(1)諜報部の依頼
火星極冠の地で、ふたつの影が向き合う。
ひとつは闇を凝縮したような人型。そしてもうひとつは銀の長髪をたなびかせた少女である。
凍て付く空気の流れる中、両者の間には緊張が満ちている。
「どうやら、うまくいったようですね。【試練の縛鎖】を、ああも容易く破壊するとは……【アフロディーテ】は素養の高い戦士です」
「……元々、彼女はコスモスティアの力を高いレベルで引き出していましたわ。心の中のわだかまりがネックだっただけ……」
「それを見抜けたのは、ひとえにあなたたちの関係性あってのことですか……」
わずかに顔を上げた――実際は白く輝く目以外に顔を思わせる造形はないのだが――影のような存在である【レア】は、幾分か厳しめな口調で漏らす。
「特務執行官たちは徐々に真の力を開放しつつある……ですが【絆の光】を生かし混沌の王を倒すためには、まだ力不足。更なる試練が必要となります……」
「……それが、オリンポスを追い込むことだと言いますの……!?」
射るような視線を、銀髪の少女――フィアネスは向けた。
その顔に浮かぶのは、憤りとも悲しみとも取れる表情である。
「……あなたやウェルザーの気持ちは理解できます。しかし、試練とは安定でなく窮地の中にあるもの……」
【レア】の返答は冷たい。
気持ちは理解できると同意を示しつつも、その佇まいは神の如く超然としており、人の想いなど塵程度にしか考えていない印象を受ける。
「このままじゃいけないことは、あなたたちも理解しているはず……違いますか?」
「わかって、おりますわ……」
意見を述べたとて、なにも変わらないことはわかっていたのだろう。
ぐぐと拳を握り締めながら、フィアネスは頷くのみだった。
そのまなじりに、わずかながら煌めくものを残して――。
「そうですか。情報操作による罠……やはりオリンポスは狙われていたんですね」
おぼろげな光に包まれた店内で、少女のような容姿をした女はカクテルグラスを傾けた。
年季の入った木製の壁や床、クラシックな調度品の数々は今の時代においてはかなり珍しいものだ。
自己主張をしない観葉植物、古ぼけた紙のポスター、ゆったりと流れるピアノジャズ――前時代的と言える大人の空間において、彼女の存在は一際、異質に映る。
しかし、当の本人はそれを気にした様子もなく、カウンター内でシェイカーを振る店主も咎めるような様子はない。それもそのはずで、彼女が見た目通りの年齢でないことは、この場の誰もが知っていたからである。
そんな女――アンジェラ=ハーケンの隣に座るのは、精悍な顔付きの金髪の青年であった。
「ああ。改めて礼を言う。お前のおかげで、それに気付けたわけだからな」
「別に……前も言ったじゃないですか。同じ仕事をしたよしみだって……」
青年――シュメイスの言葉に対し、いつもの調子で女は言う。
ただ、その顔にはどこか神妙な表情が浮かんでいる。
「けど、これで安心するのは早いんじゃないですか?」
「……そうだな。オリンポスに嘘の情報を流し、特務執行官をおびき出す。わかっちゃいたが、想像以上にこっちの情報優位性はなくなっていたわけだ」
「それは仕方なしですね。古今東西、明るみに出てしまった情報は、徐々に暴かれていくだけですから。今のご時世なら尚更です」
「徐々に暴かれていくだけ……か」
伝染したかのように、シュメイスの表情も変わっている。
普段の飄々とした感じは鳴りを潜め、やや険しい目で天井を睨む。
(このままオリンポスのやってきたことが明るみに出れば、間違いなく糾弾されるな。最悪のシナリオも考えないといけない……か)
カオスレイダーに関わる真実――それは決して世間に知られてはいけないものだ。そして、オリンポスが行ってきた行為自体も――。
しかし、アンジェラの言うように、それらが暴かれてしまう可能性は高くなっている。すべてが公になった時、自分たちはどうすべきか――。
シュメイスの気持ちを察したのか、わずかに視線を向けたアンジェラはつぶやくように言う。
「……いつになく、暗いですね」
「そりゃ、考えることが増えちまった以上、前ほどお気楽ってわけにもいかないさ」
「それは意外でした。シュメイスさんは、そこまで繊細な人じゃないと思ってましたので」
