(10)忌まわしき記憶
夢を見ていた。
それは在りし日の悪夢。
すべてを失ったあの時までの記憶。
ベータに降る冷たい雨。
その日は、ひどく肌寒い日であった。
「君、だいじょうぶかね?」
私用で街頭を歩いていた彼は、目の前に座り込んでいる女性に声をかけた。
ひどく青い顔をした彼女を助け起こし、肩を貸した。
それは善意だけの行動であり、下心などは無かった。
なぜなら、彼には守るべき者が他にいたから。
しかし、休息させるべくホテルに連れ込んだその行動が、命取りであった。
【エンリケス=ラウド氏、白昼の不倫疑惑】
身に覚えのない記事が、世に出回った。
そこから、歯車が狂いだした。
【エンリケス=ラウド氏、特定企業からの献金疑惑】
【ラウド氏の妻、薬物法違反の疑い】
【ラウド氏の長男、有名私立高入学に不正ありか?】
【ラウド氏の親族にインサイダー取引の疑い】
【特集:疑惑の一族――ラウド氏に政治家としての器はあるのか?】
それまではフレンドリーな議員候補として、民衆の支持を集めていた。
誰もが彼を励まし、支援してくれていたと感じた。
しかし、一度失われた信頼は簡単には取り戻せなかった。
次から次へと生まれてくる謂れのない疑惑が、負のスパイラルに拍車をかける。それは彼のみならず、彼の家族にまで及んだ。
冤罪と騒ぎ立てても、やがて信じる者すらいなくなった。
「もう……あなたについていくことはできません」
妻は精神的苦痛で痩せ衰え、入院生活を余儀なくされた。
子供は引きこもりになり、人に会うことすらできなくなった。
幸せだった家庭は崩壊し、彼は離婚せざるを得なくなった。
(なぜ、こんなことになった?)
なにも間違ったことはしていないはずだった。
しかし、世間はすでに彼の敵となっていた。
【エンリケス=ラウド氏、議員立候補取り下げ――当然の結末か】
候補者でなくなった彼は、ただの無職に成り下がった。
身の回りにいた支援者も、一人として残る者はいなかった。
代わりに世間の期待を集めたのは、対立候補だったジェラルド=バウアー。
他の候補者は有象無象であり、選挙を待つまでもなく、その当選は確実なものとなっていた。
しかしある日、彼は知ってしまう。
ある街での演説の中、ジェラルドの陰に潜んでいた一人の秘書の存在を。
それは疑惑の発端となった事件の女――街角で助けたあの女性であった。
「こ、これはどういうことだ!?」
彼は演説の終わったジェラルドに詰め寄ろうとした。
しかし、当然のことながら、周囲の人間たちに取り押さえられた。
「これはラウド元候補ではありませんか。いけませんな。このような真似をされては……」
「だ、黙れ! もしや貴様が……貴様が、裏で糸を引いていたのか!?」
「さて、なんのことですかな? 身に覚えのないことを言われるのは心外ですな」
冷たく鋭い視線が、彼に注がれた。
その瞳の奥に、侮蔑の輝きがあったのは今でも忘れられない。
「あなたはもう、ただの一般人だ。素直に立ち去らないと、選挙妨害で保安局に通報することになりますよ?」
「お、おのれ! ジェラルド! ジェラルド=バウアー!!」
「まぁ、昔のよしみで今回は目を瞑りましょう。では、ごきげんよう。エンリケス=ラウド殿……貴殿の今後のご多幸を、お祈りいたします」
そして地面にねじ伏せられたままの彼の耳に、最後に届いたのは嘲笑であった。
「ジェラルド=バウアアァァァァァッ!!」
かっと目を見開いたエンリケスは、絶叫のような声を上げて飛び起きた。
その顔には、滝のような汗が浮かんでいる。
「くそ……またしても、あの夢か……!」
独房にも似た薄暗い個室で、彼はいまいましげに呟いた。
息を整えつつベッドから降り、壁際の洗面台に向かう。
水道から勢いよく出た水を叩きつけるように顔面に浴びせ、次いで喉を鳴らして渇きを潤した。
(いったい、何度見たことか……奴が生きている限り、私はずっとこの夢に苛まれ続けるのか)
目の前の鏡を、厳しい表情で見据えるエンリケス。
苦悩と苛立ちとを孕んだ瞳――その奥には、わずかながら情の輝きが灯っている。
肌身離さず身につけているロケットを握り締めたあと、彼はその中に秘められていた映像データを空間に投影した。
そこにあったのは、エンリケスと共に笑っている女性と子供の姿――今は失われた彼の家族の記録だった。
(敵を潰すためなら手段を選ばぬ外道……私一人だけが犠牲になるのなら、まだよかった。だが、まったく罪もない家族を苦しめたあの男を……私は絶対、許すわけにはいかん!!)
