(2)暗躍する者の名は
パンドラでライザスたちが密談を交わしていたのとほぼ同じ頃、火星都市レイモスにあるアマンド・バイオテック本社ビルの一室では、一人の男が声を荒げていた。
「なぜ、わからんのだ!?」
机を叩き、彼は目の前の男を睨みつける。
彼の脇にはパッドが置かれ、そこから光のスクリーンが浮かび上がっている。
そこに映っているのは、赤い髪と金の瞳を持つ青年――言わずと知れたソルド=レイフォースの姿だ。
しかし、その他に表示されていた様々な項目は【UNKNOWN】という単語の羅列となっていた。
「も、申し訳ありません……しかし、その男のデータがまったくと言っていいほど無いのです。こんなことは初めてで……」
睨みつけられたオールバックの男は、委縮した声で答える。
元々、大柄な体躯の持ち主であるが、猫のように背を曲げたその姿から威圧感はまるで感じられない。
皮の椅子に身を沈めた部屋の主は、ぎりりと拳を握り締める。
「もういい。アイダス=キルトの件といい、言い訳は聞き飽きた。君はもう少しできる男だと思っていたのだがな……どうやら私の勘違いだったようだ」
「ダ、ダイゴ様!」
「私の傍に無能はいらん。ここを去りたまえ……君の処遇は、追って人事から通達させよう」
その男――ダイゴ=オザキは凍り付くような視線を向け、静かに告げた。
全身に冷や汗を浮かべたオールバックはなにか言いたげではあったが、すぐに深々と礼をして部屋を出ていく。
弱々しくドアを閉じる音が、そのあとに続いた。
(正体不明の男……だが、なぜ素性がわからぬ? ただの人間でないのは確かだが、他の企業が造り上げた生体兵器でもないということか?)
ほとんど意味のないソルドのデータを見つめながら、ダイゴは葉巻に火をつける。
心を落ち着かせるべく行ういつもの行動だったが、その刹那、聞き覚えのない声が室内に響き渡った。
「フフフ……すいぶんご機嫌斜めのようだね? アマンド・バイオテック情報統括役員のダイゴ=オザキさん」
思索に耽っていた男は驚き、顔を上げる。
いつの間にかドアの脇に、ひとつの影がたたずんでいた。
だが、その者が人であるのかすらもわからない。
昼間であるにも関わらず、黒い霧のようなものを身に纏い、輪郭すら視認することができない。
唯一、はっきりしていたのは目の辺りにある黄金の輝きである。
「だ、誰だ!?」
誰何の声を発したダイゴに対し、その影は笑ったように肩を揺らした。
「さぁ、誰でしょう?……と言っても、名無しじゃそっちも都合が悪いかな。とりあえず【ハイペリオン】とでも名乗っておくよ」
「【ハイペリオン】だと!? 貴様、いったいどこから……」
「どこからでも入れるさ。僕に人間のセキュリティなど無意味だからね……」
そう言うと【ハイペリオン】は、音もたてずにゆっくりとダイゴの元にやってくる。
足を動かしているわけでなく、床をスライドするかのような不自然で不気味な動きだった。
ダイゴは目を見張るが、やはり相手の姿ははっきりとしない。近視の人間が矯正も無しに周囲を見たのと同じくらい【ハイペリオン】の姿はぼやけている。
「僕はあなた方に有益な情報を持ってきたのさ。ふたつばかりね……」
「なに!?」
ダイゴの脇で輝くスクリーンを見つめながら、【ハイペリオン】は笑ったようだった。
「まずひとつ……その男だけど、企業の情報網程度で詳細を探ることはできないよ。特務機関オリンポスに所属する特務執行官だからね」
「と、特務執行官だと……?」
「新太陽系政府……いや、CKOとかいう組織だっけ? その中でも最上位に位置する機関の構成員さ。人類生存圏における情報操作すら可能とするほどのね」
「な、なぜ、そんなことを知っている!?」
ソルドらのことを正確かつ淡々と語った【ハイペリオン】だが、ダイゴの問いに答えるつもりはないようだ。
代わりに霧の中から、ふたつの物体をダイゴの前に放り投げる。
「そして、ふたつめ。これらに見覚えはあるかな?」
乾いた音を立てて卓上に転がったのは、小型の培養カプセルとメモリー端末だった。
カプセル内には脈動する緑色の球体が浮かんでいる。
そして、それぞれにはアマンド・バイオテックの社章が刻まれていた。
「これは……!」
「アイダス=キルトが研究していた超細胞SPS……そのサンプルと実験データさ。彼がここから持ち出したものだね」
「き、貴様! なぜこれを持っている!? いったいどこで手に入れた!?」
「さぁ、なぜでしょう? ま、これに関してはあなた方に返すために持ってきたんだけどね」
追及の声を発するダイゴだが、【ハイペリオン】はまたしても笑うだけだった。
人を小馬鹿にしたような言葉遣いももちろんだが、対話をするようでいながら重要なところをはぐらかすその態度に、男は苛立ちを隠せない。
ゆえに単純にこれらを返却するほど、相手に善意があるようには見えなかった。
得体の知れない者に対し、ダイゴは努めて低い声で語りかける。
「貴様……いったい、なにが望みだ? ただでこれを返すというわけでもないのだろう?」
【ハイペリオン】は、その問いに目の光を細めた。
笑うように揺らしていた肩の動きが、初めて止まった。
「へぇ……なかなか話が早いね。さすがは大企業の役員だ。ま、僕たちの望みは世界の混沌でね……あなたには、そのために力を貸してもらいたいのさ」
「なに?」
「正確には……僕たちの仲間になってもらうんだけどね」
そこまで言うと【ハイペリオン】は、霧の中から腕を伸ばしてきた。
初めてはっきり視認できたその腕は、しかしながら霧同様の漆黒であり人間のものではない。
指の先には細かく脈動する黒い種子のようなものが摘ままれており、彼はそれをダイゴの額に押し当てる。
「き、貴様、なにをする!」
ダイゴはすかさず机の引き出しから、ハンドガンを取り出す。
本来なら一度、牽制なり威嚇をするところだが、なぜか彼はすぐに撃たないとまずいという危機感に駆られた。
二度、三度と銃声が轟く。
その狙いは確かだったものの、放たれた弾丸は霧の中を素通りしてドア近くの壁に着弾した。
「フフフ……無駄無駄。僕にそんなオモチャは通じないよ」
「バカな……や、やめろ! ぐああああぁぁぁあぁぁ……!!」
冷や汗を垂らすダイゴの額に、種子はずぶずぶと入り込んでいく。
やや遅れて脳を焼き尽くすような激痛が駆け巡り、彼は絶叫をあげて椅子から転げ落ちた。
床の上をしばしのたうち回っていたダイゴだが、やがて意識を失ったのかピクリとも動かなくなる。
その様子を見つめていた【ハイペリオン】は、静かに笑った。
「フフフ……これで、ますます楽しくなってくるね」
やがて入口のほうから、ドンドンとドアを叩く音が響いてくる。恐らくは異変を察知した社員たちだろう。
しかし、その時にはすでに【ハイペリオン】の姿は、部屋の中から消えていた。
無情に輝くパッドのスクリーンだけが、動く者のいなくなった空間で唯一、存在感を示し続けていた。