「相変わらず、ひどい言い草だな」
嘆息したあと、シュメイスは苦笑した。
確かに備えは必要としても、まだ訪れていない未来を考えて悩むのは自分らしくない。過度に心配することに意味はないのだから。
「ま……いいさ。こっちのことはさておいて、俺を呼び出した理由はなんだ?」
改めてアンジェラのほうを向いた彼は、いつもの調子を取り戻して問い掛ける。
今回、二人が場末のバーで酒を酌み交わしているのは、やはりというかデートなどという気の利いたものではない。
実際、ここは【アマランサス】の息の掛かった密会場所のひとつであり、店主も組織員の一人である。
「情報共有と仕事の依頼ですよ。ここまで色々ありましたし、オリンポスと諜報部も協力体制を維持したほうが、お互いのためという認識のようです」
「それは結構なことだ。同じCKOの組織同士で、腹の探り合いしてても面白くはないからな」
やや皮肉めいた言葉が漏れる。
元より秘匿組織であったオリンポスへの風当たりは良くなかったが、様々な事実が明るみに出てしまったことで、逆に利用価値が生まれたということでもあるらしい。
「で、諜報部は、俺たちになにをして欲しいんだ?」
「とりあえず、これを見て下さい」
そう言うと、アンジェラはタブレット型の端末を差し出して、指を滑らせる。
画面に浮かび上がったのは、宇宙空間の映像だ。闇の中を彗星のような光が駆け、それが青く輝く星へと降りていく。
「これは?」
「CKOの監視衛星が捉えた映像です。先日、政府の許可なく地球に降下するシャトルが確認されました」
「不法入星か。しかし、なにが目的だ?」
「わかりません。この船には高度なステルス機能があったようで、降下後の行方を追跡できないんです」
「……それは、民間の船ってわけじゃなさそうだな」
「はい。ただ、惑星への侵入角度から算出した結果……シャトルは禁海域付近に降りた可能性が高いです」
「禁海域だと……!?」
シュメイスの目が鋭くなる。
現在の地球は変異生物がはびこり、人がほとんど住めなくなった水の惑星だ。まともな学術調査もされなくなって久しい。
その中でも特に百年以上、放置された海域が存在する。禁海域と呼ばれているそこは、常時悪天候に見舞われ、極めて危険な変異生物が生息しているらしい。
一説では、過去の大戦による汚染の影響が一番大きかったためとも言われるが、その詳細も定かではなかった。
「高度なステルス船が、わざわざ物騒な海域に向かうか……宝探しでもしようってのかね?」
「あながち間違いじゃない気もします。なにしろ百年以上も放置された場所ですからね。思わぬ遺産が眠ってるなんてことも……」
「今時としては、ロマンのある話だけどな……こいつを探って欲しいと?」
「緊急性がある案件でもないんで、無理強いはしませんけどね。でも、受けてもらえるなら、諜報部はオリンポスへのサイバー攻撃対策に優先的に協力しますよ」
「……そいつは、断る理由もなさそうだ」
カウンターの脇にどけていたグラスを持ち上げ、それを傾ける。
わずか喉を焼くような感覚に心地よさを覚えつつ、青年は思う。
諜報部が動くということはその時点で看過できない案件のはずであり、有用な取引を持ち掛けてくる価値のあるものだと――。
「一応、上に話はつけておく。ま、形式的なもんだから、すぐに動くけどな」
「シュメイスさんが向かうんですか?」
「まず、そうなるだろうが……なんでだ?」
「いえ……せいぜい、気を付けて下さいね」
どこか憂い気味の表情を一瞬見せたアンジェラだが、すぐに自身のグラスに目を戻す。
わずか残った液体を弄ぶ彼女を見て、シュメイスは口元を緩めた。
「まさか、お前の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったぜ。こりゃ明日は槍が降るな」
「……この間の仕返しですか? 根に持つタイプは嫌われますよ」
「悪かったよ」
肩を竦めたあとに謝罪すると、彼はグラスの残りを飲み干した。
乾いた音がカウンターに響き、青年は席を立つ。
(しかしまぁ、用心に越したことはないか。かけられる保険はかけておくべきだな……)
少女のようなエージェントの密かな想いを受け止めつつ、シュメイスはとある人物の顔を思い浮かべた。




