(22)最後の呼び掛け
震えながら伸ばした手が、ゆっくりと地に落ちていく。
それを見つめる己が視界も、ゆっくりと地に落ちていく。
(力が、欲しい……)
灼熱の赤と鮮血の赤が、目の前を彩る。
そこに染みのように浮かぶ影は、悪魔の姿――たった今まで、憎悪を向けていた相手。
しかし、女の力は届かなかった。
心を責め苛む闇を受け入れても、所詮女は人間だった。
(大切なものを奪うもの……それを倒す力が……)
しかし、おぼろげな視界の中で、女は見る。
その悪魔を屠るべく現れた男の姿を。
神のごとき力をもって、憎い悪魔を塵と化していく男の姿を――。
(もう、悲しい思いをしたくない……もう、親しい人を失いたくないの……!)
女は最後の力をもって、手を伸ばす。
歩み寄ってきた男は、その弱々しい手を力強く握り締めた。
赤に染まっていた世界に、青い輝きが走る。
それは、新たな生命の可能性を見た瞬間だった――。
ひび割れた床の上で、【ヘカテイア】は呻いていた。
それまで狂気を感じさせる表情をしていた顔には脂汗が浮かび、ただならぬ苦しみが彼女を苛んでいることがわかる。
そんな女を呆然と見つめていたソルドは、はたと気が付いたように身を起こす。
(今の、は……? それに、この光は……!)
彼は周囲に、花びらのように舞う光の欠片があることに気付く。
それは他ならぬソルド自身から放たれたものだった。
『あなたも何度か【アルテミス】からの声を聞いたはずです……その理由は、あなたの中に彼女の一部が存在しているため……』
【レア】から聞いた言葉が、思い出される。
理由は定かでないが、今、その光の残滓が活性化しているのである。
「皆さんっ!」
彼が次に取るべき行動を思い息を呑んだ瞬間、背後から甲高い叫びが聞こえてきた。
「戦いを止めて下さい! このままだと大変なことに……!」
そこにいたのは、黒髪ポニーテールの少女――【アトロポス】だった。
全身から汗を流し熱気を立ち昇らせる姿は、どこか艶めかしくも痛々しくも見える。
恐らくはマテリアルボディの最大駆動を行った影響だろう。
「どうしたのよ!? アトロ……」
「実は……!」
ただならぬ様子に訝しむ特務執行官たちに、彼女は自身の得た情報を伝える。
それを聞いたソルドたちの表情が、見る見る変わった。
「爆破だと……!?」
「そうです! シュメイスさんが今、急いで止めに行ってますけど……」
「……ろくでもないこと考えてくれるわね。反政府組織の連中も……!」
【宵の明星】の最後の企みに、誰もが憤りを隠せなかった。
バビロンの防衛が不可能と知るや、それを破壊するという行動――恐らくは特務執行官たちに罪を擦り付ける意図もあると考えられる。
しかし、この場にいる者たちに取れる行動は少ない。シュメイスを信じることと、場の被害を拡大させないことだけだ。
そして被害拡大の元凶ともなる【ヘカテイア】に改めて視線を移したソルドは、そこで大きく見開かれた銀眼に気付いた。
「滅ぼす……!」
「!? ルナル!?」
「うああああああぁぁぁぁっっ!!!」
叫びと共に起き上がった黒き女の両手が、青年の首を掴む。
それはまさに衝動的とも言える行動だった。
押し倒され、怪力に絞め上げられたソルドは苦悶の表情を浮かべる。
「がっ! ぐ、う……!!」
「ソルド!!」
「落ち、着け!! みん、な……これが、最後の、チャンスだ……!! ここを逃せば……もう……!!」
喘ぎながらも彼は、今取るべき行動を見失ってはいなかった。
正確には、ここしかないと感じていたのだろう。
虚無の闇に沈んだルナルへの呼び掛け――彼の真意に気付いたアーシェリーたちは、思い思いに声を上げる。
「ルナル!!」
「ルナルさん!!」
「ルナルちゃんっっ!!」
その声に応えるかのように、ソルドの周囲で舞っていた光の欠片が閃光を放った。
ソルドの意識は、その後深い闇の中にあった。
なにも見通せない無の空間――すべてが溶けて呑み込まれてしまいそうだと以前感じたところだが、今回は自身の姿も光の人型として認識することができる。
「……どうやら、また来れたようだな」
「ソルド……!?」
「シェリー!? それにサーナたちも……」
そこで彼は、自分と同じように光の人型として浮かぶ仲間たちに気付いた。
アーシェリー、サーナ、そして【アトロポス】――先ほど声を上げて呼び掛けた者たちだ。
「ソルド、ここはいったい……!? もしかして、ここが!?」
「そうだ。シェリー……恐らくは【虚無の深闇】の中。ルナルの意識がいるはずの場所だ……」
少し確証を持てぬまま、ソルドは言う。
雰囲気そのものは同じだが、証明する手立てがないからだ。
しかし、その迷いもすぐに消えることとなる。彼らの前におぼろげな光を放つ人の姿が現れたからだ。
青い髪と銀の瞳――その場の誰もが見知った女の姿が。
「ルナル!!」
「みんな……?」
「ルナルさんですか? そうなんですね!!」
「どうして……? どうして、みんながここへ……?」
「どうしてって、ルナルちゃんを助けたいからに決まってるでしょ!!」
驚きの表情を浮かべるルナルに対し、アーシェリーたちが思い思いに声を上げた。
