(8)自由への交戦
暗闇の中に、水音が響く。
トンネルのような空間には澱んだ空気と異臭が満ち、呼吸も思うようにならない。
足は膝上近くまで汚水に浸かり、普通に歩くのも一苦労だ。時折、ネズミと思われる小動物が壁際を駆けていく。
いるだけで体力と精神力とが削り取られていく。そして目に映る先は、果てなく続いているように見えた。
進み続ける二人の男女――ダニエルとサーティナインは、無言で足を動かし続ける。
恐怖や不安、疑問や疑念はある。気晴らしにでも話をしたいという欲求が生まれないわけでもない。
しかし二人はあえて口を開くこともなく、耐えて進み続けていた。
『コントン……』
「う!」
突然、ダニエルがよろめいた。
とっさにサーティナインが彼の腕を掴み、転倒を免れる。
「ダニエル、本当にだいじょうぶ!?」
「あ、ああ……すまない」
気遣う言葉をかけてきた女に形ばかりの礼をしつつ、ダニエルは唇を噛み締める。
(ますますひどくなる……このまま、僕の意識を奪い取ろうとでもいうのか……!?)
ここ最近聞こえていた謎の声は、その存在感を増しつつあった。
反響するかのように脳内に響き渡るそれは、ダニエルの自意識を霞の彼方へ追いやろうとする。
ふと傍らのサーティナインに目を向けた瞬間、彼はどす黒い殺意が湧き上がってくるのを感じた。
(!? 僕に……彼女を殺させるつもりか!?)
反応するかのように、右腕が勝手に動く。
それを気力で押し留めたダニエルは、再び何事もなかったかのように歩き出す。
どこか訝しむ表情をしたサーティナインだが、特に口を開くこともなく彼に続いた。
(僕の心を蝕む化け物め……お前の好きにさせてたまるか。彼女の生命は奪わせない……!)
ダニエルは、心の中で強く決意を固めていた。
しかし、サーティナインを守ろうとした理由は利用価値があるからでも好意を抱いているからでもなく、自身のアイデンティティを守るために過ぎなかった。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか――無限に続くと思われた逃避行の終着は訪れた。
目の前に広がったのは、数百メートル四方はありそうな広大な空間だ。そこに大量の汚染水が流れ込んでいた。
同時に低く唸るような駆動音が、辺りに響き渡っている。
「ここは……?」
「……下水処理施設さ。普通に考えれば、まず訪れない場所だね」
息を切らしながら、ダニエルはサーティナインの疑問に答えた。
彼の調べではモルフェットのみならず、近隣の街の下水が共同で処理されている場所らしい。ここから施設を通って地上へ上がれば、すでにラーズの支配区域からは脱していることになる。
「じゃあ、うまく逃げられたの?」
「そうだね……そうあって欲しいところだけど……」
しかし、わずかに顔を輝かせたサーティナインと異なり、ダニエルの表情は晴れない。
ある程度覚悟していたものの、ここまで追手が来ることはなかった。ラーズの手勢がまったく気付かなかったとは考えにくい。
(待ち伏せの可能性がないとは言えない。けど、ここが奴の支配域でない以上、完全な封鎖は難しいはず……)
改めて警戒心を強めつつ、彼は次の行動に移った。
貯水槽から上に伸びている梯子を指差し、サーティナインに来るよう促す。
薄闇の中を天に向かって伸びるそれは、希望を繋ぐ蜘蛛の糸のように見える。
力を振り絞り登っていった二人は、やがて地上階の足場へと辿り着く。
目の前にあるのは、管理室と書かれたプレートの張られた扉だ。鋼鉄製のそれは見たところロックされてないようだ。
何事もなくあって欲しい――祈るような思いの中、ダニエルは扉を開く。
「待っていたぞ。違法者!」
しかし、その思いはあっけなく裏切られた。
刹那、聞こえてきた声は低く、明確な殺意を伴っている。
とっさに身を屈めた二人の上で、飛来した弾丸が弾けた。
「嫌な予想なんてするもんじゃないね! だいたい、そういうのは大当たりする!!」
舌打ちしながら、ダニエルは床を蹴る。
そのまま手近にいた黒服の男に襲い掛かると、掌底を繰り出した。
顔面をひしゃげ、十メートルほども吹き飛ばされて相手は昏倒する。
しかし、敵の数は当然一人ではなかった。その場に待ち構えていた黒服は六名ほどであり、誰もが銃を手にしている。
(長期戦はまずい……!)
