(17)押し迫る時
どこか澱んだ風を感じつつ、アーシェリーは目を覚ました。
白む光の中で全身を満たしていたのは、人肌の温もりだ。
ゆっくりと視線を巡らすと、彼女はそこに黄金の瞳を持った男の姿を見る。
「ソルド……」
「シェリー、気が付いたか」
わずかに安堵した息を漏らしながら、その男――ソルドはつぶやく。
二人がいる場所は、クレーターのような窪みになった荒野の只中だ。目覚める前に【エリス】や【ムネモシュネ】と相まみえた地点とまったく変わらないことに、アーシェリーは気付く。
「ソルド。なぜ、あなたがここに……? ウェルザーやフィアネスは?」
「そのフィアネスから、連絡をもらって来た。今ここにいるのは、君と私だけだ」
ソルドは彼女の問いに、淡々と答えていく。
サーナたちの救出後にバビロンを発った彼は、ほどなくしてフィアネスからの通信を受け取った。
その内容はアーシェリーを、この場所で眠らせたというものだった。彼女がひどく傷付いていたため、ナノマシンヒーリングを行っておいたとも――。
「そういえば、私はフィアネスの電影幻霧を受けて……あれはいったい?」
「フィアネスが言うには、電影幻霧の変則版ということらしい。ナノマシンの作用で眠らせると同時に重傷の回復を行うようだ」
改めて全身を見回したアーシェリーは、ダメージが一切残っていないことに驚く。
昇った太陽の位置から考えても、あれから一時間は経っていない。その間にこれだけの回復を行える者は、知る限りでもサーナくらいのはずだった。
「とにかく君が無事で良かった。【エリス】との因縁は私も理解しているが、あまり無茶をしないで欲しい」
「……すみません。でも……」
強く抱き締めてきた男の腕の中でアーシェリーは頬を赤らめながらも、同時に倒れた宿敵のことを思った。
【虚無の深闇】によって自我を失いかけた【エリス】――アレクシアは、あれからどうなったのだろうか。再び立ち上がることはできたのだろうか。
そのことを問い掛けてきた恋人に対し、ソルドは静かに首を振るのみだ。
「私も残念ながら、詳しい話を聞けたわけではないのでな。君の疑問に答えられなくてすまないが……」
「いえ……良いんです。それよりもバビロンへ向かいましょう。今は作戦の遂行と、ルナル救出のことを考えなければ……」
「そうだな。行こう」
頷いて立ち上がったソルドは、彼方にそびえる軌道エレベーターを見つめた。
ここまでだいぶ寄り道をしてしまったが、ようやく本来の目的に向けて行動できそうである。
改めて表情を引き締めた彼は地を蹴り、光となって飛び立つ。
(アレクシア……次に会った時には、必ず決着をつけましょう。ですから……戻ってきて下さい)
そんなソルドを追って天空に舞い上がったアーシェリーは、どこか祈るように心の中でつぶやいた。
竜巻のように巻き上がる炎の中で、古びた建物が燃えている。
朱に染まる視界と吹き荒れる熱風。地獄のような暑さが周囲を包んでいる。
「これは……なに……?」
弾ける血飛沫と共に、子供たちが倒れていく。
彼らを追い回し、死の洗礼を与えている者は人型の怪物だ。血に濡れた女の首を引っさげ、咆哮する悪魔――。
その傍らに横たわっているのは、一人の青年である。
「にい……さま……」
兄と慕っていた人間は、ぴくりとも動かない。
完全に死んでいるのか、良くて瀕死の状態だろう。
恐怖、悲しみ――呆然と立ち竦む女の心に様々な感情の波が押し寄せ、やがてひとつの黒い思いに塗り潰されていく。
それは大切なものを踏みにじった悪魔に対する憎悪であった。
(許さない……よくもみんなを……よくも兄様を!!)
『……抹殺せよ……』
頭の中に、声が響いた。
生まれた時から自身を苛んでいた異質な声だ。
しかし、これまでずっと忌み嫌っていたそれを、今の女は初めて受け入れようとしていた。
『抹殺……すべてを抹殺せよ……それがお前の存在意義……』
(許さない……!! 私は……わたしは!!)
