(11)支配者の罠
雨上がりに吹き抜けた風が、冷たさを運んでくる。
しかし、サーナが肌寒さを感じたのは、そればかりが理由ではなかった。
「……なぜ、あんたが……!? 生きていたの!? ラーズ=ドルガン!!」
動揺を押し殺すように、叫びながら問う。
ダニエル同様、もう二度と会うことはないと思っていた男だった。
『ふむ……このワシが死んだと思っていたか? サーティナインよ』
そんな彼女の心を見透かしたように、映像の男は嘲笑う。
ややあって、その視線が少し上向いた。
『まぁ、そう思うのも無理はあるまい。確かにあの若造の変貌は、想定外だったからな。まさか奴が、巷で噂の化け物に変わろうとは……』
いまいましげな声で語られた下水処理施設の一件は、ラーズにとっても苦い記憶であったようだ。
実際、あの時の物理的損害は相当に大きく、カオスレイダーと化したダニエルによって施設は崩壊し、現場の人間は皆殺しとなっている。
最終的に駆け付けたライザスによって掃討は完了したものの、すべて手遅れだったというのが、サーナの得ていた情報だ。ゆえにラーズも死んだものと、彼女は思っていたのである。
『しかしだ。そもそもあの場にワシがいたこと自体、おかしいと思わなかったのか?』
「!? まさか……あれは、あんたじゃなかった!?」
『……しばらく会わん内に、少しは察しが良くなったか。いかにも、あれはクローン体……ワシの意思を伝える生きた端末として送り出したものよ』
先の質問の答えを自慢げに語るラーズ。
歳を経て増えた顔のシワが、その醜悪さを際立たせる。
『……生き残るための秘訣は、臆病であることだ。ゆえにワシは今もこうしている……』
「そう……けど、あんたのくだらない持論なんか、この際どうでも良いわ」
嫌悪感と苛立ちとを顔に滲ませ、サーナは男の言葉を遮った。
当初こそ驚いたが、改めて考えれば納得のいく話ではある。
それよりも気になったのは、ラーズの目的だった。
「さっきの言葉はどういう意味!? あたしにダニエルの幻影を見せて、誘き出したっていうの!?」
『その通りだ。サーティナイン……それとも、特務執行官と呼ぼうか?』
ねっとり絡み付く声と共に、ラーズは再度笑う。
冷水を浴びせられたように、サーナの身体が硬直した。
『正直、驚いたぞ。あの時死んだとばかり思っていたお前が、CKOの生体兵器として蘇っていたとはな』
そうつぶやく男の傍らに、別の映像が浮かぶ。
それは先のバビロン攻防戦で流出し、今も話題になっているあの映像だった。
『だが、同時に好機とも思ってな……そこでお前を誘き出すために、いろいろと手を打たせてもらったわけだ』
「どういう……こと? 好機、ですって……?」
『なかなかに骨の折れる作業だったよ。お前のいる組織のことを探るのはな……』
その言葉と同時に、物陰から姿を見せる者たちがいた。
黒いスーツに黒のバイザーを付けた男たち――かつてラーズ子飼いの手下たちがしていた格好と同じである。
油断のない動きで、彼らはサーナを取り囲む。
『単刀直入に言おう。ワシの元に来い……特務執行官【アフロディーテ】』
「……本気で言ってるの?」
『もちろんだ。お前にはワシらの力になってもらう』
冷たい風の中に、満ちてゆく殺気。
ゆっくり包囲の輪を狭める男たちは、必要とあらばサーナを弑することも躊躇わない意思を見せていた。
かつての下水処理施設での状況の再現――しかし、それで怖じ気付くサーナではない。
特務執行官として蘇って以降、数多の修羅場をくぐってきた彼女はなにも知らなかったあの頃とは違うのだ。
「……人を甘く見過ぎじゃない? この程度の連中が何人来ようと、あたしの敵にはならないわよ?」
『そうであろうな。ワシも力づくで捕らえられるとは思っておらんよ』
わずかに冷静さを取り戻した彼女に対し、ラーズの返答は淡白なものだった。
女の言葉を予想していたように、次いで声音を低くして言い放つ。
『だが、この者たちと戦おうとすれば、お前や組織の立場が悪くなるぞ?』
「なんですって!?」
『特務執行官というのは、人に危害を加えてはならない存在ではなかったか?』
その言葉は更なる衝撃となって、サーナを襲った。
世間から秘匿されていた頃と違い、今のオリンポスはむしろその注目を集める存在となってしまっている。そしてサーナの容姿は、バビロンの一件で多くの人間の知るところとなった。
偽装しているこの姿も一見わかりにくいというだけで、普段の自分と大差があるわけではない。
『ここでお前が大立ち回りでもしようものなら、果たして世論はどう動くかな? そうでなくともお前たちの組織は火消しに躍起になっているものを……』
拳を震わせた彼女は、歯噛みをしつつ視線を落とした。
力づくで突破することは容易いが、それを行えば特務執行官は人類に危害を加える存在だと認めることになってしまう。
今の状況も、恐らくは映像として記録されているだろう。それがネットワーク上にでも流れれば、今度こそオリンポスにとっては致命的な打撃となる。
サーナは、完全に陥れられてしまったことを悟った。
(こうなったら……っ!?)
