(4)悲しき復讐者
かつてアレクシアは、ロイス=ヴァレンタインという男と付き合っていた。
彼は有能な弁護士であると同時に、優しい男でもあった。
大学生の頃に出会って以来、意気投合した二人は愛を育みながら、共に過ごしてきた。
社会に出てからはお互い多忙で、一緒にいられる時間は少なくなっていたが、それは不満ではなかった。なぜなら彼を支えることが、いつしかアレクシアにとっての喜びとなっていたからだ。
プロポーズの時は、涙が出るほど嬉しかったことを覚えている。
これからもずっと、同じ時が続いていく――彼女はそう信じて疑わなかった。
だが、その想いは突如打ち砕かれることとなった。
ある大雨の日の深夜、アレクシアはロイスから一通のメールを受け取ったのである。
『埠頭に行くのが少し遅れる。なるべく急ぐから待っていてくれ』
文章はたったそれだけの簡潔なものだったが、その内容は彼女にとって意味不明なものであった。
なぜならアレクシアは別に、彼と会う約束など交わしていなかったからだ。
ここ最近ロイスはひどく疲れた表情をすることが多く、彼女としても無理に負担をかけることはしたくないと考えていた。
ましてこの天気で、このような時間に会うこと自体、考えられないことである。
なんのことかわからない旨を返信したものの、彼からの答えは返ってこなかった。
不審に思ったアレクシアは、街の埠頭へ赴くことにしたのだ。
先すらも見えない闇と雨の中、車を走らせた彼女が埠頭に着いたのは、零時を少し回った頃であった。
少し進むと、そこには見慣れた一台の車があった。ロイスの愛車である。
(ここね。どうやら、間に合ったみたいだけど……)
その後ろに着けるようにして、アレクシアは車を停車させる。
外に出て観察してみると人は乗っていなかったが、まだ到着したばかりなのか車下の路面は乾いてもいなかった。
どことないざわつきを心に感じながら、彼女は周囲を見回しつつ歩を進めていく。
やがて、その瞳がふたつの人影を捉えていた。
「ロイス……?」
霞む視界の中ではあったが、その後ろ姿は婚約者のものに違いなかった。
そして彼と向かい合っていた人物は、シルエット的に女性のようであった。
悪天候とはいえ、このような人気のない場所に男女が二人――思わずアレクシアの心に、暗い疑念が湧き起こる。
(……こんなところで、なにしてるのよ……!)
ざわつきを微かな怒りに変えながら、彼女は駆け出そうとする。
しかし、次の瞬間起こった出来事は、その怒りを更に驚愕に変えていた。
「え……!? ロイ、ス……!」
突然、女に襲い掛かろうとするかに見えたロイスが、逆に地面に叩き付けられたのだ。
それは素人目で見ても、殺意を感じさせるものだった。
現に勢いよく頭から落ちたロイスは、そのまま倒れ伏して動かなくなる。
「ロイス!? ロイスゥゥッ!!」
傘も捨て、アレクシアは絶叫して走り出していた。
相手の女は静かにたたずんでいたものの、そんな彼女を見て初めて動揺した様子を見せる。
「ロイス!! しっかりして!! お願い! 目を開けてぇ!!」
愛する男の側に駆け寄りながら、アレクシアはひたすらに呼び掛ける。
しかし、ロイスはピクリとも動くことはない。
濡れたアスファルトの上に、水と異なる澱んだ液体が大量に溢れていた。
それが血だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「あなた! 待ちなさいよ!! なぜ、ロイスを……うわあああぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁ……!!」
ロイスの亡骸を抱き起こしながら、彼女は婚約者を死に至らしめた女を睨みつけようとする。
しかし、相手はすでにそこになく、遠ざかる後ろ姿だけが見えていた。
「うああああぁぁぁぁあぁぁぁ……許さない! 殺す! 殺してやる!! 殺してやるううぅぅぅっっ……!!」
絶望に満ちた闇の空に、生命を削るほどの絶叫が響き渡る。
アレクシアの流す涙は血の色に染まり、握り締める拳もまた血の色に染まった。
それは彼女自身の人生が変わった瞬間であり、今の自分を構築する一因となった出来事であった。
最愛の人間の生命を奪った一人の女――その顔も名前もわからない。
ただひとつわかっていたのは、鮮やかな緑の長髪を持っていたということだけだ。
それだけは唯一はっきりと、アレクシアの眼に焼き付いていたのである。
「ううう……殺して……殺してやる……ぅぐぅっ!! くぅっ……!」
わずかな光の灯る空間で、アレクシアは苦しげな叫びと共に飛び起きた。
額に多量の汗が浮かび、それが頬を伝って流れ落ちる。
息は荒く、とても今まで休んでいた人間のものとは思えないほどだ。
(また、あの夢……)
歯噛みしながら、彼女は手で汗を拭う。
それは、もう何度見たかわからないほどに再生された悪夢であった。恐らく、これからも繰り返されるのだろう。
ベッド代わりのソファを降り、端末を操作する。
メールは何通か届いていたが、その中に彼女の渇望する内容が書かれたものはない。
(緑の髪の女……許さない。必ず正体を暴いて、ロイスの仇を……!)