それまでの苦しげな雰囲気から一転し、誰もがルナルとの再会を喜んでいた。
そんな彼女たちをひとしきり眺めたあと、ソルドは静かに語り掛ける。
「ルナル……もう一度、言おう。ここから、出るぞ」
「兄様……前も言ったでしょう。それはできないと……」
「本当にそうか? お前は……本当にそう思っているのか?」
その言葉に以前のあやふやな感じはなく、決然とした思いが宿っている。
迷いのない時の兄の姿――それを良く知るルナルは、どこか脅えたように後退る。
「……私は罪人よ!! 今更、どうして元の世界に戻れるというのよ!!」
噴き出した感情が、強い叫びとなって闇に放たれる。
彼女自身が抱えている負い目――二度と戻れないと感じている理由が。
「どれだけの人を殺したと思ってるの!! どれだけみんなを苦しめたと思ってるの!! それを知らないはずないでしょう!!」
「ルナルちゃん……甘えないで」
その叫びに対して、反論したのはサーナだった。
ルナルの元へと歩み寄り――正確には漂うように近付いたのだが――諭すように言葉を続ける。
「それを言い出したら、あたしたちも一緒だわ。特務執行官であるということは、そういうことでしょ?」
「サーナ……」
カオスレイダーも寄生者も、元々は普通の人間である。
つまり、多くの人を殺めた罪は【アトロポス】を除けば、この場の誰もが背負っているものなのだ。
そこにあった思いは様々だが、自らの意思で行ったという点では間違いなく共通している。
今更語るまでもない話と割り切りつつも、サーナは同時に寂しげな顔をした。
「人を不幸にしなければ、希望を作り出せないなんて……罪深い存在よね。それでもあたしたちは戦わないといけないわ。そうしないと、希望すらなくなってしまうんだもの」
「でも……!」
「ルナルさん……わたしは、人じゃありません。でも、人の思いはわかるようになってきたつもりです」
顔を背けたルナルに対し、次いで語り掛けたのは【アトロポス】である。
【モイライ】を破壊し、【クロト】の記憶を消し、【ラケシス】の存在を消した――【ヘカテイア】としての記憶を持つルナルにとって今、最も顔向けのできない相手だ。
しかし、少女の顔には怒りも憎しみも浮かんでいない。
「大切なものを失った悲しみ……先の見えない恐怖……電子の世界から出て学んだことはたくさんありました。そのほとんどは苦しいことばかりだった気もします」
【アトロポス】は思い返すように言う。
彼女がマテリアルボディを得て現実の世界に生きるようになったのは、成り行きだった。
【ヘカテイア】がいなければ、彼女は今もただの電脳人格――プログラムだったろう。
「でも同時に、そんな中でも懸命に生きている人たちの存在を知りました。ああ、こういう人たちを……こういう世界を皆さんは守りたいんだって、わかるようになりました」
地球での生活やソルドたちと行動を共にする中で、彼女は多くの人の思いを体感した。
それが今の彼女を、意思ある人間へと近付けたのだ。
そして【アトロポス】は、それを不幸と思っていなかった。
「わたしですら、こんな風に思うんです。ルナルさんが、そう思わないはずないんです。ルナルさんは、優しい人ですから……」
「アト、ロ……」
以前と同じ――それでいて心の強さを増したような微笑みを、【アトロポス】は浮かべる。
その顔を呆然と見ていたルナルは、次いで近付いてきた光に気付く。
「ルナル……あなたにとって私は、憎んでも憎み切れないでしょうね……」
「アーシェリー……」
「泥棒猫……愛しい人をあなたの元から奪い去った私……その存在すら、許せないかも知れません」
何度も叩き付けられた単語を口にし、アーシェリーはルナルに語り掛ける。
彼女の顔には、申し訳なさと切なさとが浮かんでいるように見えた。
「私がソルドに想いを伝えなければ、あなたもこんな思いをしなくて済んだ。【ヘカテイア】が生まれたのは、私がいたからですよね……?」
「それ、は……」
ルナルは、その言葉を否定できない。
他にも要因があったとはいえ、彼女への嫉妬が【ヘカテイア】を生み出すひとつのきっかけであったことは事実だ。
アーシェリーは、それを責めるつもりは毛頭なかった。
彼女はただひとつ――ルナルにとっても意外なことだけを伝えてきた。
「私も許してもらえるとは思ってません。ですが、憎むのは私だけにして下さい」
「アーシェリー……!?」
「私だけを、憎んで下さい。あなたの憎しみは全部、私に向けて欲しい」
愛する者を奪われた憎しみは、その相手だけに向ければ良い。
かつて恋人を殺されたアレクシアのように、アーシェリーはルナルの憎悪も引き受けると言ったのだ。
「ですから、もう一度……立ち上がって下さい。私以外の……多くの人のために……!」
ただひたすらに、アーシェリーは真っ直ぐな視線を向けてくる。
自虐的でありつつも、それはいかにも彼女らしい励ましと言えただろう。
ルナルはその覚悟を、素直に眩しいと思った。
「でも……でも、私は……」
「ルナル」
そして戸惑いを覚える中、最後に声を掛けてきたのは、ルナルが最も良く知る兄と呼んだ男であった。




