(13)陥れられた者たち
いつの世も、人の心に潜む闇は恐るべき敵である。
それはあらゆる負の感情と共に噴き上がり、世界を乱すほどの力を持つこともある。
人を守るために戦いし者たちに襲い掛かるのは、人の持つ見えざる悪意。
戸惑う心、苦悩を超えて光を導けるか――。
響き渡る怒号が、場の異常さを物語っていた。
血走った目をした人々が、我を忘れたように迫ってくる。
四方を囲む彼らから逃れるためにアルティナは跳躍すると、街灯の上、建物の壁面と縦横無尽に移動していく。
(まさか、こんなことになるなんて……!)
敵の追跡を撒いたつもりでいた彼女は眼下の人々を見やり、表情を強張らせていた。
当初から違和感を覚えていた。
あまりに何事もなかったように振舞う人々に。
騒ぎが起こったとしても、元の態度を容易く取り戻してしまう事実に――。
(あの映像……あれが恐らく……!)
中空に浮かぶスクリーンに目を移し、アルティナは確信めいた思いを抱く。
つい数分前のこと、雑多な広告やニュースに混じり、その映像は流れた。
一瞬、砂嵐のような画面が映り、次いで出てきたのは自分の顔だ。それに合わせて虫の羽音のような音が響き渡った。
軽い頭痛を感じたのも束の間、それまで何事もなく振る舞っていた市民たちの多くが豹変し、彼女に襲い掛かってきたのである。
(この街の人たちは、洗脳を受けている……! 何者かの思惑通り動くように! あたしを襲ってきたのも偶然じゃない!)
再び地上に降り立ったアルティナは、全力で逃走する。
いかに生体強化されてはいても、重力を無視した立体機動には限界がある。特務執行官のように無尽蔵な体力を持ち合わせるわけでもない。
このまま街に居続ければ、際限なく危機的な状況は続くだろう。
(でも、このまま引き下がるわけにはいかない! なんの収穫もなく逃げ出すほど、あたしは甘ちゃんじゃないのよ!!)
それでも彼女は、オリンポスの一員だった。
カオスレイダーとの戦いで以前ほど役に立てなくなった今、支援捜査官にできることは少ない。
その存在意義すらも問われている今、ただの逃走は恥でしかないのだ。
たとえライザスたちがそれを責めなかったとしても、彼女の矜持がそれを許さなかった。
(サーナ……あなたがどうなってるのか、今はわからない。でもその行方は必ず掴んでみせるわ!!)
決意の光を瞳に宿し、街路を駆け抜けていくアルティナ。
そんな彼女を遥か上空から見下ろし、銀髪の少女が悲しげにつぶやいた。
「……あくまで退きませんのね。わかってはいましたけど……これも試練なのでしょうか……」
吹き抜ける風に、髪が躍る。
大きな瞳に愁いを宿し、少女はその視線を遥か天空へと向け直した。
「うあああぁああぁぁぁぁぁっっっ!!!」
絶叫と閃光とが走ったのち、残響が室内を包み込んだ。
わずかなスパークを残す鎖に繋がれた女神は焼け爛れた裸身を晒し、力なくうな垂れる。
普段の美しさを知る者が見れば、目を背けたくなるほどの惨状――しかしそれは一時のことであり、一分も経たない内に表層は再生し、元の姿を取り戻していく。
特務執行官の有するナノマシンの回復効果だが、皮肉にもそれは拷問を長引かせるだけの一要素となっていた。
「どうかな? ワシらに協力する気になったか?」
「……冗談……! あんたの言うことなんか、死んでも聞く気になれないわね……!」
荒い息の中、顔を上げたサーナはラーズを睨む。
乱れた髪の下にある目には、強い光が宿っている。
忌まわしき男の言葉になど、絶対に従わないという強い意志を感じさせる光が――。
「ふむ……強情なことだ。さすがは特務執行官というところか」
感心したようにつぶやき、ラーズは思考する。
協力を拒否するサーナに対し、幾度となく超高圧電流による拷問は繰り返された。両手で数えられる回数は優に超えている。
しかし、これを繰り返したところで返答は変わらないということを、彼も理解していた。
「お前にこの手の拷問は無駄かも知れんな。ならば、少し趣向を変えるか」
そう言うと、男は指を鳴らす。
反応するかのように床下から現れた投影装置から、中空に光のスクリーンが浮かび上がる。
映し出されたのは街中を俯瞰するような映像だ。焦点となる中央に映った人物を見て、サーナは息を呑む。
「あれは……アルティナ!?」
「……オリンポスの支援捜査官とやらだな。お前を探しに来たというところだろうが……」
静止したような空間の中で、映像だけが慌ただしく動いていた。
声を荒げた人々が、我先にとアルティナに向かって飛び掛かっていく。
(どういうこと? なんでアルティナが街の人たちに追われてるの!?)