脅え立ち竦んでいた身体に、力が戻ってくる。
心の内の獣が解き放たれ、周囲の温度に負けないほどの熱がみなぎった。
傍らに転がっていた鉄パイプを拾い上げ、女は惨劇を生み出す怪物に挑みかかる。
「殺す……抹殺する……すべて……すべてを……!」
無機質で冷たい声ながらも、その顔には般若を思わせる表情が覗いていた――。
「今……のは……!?」
どこか澱んだ風を感じつつ、【ヘカテイア】は目を覚ます。
気が狂いそうな苦しみの中で倒れた彼女は、今の今まで意識を失っていたようだ。
痛む頭を振りながら、立ち上がる。
赤い大地が、わずかに白みがかった光に照らされ、黒き女の姿を浮き立たせた。
「……お前か……! お前の仕業か!?」
突然、【ヘカテイア】は声を荒げた。
自分以外誰もいない荒野に、絶叫を放つ。
「なぜだ! お前はなぜ、消えない!! なぜ、こんなものを見せる!?」
いまいましさを覗かせた表情で、彼女は何者かに訊くように叫ぶ。
しかし、それに対する返答はなく、ただ風の音が空しく響くのみだ。
「……お前がなにをしようと、私のすることは変わらない……!」
やがて答えを諦めた【ヘカテイア】は、独り言ちるように言い放つ。
彼方にそびえる軌道エレベーターを見つめた彼女は、地を蹴り闇となって飛び立つ。
「殺してやるわ。ソルド=レイフォース……!! そして、なにもかも滅ぼしてやる……なにもかも!!」
自分自身に言い聞かせるかのように、黒き女はその憎悪を滾らせて咆哮した。
円柱状に造られた空間で、緊張は前にも増して高まっていた。
中空に浮かぶスクリーンには今やなにも映っておらず、放たれる光だけが照明となって室内に広がるのみだ。
「うまく乗り切られたというところか」
背の高い椅子に座るアルビノの青年は、どこかいまいましげな口調でつぶやいた。
それに対し、列席する者たちの間から声が上がる。
「奴らを甘く見ていました。まさか映像管理システムを乗っ取られるとは……」
「我々の狙いも読まれていたのだろう。思った以上に洞察力に優れた者もいるようだな」
当初の思惑から外れたことに、誰もが驚きを禁じ得なかった。
しかし、激しく動揺している様子はない。
特務執行官がいまだ得体の知れない敵であるゆえに、罠を逃れ得る可能性もゼロではなかったからだ。
「どうしたものですかな。このままではバビロン奪還も時間の問題……SSSの強化兵士でも、奴らを止めることはできますまい」
「然り。正面対決では、我らに一寸の勝ち目もないゆえに」
もっとも、その先の手立てとなると話は別だった。
様々なデータから、彼我の戦力差は歴然としている。直接的な戦力のぶつかり合いは、愚策でしかない。
アルビノの青年は、目を細める。
「止むを得まい。最後の手段を使うしかなさそうだな」
「! では、やはり……」
「……歯痒いですな。苦労して手に入れたものを手放すというのは……」
放たれた言葉に、列席の者たちが苦渋の声を漏らす。
次の策がなかったわけではない。
ただ、それを行うことは、彼らにとっても大きな痛みを伴うものであった。
「確かにこれまでの過程を考えれば、我らの不利益も大きい。だが、特務執行官を葬り去るためには仕方のないこと……奴らの組織共々打ち砕かねば、我らに勝利はあり得ないのだ」
場に満ちた思いを代弁するように、アルビノの青年は言葉を続ける。
その圧のある声に、居並ぶ人間たちは神妙な面持ちで聞き入る。
「事後のことも含めて、すぐに行動を開始せよ。諸君らの働きに、すべてが懸かっている。【宵の明星】に栄光の輝きを!!」
「「【宵の明星】に栄光の輝きを!!」」
やがて立ち上がった青年に合わせ、場に唱和の声がこだました。




