(9)男の正体と末路
時が止まったかのようだった。
驚愕の一言を受け、サーティナインは呆然とダニエルを見つめる。
「どういうこと……?」
しかし、その問いに対して目の前の男は返答しない。
代わりに答えたのは、ラーズである。
「良く考えたものだ。確かにダニエル=ウインドホークという実業家は存在する」
ますます混乱する一言を言ったあと、彼は真実を告げる。
「しかし、ダニエルがいるのは、あくまでネットワークの中だ。つまりは疑似人格のペルソナということだ」
「疑似、人格……!?」
「そうだ。にも関わらず、世間の人間はダニエル=ウインドホークという人間が本当にいるものと信じ込まされている……」
凍り付いた空気の中、ダニエルは無言で立つのみだ。
そんなサーティナインと彼の間を、朝方の風が駆け抜けていった。
「情報の氾濫するこの時代、個人もしくは民間企業がそこまでの情報操作を行うことは不可能に近い。ならば、ダニエルを管理運用しているのは誰か?」
推理小説の犯人を明かす探偵のように、ラーズは高らかに言い放つ。
「答えは簡単だ。政府の息のかかった機関ということよ。CKOには情報管理を得意とする部署があるからな。貴様は、そこのエージェントというところだろう? あの手この手でワシに探りを入れてくる……ご苦労なことだ」
「……なるほど。元カジノ王さんは想像力も豊かなことで」
ダニエルは、軽く嘆息して首を振る。
しかし、呆れたという態度の割にどこか違和感があったことは、サーティナインにも感じ取れた。
「……けど、僕はダニエル=ウインドホークさ。それ以上でも以下でもないよ」
その一言は、強い意思を感じさせるものだった。
普段の飄々とした様子は鳴りをひそめ、厳しい表情が顔に浮かぶ。
ラーズは、薄ら笑いを浮かべた。
「……あくまでシラを切る気か。まぁ、良い……貴様の正体がなんであろうと関係ない。ここで死ぬことに変わりはないのだからな」
そして高々と右手を上げる。
包囲する男たちの銃口がその動きに合わせるように、二人の男女を捉えた。
「さらばだ。若造……そしてサーティナインよ」
完全に逃げ場を失った逃亡者たちに放たれる最後通告――しかし、ダニエルはあくまで冷静だった。
周囲に聞こえない程度の声で、彼は言う。
「サーナ……すぐに目を閉じるんだ」
「えっ?」
「早く!」
なにがなんだかわからないままに、サーティナインは彼の言葉に従う。
ダニエルは彼女を背後に庇いつつ、球状の物体を懐から取り出して宙に放った。
今まさに包囲網のトリガーが引かれようとした瞬間、凄まじい閃光が辺りに広がる。
「むっ!」
「うおぉっ!?」
閃光爆弾――強烈な光で一時的に視力を奪う武器の前に、ラーズと手勢たちは一斉に怯んだ。
目の前に掲げた腕を下ろし、ダニエルは叫ぶ。
「今だ! 走れ!」
弾かれたように飛び出す二人。
初めは困惑していたサーティナインも、ダニエルの狙いを直感的に悟っていた。敵の隙を突くことが勝つための常套手段であることを、幼き頃から刷り込まれていたからである。
そして、この場合の隙――ターゲットはラーズであった。主人を盾に取られれば、部下は迂闊に手を出せない。二人の能力をすれば、捕獲は充分可能なはずだった。
『スベテヲ……コントンニ……』
「ぐうっ!?」
しかし、あと少しというところで、ダニエルは唐突に頭を抑えた。
加速した勢いのままよろめき、滑るように倒れる。
「ダニエル!?」
「く、来るな……! サーナ……!」
とっさに足を止めて振り向いたサーティナインに、彼は叫ぶ。
その目は歪な赤い光に彩られかけていた。
『スベテヲ……コロセ……ハカイ……コントンニ……』
「ぐ、うっ……! だ、まれぇっ……!」
明らかに異質な雰囲気を纏ったダニエルは、幽鬼のように立ち上がる。それは潜在的な恐怖を呼び起こさずにいられない姿であった。