とっさに判断したダニエルは、近くの機器の陰に転がり込む。
追うように銃撃の音が重なり、激しい火花がそこかしこで散った。
刹那、肉を打つような衝撃音が重なる。
そちらへ視線を向けると、サーティナインが黒服の一人を蹴り倒しているのが見えた。
「邪魔をするのか!? サーティナイン!!」
「邪魔してんのは、あんたたちよ!!」
気色ばんだ様子を見せた黒服たちに、サーティナインは吼える。
これまでに培ってきた技術を駆使し、彼女は男たちに攻撃を仕掛ける。
「人形が!! 図に乗るな!!」
しかし、敵の油断はそこまでだった。
突進攻撃を見切った男の一人は大きく距離を取りながら、仲間に合図をする。
合わせるように複数の銃口が、サーティナインを捉えた。
「させるか!!」
トリガーが引かれる瞬間、ダニエルの手元から鈍い輝きが走った。
ワイヤーロープが弧を描き、鞭のように黒服たちの銃を続けて叩き落とす。
「ダニエル!?」
「無茶をするな! サーナ!!」
遮蔽から飛び出し、彼はサーティナインに飛び付いて床を転がった。
そのまま彼女を抱きつつ、入口のドアをぶち破るように飛び出す。
「おのれ! 逃がすな!!」
怒声を耳にしつつ、二人は全力でその場を駆け去った。
雲間から光が降り注いでいる。
降りしきっていた雨は止み、今は穏やかな朝の静寂が辺りを包んでいるはずだった。
しかし、処理施設の敷地内には喧騒が満ちている。怒号や銃声が響き、ただならぬ緊張が走る。
「サーナ、急げ! こっちだ!!」
屋外へと飛び出したダニエルとサーティナインだが、追撃の手は止まない。
むしろ外に待機していた敵のほうが多かったのか、行く先々で足止めを食らい、方向転換を余儀なくされている。
(この感じ……まずいな。誘い込まれている……!)
逃げながら、ダニエルは敵の思惑に乗せられていることに気付く。
ルートを制限することで、特定の場所に誘導する――わかっていつつも、そうせざるを得ない。
歯痒さを覚えながら走る二人だが、行く先に待ち受けていたのは意外な人物だった。
「待っていたぞ」
処理場の正門前に、ラーズ=ドルガンはいた。
二人の黒服を従え、威圧的な視線を二人に向けている。
「ラーズ……様……」
「サーティナイン……愚かなことをしたものだな」
息を呑んだサーティナインを庇うように、ダニエルが進み出る。
その口元には、焦燥を隠さんとするような笑みが浮かぶ。
「これはこれは……御大自らお迎えとは思わなかったね。そんなに彼女にご執心だったのかい?」
「ご執心? 笑わせる……確かに少し早くはあるが、古びた人形に大きな価値などない」
蔑むように答えたラーズは、小さく鼻を鳴らす。
そこにあったのは、人を人とも思っていない冷酷な顔である。
サーティナインの顔から、血の気が引いていた。
「だが、処分まで責任を持つのが、所有主の務めというものだろう?」
「……だったらあの時、身請けを断る必要はなかったんじゃないですかね?」
「わかっておらんな。ワシはリサイクルに興味はない。処分とは、すなわち廃棄ということだ」
冷酷な言葉と同時に、周囲に姿を見せた者たちがいる。
追撃者の黒服たちがいつの間にか二人を遠巻きに囲んで、銃口を向けていた。
加速度的に張り詰める緊張の中、ラーズの鋭い視線がダニエルに飛ぶ。
「それに、貴様のような奴には、なおさら渡すわけにはいかん……政府の犬め……!」
「!?……僕が、政府の犬だって……?」
「そうだ。今更とぼける必要もあるまい」
あくまで飄々とした態度を装う金髪の男に対し、支配者たる男は厳然と言い放つ。
「ダニエル=ウインドホークなどという人間はいない……もう調べはついているのだ」




