(15)運命の日を前に
ベータに滞在する期間も、残すところ数日となったある午後のこと。
書斎代わりに使っているホテルの一室で、ジェラルド=バウアーは椅子に深く腰掛け、息をついていた。
周囲には窓もなく、あるのはわずかな調度類と一人分の机だけだ。その上には今は珍しくなった紙の書籍が数冊ほど載っている。
室内にリサを含めた秘書たちの姿はない。他者を一切排した完全にプライベートな空間である。
政務では煩わしい人間関係に振り回されることが多い上、護衛の人間も常に付き従う。そういった状況から離れ孤独に親しむこの時間は、彼にとって必要な心の休息でもあった。
わずかなまどろみのあと、ジェラルドは懐から携帯端末を取り出し、中空に録画映像を投影する。
そこには一人の女性と、二人の子供の姿があった。
女性が手を叩くと、反応した小さな子がよちよちと歩く。それを見つめる小学生くらいの子も、母の真似をして手を叩いていた。
皆これ以上ないほどに、笑顔を浮かべている。その様子を見ながら、ジェラルドもまた微笑を浮かべた。
(もう歩けるようになったか……子供の成長とは早いものだな)
鷹のように鋭い眼光を放つ瞳も、今は木漏れ日のような光を宿していた。
普段の彼を知る者が見たら、このような表情をできることすら意外に感じたに違いない。
(あの時は仕方なかったが、もう少しすればイプシロンまで呼ぶこともできそうだ)
映像を消し、ジェラルドは再び椅子に沈み込む。
彼が上院議員となりイプシロンに異動する際、妻は第二子出産の直前であった。
本人たちの希望以上に、彼が家族をベータに残さざるを得なくなった事情はそこにあったのである。
(とにかく明日、話をする必要があるな。万全を期しているとはいえ、この星は危険が多過ぎる……)
家族との面会を明日に控え、男の胸中には様々な思いが去来していた。
それは普段のジェラルド=バウアーが抱く思いの中では、最も狂おしく混沌に満ちていただろう。
ただ、それを他の人間が知ることはない。政治家として生きてきたその仮面の下の素顔を知る者は、やはり彼が気にかける家族たちだけだった。
再び心地良いまどろみに身を委ねようとしていた彼だったが、突如として鳴った呼び出しのベルがその意識を現実に引き戻した。
手元の端末を操作すると、中空にリサの姿が浮かび上がる。
「リサか……どうしたのかね?」
「ジェラルド様、お休み中のところ申し訳ありません。特別保安局のベッカー様がいらっしゃいましたが……」
「そうか……どんな要件だ?」
「明日の帰宅の件で、お話があるそうです。いかが致しますか?」
ちょうど家族のことを考えていたジェラルドにとって、その言葉はわずかな驚きと懸念とを感じさせるものだった。
訝しさをその顔に湛えつつ、彼は静かに頷く。
「わかった。話を聞こう。通したまえ」
「かしこまりました」
椅子から身を起こした男の瞳には、再びいつものような鷹の眼光が戻っていた。
同じ頃、【宵の明星】ベータ第一支部には、二人の男が訪れていた。
企業人風のスーツを身に纏ったその姿は、荒くれ者の多い支部の中では違和感がある。
しかし、その全身から放たれる剣呑な空気は、誰もに警戒心を抱かせるほど威圧感に満ちているものだった。
「支部長、本部のエージェントが面会を求めております」
『……お通ししろ』
彼らをエンリケスの元まで案内した男も、声に緊張を滲ませているようだった。
執務室代わりに使われている事務所の奥部屋のロックが解除されると、男たちは案内役を押しのけるように室内に入る。
そこにはエンリケスがただ一人、瞑目しながらたたずんでいた。
「エンリケス殿、困りますな。勝手な真似をされては……」
エージェントと呼ばれた男の一人が、開口一番そのように告げた。
エンリケスは彼らのほうに向き直り、厳しい視線を向ける。
「勝手な真似……なんの話だ?」
「アマンド・バイオテックのオザキ氏と会ったそうではないですか。支部としての活動は当面凍結との命令、忘れたわけではありますまい?」
もう一人の男が、その視線に気圧されることもなく答える。
そこに流れる空気は、室内と思えぬほどに冷たく感じられた。
「ふん……組織と関係のない個人的な話だとしてもか」
エンリケスは嘆息する。想定通りと言わんばかりに、彼は用意していた言葉を口にした。
しかし、それに対する男たちの反応は厳しい。
「ほほう。それを素直に信じろとおっしゃるのですか?」
「事実その通りなのだから、問題なかろうが……もし仮にそうでないとしたら、どうするのかね?」
「こういうことになりますな」
男の一人が、唐突に懐からハンドガンを取り出して発砲した。