一瞬躊躇しつつも手を伸ばすサーティナインだが、ダニエルは勢いよくそれを跳ね除けた。
バランスを崩した女が尻をついて倒れると同時に、ラーズの怒声が響き渡る。
「つまらん真似をしおって……だが、それもここまでだ!!」
千載一遇のチャンスは、無となった。
主人の命令に従い、回復した黒服たちが一斉射撃を開始する。
重なり合った銃声が爆音のように轟き、マズルフラッシュが走る。
そして、ダニエルの身体は文字通りのハチの巣にされていく。
「ダニエルッッ!!」
全身から血を吹きつつもダニエルは苦痛の声すら上げず、サーティナインを見つめた。
その目は今一度青い輝きを取り戻し、わずか優しげに口元は緩む。
「……君を守る……それが……」
放たれたつぶやきに、どのような意味があったのかはわからない。
やがてダニエルはその身を揺るがせると、音を立てて倒れた。
「ダニエル! ダニエルッ!! しっかりして!!」
飛び付くように駆け寄ったサーティナインだが、すでに男は虫の息だった。
溢れ出す鮮血に身を汚しつつ、彼女は号泣する。
それはこの世に生まれ出て以来、久しくなかった激情の発露であった。
「くたばったか……サーティナインよ。これでわかったろう。お前に自由や希望などないということを」
ゆっくりと歩を進めながら、ラーズは告げる。
傲慢を表したかのような声が、女の耳を打った。
「今一度ワシの元に戻るのなら、今回の件は不問にしてやろう。ここで殺すには、まだ惜しいからな」
「……だん……!」
「む?」
しかし、返ってきた答えは意外なものだった。
思わず問い返すラーズに対し、サーティナインは叫ぶように言い放つ。
「冗談って言ったのよ!! あたしはこれ以上、あんたの言いなりになんかならない!!」
「……正気か? サーティナイン!?」
「正気も正気だわ! それにあたしはもう、サーティナインじゃない!!」
ダニエルを背に立ち上がりながら、彼女はかつての主人を睨み付ける。
その瞳にあったのは意思ある人間の持つ輝きだった。
「あたしは、サーナ!! ダニエルがくれたたったひとつの……人としての名前よ!!」
それは実際のところ、意図して付けられた名前ではなかった。
番号で呼ぶよりは、愛称のほうが素敵だという理由でしかなかった。
それでもサーティナインの――サーナの心には、それを機に温かな感情が満ちていったのである。
ゆえに彼女は決めていた。新しい未来を拓こうとする今、自分はサーナと名乗るのだと。
「ふん……くだらん。ワシの元に戻る気がないのなら、処分するのみだ。そこの若造同様にな……」
これまで人形として扱ってきた女の初めての反逆に、ラーズはいまいましげな顔をする。
そして再び、その右手を高らかに掲げた。
数多の銃口の狙いが、サーナを改めて捉えた。
(ダニエル……あたしはあきらめない。あたし自身の未来を掴み取るためにも!)
どう見ても助かる道のない状況だった。
いかに彼女の身体能力をもってしても、銃弾の回避は不可能である。
それでもここで屈するわけにはいかない。頭をフル回転し、逆転の方策を探る。
(……あいつらは、合図と同時に撃ってくるはず。なら、初撃を凌げれば……!)
ラーズが立つのは十メートルほど先――一足飛びで移動できる程度の距離だ。
最初の一斉射をすかし、次弾が来る前にラーズを捕らえる。それが彼女の出した策だった。
意識を集中し、ラーズの手元を見やる。コンマ数秒、タイミングが遅れるだけでハチの巣にされるだろう。
全身を冷たい汗が伝う中、サーナは身構えた。
「終わりだ。サーティナイン……!?」
しかし、言葉と同時にラーズの手が振り下ろされようとした瞬間、絶望は意外なところからやってきたのである。




