添え木と包帯が巻かれていた。
「気が付いたようだな」
すると彼女の覚醒を待っていたかのように、低い声が響き渡った。
アレクシアが目をやると、そこには黒っぽいスーツを纏った壮年の男の姿がある。
その瞳には、わずかながらに紅い輝きが見えていた。
「あなたは誰……!? 私をどうしようっていうの?」
「おや、ずいぶんな台詞だな。私は君を助けたつもりなんだが?」
「助けた、ですって……?」
その男――ダイゴ=オザキは葉巻を取り出して火をつけながら、アレクシアを見下ろす。
ややあって流れてきた煙が、女の鼻腔に鋭い刺激をもたらした。
「あのままだと、君は緑の髪の女に殺されていた。君の婚約者の生命を奪った憎い仇にね……」
「っ!? なぜ、それを!!」
事情を知ったようなその言葉に、アレクシアの表情が気色ばむ。
痛みをこらえつつベッドの上で体勢を整え、彼女は男に油断なく向き直った。
「まぁ、落ち着きたまえ。私は君の敵ではない」
「そんなことを……簡単に信じると思うのかしら?」
「フフフ……さすがは【スカーレット・ウインド】。警戒心の高さは大したものだ」
男はどこか愉快げに言うと、葉巻の灰を落とす。
その灰を足で踏みつける音が、室内にわずか響き渡った。
「ただ、君も理解したのではないかね? 君の追っていたあの女は普通の人間ではないということを。あれは特務執行官という生体兵器なのだ」
「特務……執行官ですって?」
「今の君では、どうあがいてもあの女には勝てん。返り討ちにあうのがオチだ」
冷たく放たれた言葉に、アレクシアは顔を俯ける。
認めたくないことだが、それは事実だった。当初は追い詰めたつもりだったが、実際はなんらかの理由で相手が手を抜いていただけであり、そのあとに彼女は殺されかかっている。
「しかし、私の提案を受け入れる気があるのなら……君は力を手にすることができる。憎い仇に匹敵するであろう力をね」
ダイゴはそんなアレクシアの思いを見透かしたように、言葉を続ける。
葉巻の先端に灯った火が、彼女の瞳に光を焼き付けていた。
「……ひとつ聞かせてもらっていいかしら?」
「なんなりと」
「そうすることで、あなたにどんなメリットがあるのかしら? 見返りも求めないような取引などありはしないでしょう。アマンド・バイオテックのダイゴ=オザキ……!」
心の揺らぎを抑え込み、アレクシアは努めて低い声で告げた。
その言葉を聞いたダイゴは一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに口元に笑みを浮かべる。
「ふむ……なるほど。やはり君は大した女だ。私のことも知っていたか」
「ええ、自殺したという話は聞いていたわ。どうやら嘘のようだけどね……」
「まぁ、私にも少し事情があってね。今はアマンド・バイオテックと関係のない別の仕事をしているのさ……」
男の声は、特に感情を感じさせないものだった。
輝く紅い瞳が、アレクシアの瞳を鋭く捉える。
「それはさておき、先ほどの答えだが……もちろん私とて善意などという曖昧なものは信じていない。君が私の提案を受け入れることで発生する私のメリット……それは特務執行官に対抗する戦力を得るということだ」
「対抗する戦力? あなたはその特務執行官とかいう連中と一戦交えるつもりなの?」
「ああ……今はさておき、近い将来それは訪れるだろう。つまり、君が本懐を果たすことと私の目的は一致しているということなのだ」
そこまで言うと、ダイゴは葉巻を床に投げ捨てた。
アレクシアのほうにわずか歩みを進め、彼は強い口調で告げる。
「さて、どうする? アレクシア=ステイシス……信じる信じないは君の自由だが?」
その言葉に、アレクシアは瞑目する。
実際、今のままではダイゴの言うようにロイスの仇は討てないだろう。
彼女を責め苛む謎の声の存在もある。自分の生命がどこまで持つかわからない以上、できることはすべてやっておく必要があった。
今の彼女のすべては、復讐を果たすために存在しているのだから――。
「……いいわ。乗ってあげる。どのみち捨てたような生命だしね……」
「決まりだな」
その答えに満足したように、ダイゴは口元を歪めた。
女の覚悟はさておき、これで彼の仕える存在の思惑は先に進んだことになる。
(あとは、この女次第ということだな。さて、この賭け……どちらに転ぶやら……)
決意に満ちた瞳の女を見据え、ダイゴはその口元を再度歪めた。
真紅の血飛沫が、宙に舞っていた。
大勢の人々の絶叫が、濁り始めた空気を震わせている。
風は荒々しく吹き荒び、幸せを歌う木々の囁きは悲痛なざわめきへと転じていた。
「逃げ、て……逃げて……シェリー……ッ!」
聞きなれた声が耳を打つ。
それは極めて弱々しく、それでいて必死の思いが込められた声だ。
目の前にいるのは、血まみれの花嫁。
その後ろにいるのは、瞳を紅く輝かせたタキシードの男。手には鋭い爪が生え、鮮血を滴らせている。
(姉さん……どうして……!? やめて……やめて下さい……!)
