(17)混沌の下僕
アマンド・バイオテックの支社となるビルの屋上で、ダイゴ=オザキは紫煙をくゆらせていた。
曇天の下を吹き抜ける風に、葉巻の煙が流れるように消えていく。
ここは従業員に開放されている休憩スペースのひとつであったが、今日は風が強く肌寒いためか、彼以外の人間の姿は見当たらない。
(エンリケス……奴はこちらの思惑に乗った。思った以上に、扱いやすい男だったな)
その場で孤独にたたずむダイゴの口元は、わずかに歪んでいる。
瞳には、異質な赤の輝きがわずかに灯っていた。
(さて、もう一人の動きだが……こちらも想定通りとはいえ、少し面倒ではある)
灰を落とし、踏みつける。
わずかな燻ぶりを靴の下で感じつつ、彼は再度、葉巻を口にくわえた。
(まぁ、あの女の意思など特に関係ないが……重要なのは覚醒のタイミングだけだ)
「……やっと見つけましたわよ」
一人物思いに耽っていたダイゴだが、唐突に響いた声に驚いて振り向く。
いつの間に現れたのか、そこには一人の少女がたたずんでいた。
銀髪をなびかせた少女――フィアネス=シーズフォースは、冷めた瞳で男を見つめている。
その雰囲気は、どこか人間離れしたものを感じさせた。
「あなたに聞きたいことがありますの。アマンド・バイオテックのダイゴ=オザキさん」
歩を進めながら、彼女は言葉を紡ぐ。
それを聞いたダイゴは疑念と憤りとを、視線に宿した。
「ぶしつけな小娘め……私の名前を知っているお前は何者だ?」
「あら、これは失礼しましたわ。でしたら、名乗って差し上げます」
フィアネスは言葉と裏腹に、謝意など欠片も見えない態度で続けた。
吹き抜けた風に、その髪がわずか舞い上がる。
「我は四季……調和の守護者。穏やかな時を乱す輩に、猛威を持って立ち向かわん。我が名は、特務執行官【ペルセポネ】!」
それは名乗りでこそあったものの、明らかな敵意を含んだ言葉であった。
「なに? 特務執行官……だと!?」
その名乗りに対して、ダイゴは訝しげな表情を見せる。
しかし、それは内容を理解できないというものではない。目の前の少女が特務執行官であるという事実を認められないといった類のものだ。
それを見て取ったのか、フィアネスは問い詰めるように言い放つ。
「特務執行官という言葉に反応しましたわね? 心拍数が上がりましたわ。やはりあなた、ただの人間ではありませんね?」
「な、なんのことだ!?」
「とぼける必要はありませんわよ。ダイゴさん……いえ、カオスレイダー!」
我が意を得たりといったように、少女は周囲に無数の氷片を実体化させる。
威嚇するようにそれらを、ダイゴの足下に突き立てた。
コンクリートすら容易く抉る氷の欠片を見て、男の額に冷や汗が浮かぶ。
「あなた、エンリケス=ラウドにSPSの男を提供しましたわね? SPSはカオスレイダーの因子を持つ者によって操作が可能となる特殊細胞……あなたは彼がその因子を持っているとわかっていたのでしょう?」
淡々と、それでいて威圧的な言動で、フィアネスは彼に詰め寄る。
自分よりも年下に見える少女の圧力に、男は息を呑むことすら忘れていた。
「つまり、それこそがエンリケスがカオスレイダーであることの証! それを知っているあなたも、カオスレイダーということですわ!」
再度放たれた氷片が、今度はダイゴの身体に降り注ぐ。
だが、その攻撃が彼を傷つけることはなかった。
ダイゴの周囲に浮かび上がったドーム状の紅い光が、氷片を弾いたのである。
瞳を同色に染めた男を見つめ、フィアネスは更に表情を険しくした。
「その力……やはり他の者と違うようですわね。自意識を保ちながら、それほどの力を行使するなんて……もしかすると、あなたは……!」
「……なんのことかわからんな。さっきから聞いていれば、妄想も甚だしい!」
動揺をあらわにしつつも、ダイゴはそれを打ち消すかのように声を荒げる。
瞑目しつつ、わずかに嘆息したフィアネスはその手をゆっくりと振り上げた。
「あくまでシラを切る気ですのね? なら、それでも構いません。ですが正体が露呈した以上、ここであなたを掃討しますわ!」
少女の髪が、淡いピンクに輝く。
次の瞬間、風が渦巻き、同時に現れた無数の光の欠片が花吹雪のように彼女の姿を包んだ。
「美しき花の散るがごとく、刻まれて消えなさい! 斬影桜舞!」
フィアネスの声と共に、花吹雪が一斉にダイゴに襲い掛かる。
それはドーム状の光を打ち砕き、彼の身体をズタズタに切り裂いて鮮血を迸らせる。
絶叫を上げるダイゴだが、その姿が花吹雪に呑まれそうになる寸前、音もなく消失した。
「な! これは……!?」
異変に気付いたフィアネスの髪が輝きを止め、再び元の銀髪に戻る。
同時に花吹雪が舞い散るように消え、静寂が戻った時、その場にいた男の姿は跡形もなく消え失せていた。
(瞬間移動? そんな……あの男に、そのような力が?)