サーナは言葉を発することもなく、映像に見入る。
人々はまるで正気を失ったかのようだ。血走った目が居並ぶ様子は、飢えた猛獣の群れを思わせた。
浮かび上がってくる疑問を先読みしたように、ラーズが言った。
「不思議か? 簡単なことだ。ここの住人の大半はワシの支配下にあるのよ」
「……なんですって?」
「モルフェットは、マインド・コントロールのテストシティでな……古くからの住人や長期滞在している者には、ある種の洗脳が施されておる。本人も気付かぬうちにな……」
その言葉が示す事実に、サーナは戦慄と嫌悪を抱く。
人の意思を奪い、自らの都合のままに動かす――サーティナインと呼ばれていた頃、自身も同じような扱いをされていた。
あれと同じことが街全体で行われているということだ。むしろ当人たちの知らない内に意識を操作される分、よりタチは悪いと言えただろう。
そして、モルフェットが灰色の街と呼ばれる理由のひとつでもあったのだ。
「奴らはワシの指示さえあれば、どのようなことでも遂行する。たとえ殺人であろうとな……一般人ゆえに戦闘能力は知れているが、お前たち相手にはむしろ効果的だろう」
「ラ、ラーズッッ! あんたって男はっっ!!」
「さて、どうするかな? サーナよ……すべてはお前の返答次第。仲間を見捨ててでもワシらへの協力を拒むか、良く考えることだ」
必死に鎖を外そうと足掻くサーナを嘲笑うラーズの胸元で、携帯端末が鳴った。
サーナの死角となる位置でひとしきり操作をした彼は、ふむと頷く。
「ワシは少し席を外す。戻ってきた時は、色好い返事がもらえることを期待しているぞ。その時まで、この小娘が生きていれば良いがな……」
ほくそ笑みながら言い残すと、ラーズは踵を返した。
サーナは言葉にならない叫びを上げて、その背を睨み続ける。
因縁の男が退室していったあとも、彼女は半狂乱のままだった。
(うああああぁぁぁっっ!! なんで……なんで外れないのよ!! このおっっ!!)
手首や足首に血を滲ませつつ力を込めても、鎖の拘束はまったく緩まない。
特務執行官という新たな生を受けて以降、サーナは初めて絶望に近い思いを抱いていた。
星の瞬く虚空の闇を、一筋の光が駆けていた。
それは流星と呼ぶには小さかったが、纏う光は力強いものだ。
その光の中に浮かび上がるのは、人の姿をした影である。
黒髪に口ヒゲを生やした壮年の男――特務執行官のライザス=ヘヴンズフォースはイプシロンを飛び出し、月の公転軌道をなぞるようにベータへ突き進んでいた。
(……すべてが仕組まれていたことだったとはな……)
いまいましげなつぶやきを内心で漏らし、彼は顔を歪める。
モルフェットで起きたという殺人事件――カオスレイダー案件と思っていたそれは、何者かによって仕掛けられた罠であった。
数分ほど前にあったシュメイスからの通信で、それは明らかとなった。アンジェラの忠告を受けて彼が調べたところ、殺人事件そのものが嘘の情報だったというのである。
その偽情報は、オリンポスの調査網を欺くことに特化していた。これまでのカオスレイダー案件を徹底的に分析した上で作られたものであり、【クロト】の覚えた違和感もそこに原因があったのだろう。
(だが、いかに情報優位性がなくなったとはいえ、こうも容易く我々を陥れるとは……なぜ……?)
それでもライザスの頭には、疑問が浮かんでいた。
いかに情報伝達の早い時代とはいえ、世間に認知されて間もない組織の内情を簡単に調べられるものだろうかと――。
(……まさかとは思うが……内通者がいるのか……?)
そんなことを思った瞬間、彼は自身の動きが遅くなっていることに気付く。
正確には、飛翔する彼の身体を後方から引っ張る力が働いていた。
徐々に減速したライザスは、やがて虚空の只中に静止する。
(これは重力操作……ということは……!!)
振り向いた彼は、その視線の先にひとつの影が浮かんでいることに気付く。
闇のような黒い長髪の男の姿――それは彼が良く知る人物であった。
『これ以上、先には行かせんぞ……ライザス』
『ウェルザー……!』
簡易通信を用いて飛んできた声に、ライザスはその表情を険しくした。