声にならない思いの中で、振り下ろされた爪が花嫁の背を貫く。
噴き出した血が視界を赤く染め、絶望の中で時が凍り付く。
「スベテハ……コントンニ……キスルノダ……」
「姉、さん…………うああ……ああああぁぁぁぁぁあぁぁぁっっ!!」
タキシードの男が、異形の化け物に変わっていく。
それを見つめて迸り出たのは、狂おしき絶叫だった。
固定された視界の中で、愛と憎しみ――様々な思いが渦を巻く。
溢れてくる涙を拭うこともせず、湧き上がる混沌の情動に身を任せて泣き叫ぶ。
やがて目の前の凶気の爪が再び高く振りかぶられた時、飛び込んできた影がその動きを止めた。
「そこの君、逃げるんだ! 早く……!」
霞む視界の中では、それが誰なのかはわからなかった。
タキシードの男を押し留めて声を張り上げたのは、恐らく若い男であろう。
ただ、そこで映像としての記憶は途切れる。
目の前に飛び散った鮮血が、世界すべてを赤く塗り替えたのだ。
「くっ……貴様! おおおおぉぉぉっっ!!」
最後に聞こえてきたのは、怒りと共に放たれた男の声――。
月明かりの下で、アーシェリーは目を覚ました。
闇はその濃さを薄め始めており、時刻としては明け方が近づいてきているのだろう。
空気はわずかに湿り気を帯びており、木の葉から滴り落ちた水滴が彼女の脇へと落ちる。
背の低い草むらの中に立ち上がりながら、彼女は大きく息を吐き出した。
(……あの時の夢を今になって見るなんて……思いもよりませんでした)
先ほどの夢の内容を思い返し、空を見上げる。
特務執行官の身体構成は通常、普通の人間とほぼ変わらない。無限稼働炉のメモリーデータと同時に、脳の中には同じ記憶が存在している。
それはすなわち、夢も見るということだ。
夢で見たのは、忌まわしい記憶――彼女が特務執行官になる前の出来事。もっと正確には、彼女が人間としての生を終える前の出来事である。
(あのような悲劇を二度と見たくなくて、特務執行官になったはずなのに……)
昼の出来事を思い返しながら、彼女は視線を落とす。
幸せそうな新郎新婦を襲った悲劇――それはかつてアーシェリーが味わった悲しみそのものだ。
特務執行官として生まれ変わり、彼女は守るための力を手にしたはずだった。
しかし、実際はその悲劇を防ぐために、新たな悲劇を生み出してしまった。
アレクシア=ステイシスは自分が抱いた狂おしき思いを、ある意味で共有した存在なのである。
(かつてアレクシアから逃げ、今回もまた彼女を討てなかったのは……私が弱いから、なのでしょうか……)
右手を握り締めながら、彼女は思う。
愛する者を失う絶望、そして理不尽に訪れた災厄への怒り――それを知るからこそ、自分は同情してしまったのだろう。
槍を振り下ろすのをためらったのは、その証なのだ。
(ですが……このまま放っておくことは、できない……私は、彼女を討たねばならない……)
しかし、アレクシアがカオスレイダーと判明した以上、予断は許されない。
放っておけば彼女は覚醒し、新たに災厄をまき散らす存在となるだろう。
それはかつての自身の誓いを破ることであり、今の自身を否定することだ。
「愚かな私に、力を貸してください。姉さん……そして……」
眼鏡を外し両手で握り締めながら、アーシェリーは祈るようにつぶやく。
その脳裏にはかつて愛した者の姿と同時に、一人の男の姿が浮かんでいた――。