すかさず辺りをスキャンするものの、ダイゴの足取りを示す情報は一切見つからない。
まさに、瞬間移動で逃げたとしか思えなかった。
(油断しましたわ。取り逃がしてしまうなんて……)
フィアネスは表情に、口惜しさを滲ませる。
同時に、彼女はわずかな戦慄をも覚えていた。
(ですが、ダイゴ=オザキ……予想通り、ただのカオスレイダーではありませんでした。まさか【統括者】なのでしょうか……?)
内に秘めた思いと共に空を見上げたその時、彼女はオリンポス特有のコード通信を受信する。
それは緊急性の高いSOSを意味する内容であった。
「このコードは……【クラトス】? どうしましたの? ゴードン!?」
すかさずその手から光の渦を浮かび上がらせ、フィアネスは送信者に問いかける。
しかし、それに対する相手の反応は一切ない。
映像すら浮かばず、ただ風のような音だけが空しく響いていた。
(そんな。返答がないなんて……まさか、エンリケスに!? こうしてはいられませんわ!!)
新たな戦慄に、フィアネスは焦燥を募らせる。
ダイゴのことは気にかかったが、彼女本来の任務はゴードンのフォローとエンリケスの掃討である。そのゴードンと連絡が取れなくなった今、一刻も早く状況を確認する必要があった。
屋上から飛び降りるかのように、銀髪の特務執行官は空へ飛び出していく。
流星のような輝きが、曇天に光の尾を刻んでいった。
「ふ~ん……さすがは特務執行官【ペルセポネ】だ。なかなか鋭い洞察力だったね」
フィアネスが立ち去った直後、入れ替わるように、屋上におぼろな影が姿を現した。
金の瞳を輝かせたその影――【ハイペリオン】は、遠ざかっていく光を見送りながら誰に言うともなくつぶやく。
その足下には、全身を刻まれかかったダイゴが横たわっていた。
やがて起き上がった彼は、しばし状況が呑み込めずにいたものの、影の姿を認めるとすぐに平伏する。
「これは……【ハイペリオン】様!」
「やぁ、危ないところだったね。ダイゴ……今の君では、特務執行官の相手は荷が重過ぎるというものさ」
「申し訳ありません。御身の手を煩わせてしまい……」
「気にすることはないよ……君にはまだ働いてもらう必要があるからね。そのために力を与えたんだから」
言いながら【ハイペリオン】は、その視線を再度中空に放つ。
表情さえ窺い知れない彼であったが、声にはわずかに不機嫌さが滲んでいた。
曇天の中から覗く光が辺りを照らし出すが、その中においても影の姿は極めて曖昧なもので、どこか消え入りそうな印象すらあった。
「ただ、奴らは君の存在を嗅ぎつけた。もうこの会社にはいられないね。証拠を消す必要がありそうだ」
「……仰せのままに」
【ハイペリオン】の言葉に、ダイゴは特に異を唱えることもしない。
黒き影の下僕と化している今の彼にとって、会社の肩書などすでに無意味なものとなっていた。
「いろいろ面白くはなってきたけど、僕たちには時間が必要だ……面倒な話だけどね」
吹き抜ける風の中に、ぼやくようなつぶやきが入り混じる。
その時には二人の姿は、屋上から消えていた。




