(16)生かそうとする意思
(あたしを……守る力……)
記憶を辿る中で、サーナは考える。
かつてフィアネスが言った言葉の中で、最も強く印象に残っていた一言を。
(だったらなんで今、あの声は聞こえないの……あたしが目を背けている、こと……)
二人の男女が向かい合う様を、サーナは見ていた。
一人は黒い長髪の男――どこか冷たさを感じさせる雰囲気を持つものの、目の前の女を見つめる瞳は穏やかなものだ。
そして相対しているのは、先日顔合わせした同胞である銀髪の少女フィアネスだった。
しばし何事かを語らっていた二人だが、やがてその場で別れて歩き始める。
こちらへ向かってきたフィアネスに対し、サーナはつぶやくように問い掛けた。
「あの男が、ウェルザー……あんたの想い人ってやつ?」
「……そうですわ。私にとっては、いろんな意味で恩人と呼べる方。いえ、それ以上の人……というべきですわね」
「恩人……それ以上の……」
普段通りの口調ではあったが、その言葉には温かな感情がこもっている。
心の奥に針を刺されたような痛みを感じた美神に、少女は優しい視線を向けた。
「……あなたにも、そう思える方がいらっしゃったのでしょう?」
「……いないわ。そんなの……」
「そう……なのですか?」
「前にも言ったでしょ。化け物に憑かれれば、おしまいだって……」
目を背けながら、サーナは唇を噛み締める。
(そうよ……偉そうなこと言ったって、なにもできないのよ。なにも……)
死の直前の記憶が蘇る。
自分を守ると言いながら、自分を殺した男のこと。自分に希望を与えて、絶望に突き落とした男のことを――。
フィアネスはわずかに身を震わす仲間を見つめ、静かに嘆息した。
「……あなたの言いたいことはわかりますわ。カオスレイダーは、人の心も呑み込んでしまう怪物ですもの。ですが、それが人を想う心を否定する理由にはなりません……」
「……また説教のつもり?」
「いいえ。ただ、特務執行官として生きていこうとするのなら、それは忘れてはいけないことだと思いますの……」
その言葉はサーナの心に染み入りつつも、彼女の心の氷を溶かすには至らなかった。
「人を……想う、心……」
目を背けていること――過去にフィアネスとやり取りした中でそれを実感したのは、その時の会話だったかも知れない。
記憶の旅に赴いていたサーナの心はいつしか、落ち着きを取り戻していた。
ただ、拘束された現状はいまだに変わらない。鎖を解くべく力を込め直す彼女だが、その前に再び見知った男が現れた。
「答えは出たか? サーナよ」
「ラーズ……」
「……その様子では、気は変わらんようだな」
ラーズ=ドルガンは嘆息しつつ、首を振る。
その顔には心底呆れたと言わんばかりの表情が浮かんでいた。
「お前も愚かよ……あの時もそうだ。ダニエルなどという若造にたぶらかされなければ、ワシに刃向かう気も起こさず、人としての生をまっとうできたものを……」
「……ふざけないでよ。あんたに利用されるだけの人生なんて、生きてると言わないわ!」
サーナは思わず、怒声を返す。
どの口がそんなことを言うのか。かつて人形として自分を扱っていた張本人が――と。
その心には、再び老人に対する怒りがふつふつと沸き上がっていた。
しかし、ラーズは意に介さない。
「どうかな? あの時、お前は自由を得たつもりだったのだろうが、あの若造に利用されていただけだろう?」
「なんですって!?」
「あの男は政府の犬だった。お前を助けたのも、ワシを陥れる手駒として使うため……やったことはワシと同じということだ」
「そんなこと……! そんなこと、ない……!!」
老人の言葉を、サーナは否定する。
確かにダニエルに、そのような意図はあったのだろう。彼はラーズ=ドルガンの悪事を暴くための証人になるからという理由で彼女を迎えに来たと言った。
しかし同時に、こうも言った。他者に運命を左右させずに、自分の意思で決め、自分で歩けと――それは単純に人を利用しようとするだけの人間が放つ言葉ではないと思えた。
「ならばなぜ、あの男はお前を殺したのだ? 化け物に取り憑かれたとはいえ、お前のことを真に想っていたなら、ためらうはずであろうに……」
「ふん……あんた、なにも知らないのね! カオスレイダーに寄生された人間が望むものは……!」
なおも問い詰めてくるラーズに対しすかさず言い返そうとした彼女だが、その瞬間ふと気付いたことがあった。
(カオスレイダーが、望む、もの……?)