拳を握り締め、彼がジェラルドへの憎しみを新たにしたその時、室内に設置された映像投影型の通信端末が鳴った。
無造作に受信のキーを叩くと、宙に男の姿が浮かぶ。
恐縮したような声が、それに続いた。
『お休み中のところ、失礼します。ラウド支部長』
「……構わん。なにかあったのか?」
『はっ……本部から通信が入っております。ラウド支部長に繋いでくれと』
その言葉にエンリケスは、舌打ちする。
恐らくは今回の襲撃失敗の件についてだろう。ある程度予想していたことではあるが、気分の良いものではない。
彼が無愛想に繋げと命令すると、映像が切り替わり【SOUND ONLY】の文字が浮かんだ。
『失態だな。エンリケス……今回の件、どう申し開きをするつもりだ?』
聞こえてきたのは、かなり低い男の声だった。
抑揚に欠けていることからして、肉声でないのは確かだろう。聞く者に不快な印象を与える声だった。
ただ、エンリケスは特に臆した様子もない。
「予期せぬ事態が重なった結果だ。次の作戦では、必ず奴を……」
『そういう問題ではない。今回の作戦で仕留め損なったことが、まずいと言っているのだ。ジェラルド=バウアーという男の影響力を、君は甘く見過ぎている』
不気味な声は淡々と語る。
感情の欠片も感じさせないものでありながら、その裏にはわずかないまいましさが垣間見えていた。
『確かに奴は政府の人間だ。だが、裏社会にもかなりのコネクションを持っている。我々の活動をある程度、黙認もしていた……あの男にとって【宵の明星】の存在は、自身がのし上がるための必要悪でもあるのだ。しかし、今回の件で奴が表立って敵対することになれば、我々の今後の行動にも大きな支障が出てくるだろう』
「しかし、だからといって……!」
『君の気持ちはわからんでもない。我々とていまいましい限りだ。だが、君もわかっているのではないかね? 奴の狡猾さ、そして無実の人間を有罪にしてしまえるほどの絶大な影響力を……』
その言葉に、エンリケスは拳を握り締める。
先刻見た悪夢がまた、彼の脳内でリフレインされていた。
『エンリケス……組織は君の私怨で動くものではない。これまでの功績に免じて、今回の失態は不問としよう。だが、ほとぼりが冷めるまでの間は謹慎したまえ。その間、ベータ第一支部の活動も凍結とする』
謎の声は最後にそう告げると、返答を待つこともなく端末の接続を切った。
室内に再び薄暗さが戻ると同時に、壁を叩く強烈な音が響いた。
(おのれ! 私は……私は、また奴に屈するのか? あのような人間の屑に……!)
瞳にわずかな赤の輝きを宿しながら、エンリケスは歯噛みした。
組織の思惑がどうであれ、今の彼にジェラルドを見逃すつもりは毛頭なかった。
彼はすぐに端末を操作すると、先ほどの部下に命令を下す。
「……おい、至急アマンド・バイオテックに連絡を取れ」
「は? しかし……」
「この間のダイゴとかいう男を呼び出すのだ! 早くしろ!!」
野獣のような声をあげた指揮官に、部下は慌てて頷く。
再び端末の接続が切れると、エンリケスは壁際にかけてあった上着を羽織って部屋を出た。
(組織が使えぬのならば……ジェラルドを葬る手立てはまだある)
無機質な通路に、荒々しくも規則正しい足音が響く。
半ば狂気に支配されかけている彼ではあったが、その頭にはまだ若干の冷静さを残していた。