ままならない状況にアレクシアは苛立ちつつ、拳を壁に打ち付ける。
音と共に舞った埃が、光の中に渦を巻いた。
仇敵となる緑髪の女――しかし、その情報はまったくと言っていいほど集まらない。
無理もない話である。自然発生する色でないとはいっても、ファッションで髪を緑に染める人間は星の数ほどいる。
一人の人間を特定する手がかりとしては、あまりに弱すぎるのである。
『コロセ』
身を投げ出すように椅子に座ったアレクシアだが、不意にその頭の中に声が響く。
それは文字通り、外から聞こえるものではなかった。
自分でない何者かが自分の中に住み着いているかのように、直接脳に語り掛けてくるのだ。
『ハカイヲ……コントン……チヲォォォ……』
(ぐぅっ! うるさい! 私の心を……かき乱すな!!)
頭を押さえた彼女の身体が、椅子ごと床に倒れる。
もう三ヵ月になるだろうか。突如として響き始めたその声は、悪夢のたびに彼女の心を蝕んでくるようになった。
ガウンがはだけ、あらわになった白い肌を埃っぽい床にこすりつけながら、アレクシアは悶絶する。
(私は……ロイスの仇を討つ! そのためには、この身がどうなろうとも……!!)
その瞳には、わずかながらに紅い輝きが宿っていた――。
そんなアレクシアの潜む廃工場を見下ろすように、ふたつの影が中空に浮かんでいる。
暗闇の中でも、その存在感は際立っている。闇を呑み込むかのような、さらに濃く深い闇が人の形をして存在していた。
そして、その濃闇の中には、金と銀の瞳のような光が浮かんでいた。
「へぇ……あれが、君の見つけたサンプルってわけ?」
その内のひとつ――金の瞳を持つ【ハイペリオン】は、今のアレクシアの状況を見透かしたようにつぶやく。
その眼の下の口元には、歪んだ笑みが浮かんでいる。
対する傍らの銀の瞳の影の口元には、表情を感じさせる動きは見えない。
「そう……偶然にも、特務執行官とやらに恨みを持っている寄生者ね」
冷たい銀の瞳を輝かせ、影は女の声色でつぶやく。
その口調はやはり機械的であり、【ハイペリオン】と比較すると無機質な印象を受ける。
「確かに面白そうだ。ただ、どれだけ憎しみが強かろうと、因縁の相手が特務執行官じゃあ分が悪いね……」
「……もちろん、お膳立ては整える必要があるわ。けど、それだけの価値はある……」
いつものように肩を揺らして笑った【ハイペリオン】は、そんな相方を見つめてさらに口元を歪める。
それは無邪気な子供のようでありながら、底知れぬ邪悪さを感じさせる表情であった。
「なるほどね。じゃあ、復活したばかりの君のお手並み拝見といこうか……」
そう言い残して、彼は空の闇に溶け込んでいくかのようにかき消えた。
静寂の中、ただ一人残された銀の瞳の影は、そこで初めて感情らしきものを覗かせる。
「相変わらず、悠長な奴……」
苛立たしさを含んだ声が、暗闇の中に微か響き渡った。