それはオリンポスの構成員なら、誰もが知っている事実。
寄生者の最も大切な者の発する負の感情こそが、覚醒を促す最上の糧になると――。
(そう、よ……ダニエルは……だから、あたしを……)
その身が震えるのを、サーナは感じていた。
勘違いしていたのだ。ダニエルが本当に自分のことを想っていたなら、ラーズの言うようにカオスレイダーに屈するはずはないと。屈してしまったのは、所詮その程度の想いしかなかったからなのだろうと――。
しかし、そうではなかった。
なによりも大切な存在であったからこそ、ダニエルはサーナを殺したのだ。あの場にいた誰よりも先に――。
そこに思い至った瞬間、自虐じみた笑いが漏れる。
「なにを笑う?」
「別に……今更ながら自分がバカだったと思っただけよ」
「ふん……己が愚かさに、ようやく気が付いたということか」
「そうね。でも、それはあんたが思ってるようなことじゃないわ」
訝しむラーズに答えつつ、彼女はそっと目を閉じた。
(ダニエル……あなたの真意は別にあったのかも知れない。でも、あたしに対する想いは偽りじゃなかった……それは信じて良いのよね)
『……ああ』
心の内のつぶやき――本来なら返事など返ってくるはずのない言葉に、どこかから肯定する声が聞こえた。
思わずサーナはハッとする。
(そんな、今の声は……!?)
『僕だ。サーナ……』
(ど……どうして!?)
頭の中に語り掛けてきたそれは、彼女が聞き間違えようもない男の声だった。ダニエル=ウインドホーク――今しがたまで考えていた男の声。
すでに亡くなったはずの彼がなぜ今、語り掛けてきたのか。
驚きを隠せずにいたサーナに、声は更なる驚愕の事実を告げた。
『僕はずっと君と一緒にいたのさ。コスモスティアの意思と共にね』
(コスモスティアの意思!?)
『そうだ。あの時……僕は死の危機に瀕し、その中で自分の意識が闇に呑まれていくのを知った』
ダニエルの声は、思い返すように間を置く。
『僕の中にいた怪物……カオスレイダーは、君を弑することで覚醒を果たそうとしていた。それまでずっと抗っていた僕だけど、最期の最後でその術を失ってしまった。結果として君は生命を失い、僕もまた怪物の糧として消える……そのはずだった』
忌まわしき過去の出来事――その陰にあった真実に、サーナは呆然としたまま聞き入った。
(このまま……このまま終わるのか!? 僕は誰にもなれないまま、彼女を守ることすらできないまま……!)
すべてを塗り潰すような闇の中で、ダニエルを名乗った男はもがいていた。
人間としての死、混沌の怪物による意識の侵食――逃れられない運命に対し、必死に抵抗していた。
しかし、そんな奮闘は意味をなさない。
海に放り込まれた角砂糖のように、無為に消えるだけ――そのはずだった。
『……抗う魂よ。汝、救う力となることを望むか?』
(誰だ!?)
いきなり声が聞こえてきたのは、その時だった。
力強く、闇を震わすように響き渡る声だった。
『答えよ。汝は己がすべてを懸けて、救う力となることを望むか?』
(救う……力……!?)
突然の出来事と漠然とした問い掛けとに、ダニエルの思考は止まっていた。
それを察したのか、謎の声は言い換える。
『答えよ。汝は己がすべてを懸けて、愛する者を救うことを望むか?』
(愛する……者……?)
その言葉に、ふと思い浮かんだのはサーナの顔だった。
サーティナインと呼ばれたラーズの愛玩人形――元々は、任務のために利用するだけのはずだった。
しかし、わずかな時間の触れ合いの中で彼は知ってしまった。意思を殺された彼女は、組織によって様々な人間を演じることを強要されてきた自分と似ていると。
ダニエルの中に初めて生まれたシンパシーは、およそ愛と呼ぶにはおこがましいものだったろう。
それでも彼は、女が自由になることを望んでいた。
たとえ待ち受けるのが苦難の道だったとしても人間として生きて欲しいと望み、それを伝えた。
そしてサーナもまた、彼の思いに応えた。
未来に希望を馳せる女の姿は、いつしかダニエルにとっても心の救いとなり始めていたのだ。
(……僕は自分の心すら守れなかった。誰でもないから、何者にもなり切れなかったから……)
何者でもない人間が、カオスレイダーの支配を跳ね除ける自我を持ち得ることはない。
個人として生きてきた歴史に乏しいダニエルには、ここまでが限界だった。
それでも消したくない生命が、消したくない想いがある。誰ともわからない謎の声に対し、彼は訴えかけるように叫んでいた。
(僕一人が消えるだけなら、まだ良い。けど、彼女を死なせることは……できない!!)
『その心……その想い、確かなものなり』
闇の中に一筋の光が降り、それがダニエルと呼ばれた男の意識を掬い上げた。
その光とひとつになることで、男は数多の意思に溶け合っていくことに気が付く。
やがてダニエルは、謎の声と共になり叫んでいた。
『……生きようとする意思、生かそうとする意思、繋がる意思が力となる……!!』
眩い輝きの中で彼は今しがたまで想っていた女の姿を見つけ、その魂に手を差し伸べていた――。