無造作な動きながらも、その弾丸は狙いを外すことなくエンリケスの胸板に叩き込まれる。
鮮血が吹き上がり、室内に赤の飛沫が飛び散った。
「ぬ……きさ、まら……!」
怒りの視線をみなぎらせるエンリケスに、弾丸が続けざま叩き込まれる。
何度か全身を震わせた彼は、やがて糸の切れた操り人形のように仰向けに倒れた。
銃を懐にしまった男は、特に感情を動かすこともなく相方の男に告げる。
「これでエンリケス=ラウドの始末は完了した。あの方に報告するか」
「そうだな。まったく愚かな男よ……己の身の程をわきまえぬからこうなる」
踵を返す二人だが、そんな彼らの背後からおぞましさを感じさせる笑い声が響いた。
「フフフ……ハハハハハハハハハハ……!!」
その声に、さすがの男たちも動揺をあらわにした。
再度振り向いた彼らの目に、ゆっくりと立ち上がるエンリケスの姿が映る。
「バ、バカな!? 貴様!!」
「なるほど。貴様らはジェラルドの息のかかった連中か。さすがに抜け目のない男だな……奴は」
エンリケスは瞳に赤い輝きを宿しながら、口元を歪める。
弾丸に撃ち抜かれたはずの胸からは、すでに一滴の血も流れていない。
弾痕となった服の穴はそのままだったが、そこから覗く肌は異質な緑色をしていた。
「まぁ、こちらも組織内にシンパがいることは知っていた。ちょうどよかった……良い捨て駒が見つかってな!」
「な、なにを!」
男の一人が再び銃を取り出し、エンリケスに狙いをつける。
しかし次の瞬間、エンリケスの姿は彼らの視界から消えていた。
二人が驚きに目を見開いた時、すでにその胸板は背後から手刀で貫かれている。
声を上げることも叶わぬまま、口と胸から大量の血を吹き出し、エージェントたちはその場に崩れ落ちた。
「なんと脆い奴らよ……だが、これがダイゴの言っていたSPSの力か。素晴らしいな」
剣のような凶器となった両腕を引き抜きながら、エンリケスは再び笑う。
胸のみならず、その腕もまた今は緑色に変色しようとしていた。
ただ、力に打ち震える狂気を宿しながらも、男の心に慢心はない。
「さて、お前たちの力も貸してもらうとしようか。奴に、絶望を味あわせるためにな!」
普段の姿を取り戻した彼は、ゆっくりと元の場所に戻ると、机の引き出しを開ける。
そこにはダイゴから預かったSPSインジェクターが、無造作に納められつつも歪な光を放っていた。
いまだ応急処置を施されただけのホテルの展望ラウンジで、ボリス=ベッカーは黄昏の遠景を見つめていた。
ただ、そこには眺望を楽しむといった意味はない。漫然とも茫然とも取れる視線である。
(とりあえずは了承を得たか……あとはこれが功を奏するかどうか、だな……)
心中でつぶやきながら、彼は包帯の巻かれた右手を握り締める。
その手は動くたびに微かな駆動音をたてるが、静かな空間においては、その音が一層際立って聞こえる。
通常の義手なら、ここまでうるさくはないだろう。しかし今、彼の右腕となっているものは、彼自身が望んで得た新たな力を宿しているのだ。
やがて、一人たたずむ彼の背後に、黒のスーツを纏った男がやってくる。胸元にはボリスと同じ特別保安局の徽章をつけていた。
窓に映ったその姿を認め、ボリスは静かに問い掛ける。
「ご苦労……準備は整ったか?」
「はっ……それは滞りなく」
男は静かに頷くも、その表情にはわずかな疑念が浮かんでいた。
ゆっくりと彼はボリスの横にやってきて、同じように遠景を見つめる。
「ただ、なぜ急にこのようなことを? 先方も訝しんでいたのではありませんか?」
鼻を鳴らす音が、その言葉に続く。
男の放った指摘は、まさに的を得ていたようである。
「まぁな。だが、ここの件を絡めて話したら、納得してもらえた。あちらさんも襲撃には一層敏感になってきているからな」
「例の消えた暗殺者の件ですか。話は聞きましたが、それで許可を出すとはずいぶん用心深いことですね。まるで病的というか……」
「違いねぇ。俺も正直、こんなめんどくせぇ警護は二度とご免だ」
超硬化ジェルで固められた窓を改めて見つめ、二人は苦笑をこぼす。
警護に携わる人間としては人前で聞かせられない台詞だが、この場においては許される愚痴であった。
「ですが、そこまでして今回の話を通した理由はなんなのです?」
「念には念をってやつさ。いや……むしろ俺自身、そうなって欲しいと思っているのかもな」
男の再度の問いに、ボリスは曖昧な口調で答える。
その最後の言葉は、独り言のように小さく聞き取りづらいものだった。
新たな疑問を抱く男であったが、どこか追及しづらい雰囲気を漂わせた上官を見つめ、その口をつぐんだ。
様々な人間の思惑や想いが錯綜し、時はいよいよ運命の日を迎える――。