唯一の逃げ道とも言える空に目を向けた瞬間、男たちの手元から放たれるものがある。
太い鋼の鎖が幾重にも絡み付き、サーナの身体を束縛した。
更に投網のようなネットが、ダメ押しとばかりに降り注ぐ。
『残念だったな。お前に拒否権はないのだよ』
得意げに笑うラーズの声が、辺りに響き渡った。
繭のように動きを封じられ、膝をついたサーナに、もはや打つ手はない。近付いてきた男たちが、一斉に彼女に手を伸ばしてくる。
過去より繋がる忌まわしき因縁が、美しき特務執行官を暗闇へ誘おうとしていた。
「ラーズ=ドルガン……あんたはいったい……?」
『知りたいか? ならば、黙って従うことだ……』
取り押さえられた女の問い掛けに、かつて主と呼ばれた男は意味深に答えるだけだった。
「灰色の都市?」
『はい。モルフェットを含む一部の都市に付けられた異名ですね』
モルフェットへ向かうハイウェイの路上で、アルティナ=サンブライトは【クロト】との通信を行っていた。
コーヒーを啜りつつ、記憶を掘り起こすようにつぶやく。
「確か……政府の管轄下にありながら、裏では別の権力者が幅を利かせている街、だっけ?」
『そうですね。政府代理人としての統治権が認められていた頃の名残と言われています。その中でも、モルフェットは極めて不穏な街でして……』
ダッシュボードに置かれたコンパクトから浮かぶ黒髪の女の顔は、いつもながらの愁いに満ちている。
アルティナは飲みかけの缶をサイドに置きつつ、運転をオートモードに切り替えた。
伝わってくる振動が、わずかに小さくなる。
『以前、モルフェットを統治していたのはラーズ=ドルガンという人物だったのですが、彼にはある疑いがありました』
「疑いって?」
『反政府組織との密接な繋がりです。その真偽を確かめるべく情報統制局諜報部も動いていましたが、確たる証拠を得られぬままでした……』
別枠のデータを提示し、【クロト】は話を続ける。
数字や文字の羅列に、ラーズや見知らぬ男の顔写真が続いていた。
『不運なことに、当時潜入していた諜報部員がカオスレイダー化するアクシデントもありまして……それ自体は司令が解決したのですが、同時にラーズ=ドルガンの行方も不明になってしまったんです』
「それは死んだとかじゃなくて?」
『どさくさに紛れて、姿をくらましたというのが妥当ですね。実際、あの時の事件はサプライズ・ケースということもあって、周辺各所への情報操作にも難航した覚えがあります』
嫌な記憶を思い出すように嘆息する彼女を見て、アルティナは人間めいた仕草が板についてきたなと場違いなことを思う。
『その後モルフェットは政府の直接管轄下となりましたが、ラーズの影響力は非常に大きく、政府役人の殺害など不可解な事件が頻発しました。今でこそ治安は良くなりましたが、それもここ数年になってからのことです』
「じゃ、そのラーズ=ドルガンって男が、今回の件にも一枚噛んでるってこと?」
『ひとつの可能性として……ですね。だとしても、なぜ今、そのよ…な行動を起こ……のかは不明……が……』
わずかにブレ始めた【クロト】の姿に、アルティナは眉をひそめた。
どうやらモルフェットに近付いたことで、件の通信制限に引っ掛かってきたらしい。
「了解。まだツッコミたいことはいろいろあるけど、今は現場の調査が優先ね」
『よろ……お願いしま……【アグラ…ア】』
荒ぶる光の渦を消すようにコンパクトを閉じると、彼女はシートに背を預ける。
特徴的なメッシュの髪が、わずかに揺れた。
(カオスレイダー案件と不可解な情報統制……そして灰色の都市か。厄介なことになりそうね……)
フロントガラスを通して見える空は暗い。
これまでの任務とは違う緊張感を覚えつつ、アルティナは再びステアリングを握った。




