(6)虚空での対峙
静寂が支配する虚空――星々の光が煌めく闇の中、赤と青とのコントラストが眼下に広がる。
テラフォーミングが行われた火星の外観は、陸地と海とで対照的な色合いをしている。その赤道から一直線に伸びる鋼の塔――軌道エレベーター・バビロンは、衛星軌道上にて巨大な円盤状構造体と接続していた。
発着場や一部企業の研究施設を有した外郭には、超電導ライナーのクリスタルチューブが張り巡らされていた。
その蚕の繭を思わせる構造体の上に、ぽつりと立つ人影がある。
黒い髪と緋色の双眸を持つ女が、宇宙服もなしに真空の世界にたたずんでいた。
(……私は……なにをしているの……)
その女――【エリス】は、呆然と虚空を眺めていた。
【ヘカテイア】を援護せよ――【レア】に告げられたその言葉に従い、彼女は今ここにいる。
特務執行官がバビロンという巨大構造物を攻める以上、地上のみを警戒することは片手落ちだからだ。
『……この戦いは、お前にとっても意味のあるものだ』
【レア】が最後に放った言葉が、頭の中をよぎる。
なにかを知って、隠しているような口ぶりだった。
霞がかったような思考の中で【エリス】はその真意を考える。
しかし、結論は出ない。
(私は……私にとって……意味のあること……)
最近は、命ぜられるままにカオスレイダーを覚醒させる日々が続いている。
圧倒的な力を持つはずの彼女が行なっていることは、まるで作業機械のようなルーチンワークだ。
そこにどんな意味があるのかも、もはやわからない。
いや、すべてがどうでも良くなっていく。
(私にとって、意味のあること……)
虚ろな心で、ひたすらに自問を繰り返す。
自分がなんのために存在しているのかを。
そんな黒き女の目にふと映ったのは、流星のような光だ。
地上から上がってきたその光がなにかを知った時、彼女の頭に閃くものがあった。
(そうか。私にとって、意味のあることは……)
心の中で、黒い火が灯る。
忘れかけていたもの、消えかけていたものが強く燃え上がり始める。
その瞳に輝きを取り戻した【エリス】は口元を歪めると、力強く地を蹴った。
大気のカーテンを突き破り、ふたつの光が虚空へ駆け上がる。
共に緑の輝きを宿した流星――それらは広大な空の中でも力強い存在感を放っていた。
特務執行官のシュメイスとアーシェリーである。
『あのバカ……確かに、派手に陽動してくれとは言ったが、加減ってもんがあるだろ』
作戦開始時刻を迎え、ふと地上に目を向けたシュメイスは思わず嘆息した。
普通の人間だったら、特になんの変化もないと感じたろう。しかし、超望遠モードを起動した彼の目には、真っ赤な炎の花が黒煙と共に開いた光景がありありと映っていた。
ここで見る分には極めて小さなものだが、地上では恐らく大騒ぎになっているはずである。
『それは仕方ないと思いますけど。ソルドさんって、いつでも全力ですし、加減とか苦手そうですもんね』
『まぁ、否定はしないが……アトロ、お前少し変わったんじゃないか?』
彼の腕に抱えられていた【アトロポス】が、ぽつりと言い放つ。
本人に悪意はないのだろうが、どこか皮肉めいた言葉は【モイライ】が健在だった頃からは想像もつかない一言である。
意外そうな顔をしたシュメイスの横では、アーシェリーが苦笑を漏らしていた。
『それよりも、急ぎましょう。時間に余裕はないはずです』
『悪い。そうだったな』
虚空を蹴るように、ふたつの光は円盤状構造体に向けて飛翔する。
鈍色に輝く威容が、彼らの目の前に広がってくる。
『でも、どこから侵入するんですか?』
『作業用のエアロックだ。発着場は警戒されているだろうからな』
数百メートルほどまで距離を詰めたところで、外壁沿いに飛行しながらシュメイスは言った。
物理的破壊を考えなければ、外部から侵入できるルートは連絡船の発着場ほぼ一択しかない。
もっともそれは普通の人間の発想であり、虚空を自在に駆ける特務執行官なら話は別であった。
やがて、彼らは目的の地点へと辿り着く。
『ここだ。このエアロックから中に入れば、サブコントロールルームまでは一直線だ』
直径三メートルほどの円形のハッチが、そこにあった。
その傍らで静止したシュメイスは、強化クリスタル製のガードに覆われていたコンソールをあらわにする。
自らの手を同化させハッキングを開始すると、傍らの【アトロポス】が問い掛けてくる。
『これって外から減圧できるんですか?』
『不可能とは言わないが、メインコントロールを掌握されてる以上、時間がかかる。俺たちなら、エアロックの機能を使う必要はないから、そこは省略だ』
『でも、それだと中に被害が……』
『悠長にやってる暇はないのさ。俺たちは最短最速で、サブコントロールルームを制圧しなけりゃならないんだ』
淡々とシュメイスは返答する。
バビロン本体にダメージを与えたくないものの、それでもたついていたら本末転倒だ。
地上組が侵入すれば、敵の目は一時そちらに向くだろう。しかし、長く引き付けておくこともできない。最低でも人質の現在位置は、この隙に把握しなければならないのだ。
『……この近くに敵兵がいたら、そいつは運が悪かったということさ。よし、開くぞ』
ハッチ開放のためのハッキングを終え、彼は目で合図する。
【アトロポス】、そしてアーシェリーも内心ためらいはあったものの、わずかに頷きを返した。
無音の空間に緊張が走る中、外に割れるようにハッチが開き始める。
その瞬間、それは起こった。
『戦え!!』
『っ!?』
簡易通信に割り込むように、怒声のような声が響き渡ったのだ。
次いで、三人のいた場所に破壊的なエネルギーの奔流が押し寄せる。
閃光と共に直撃を受けたハッチが破壊され、外壁諸共に破片を撒き散らす。
壁際から飛ぶように回避したシュメイスたちは動かした視線の先に、攻撃の主の姿を認めた。
『私と戦え!! アァシェリィィィィッッ!!!』
『!! アレクシア!?』
揺らぐような闇を纏って、【エリス】が飛来する。
唐突に姿を見せた宿敵に対し、アーシェリーは思わずそう口走っていた。
なぜなら黒き女の見せている鬼のような形相は、かつて地球で相対したアレクシアそのものだったからである。
『殺す……殺してやるぞ!! アァシェリィィィッッッ!!!』
突進と共に突き出された黒き槍を銀の槍で受けたアーシェリーは、そのまま押し出されるように場を離れていく。
『アーシェリー!!』
『先に……先に行って下さい!!【エリス】は、私が抑えます!!』
『しかし!!』
遠ざかっていく女たちを追おうとしたシュメイスに、続いて制止の声が聞こえてくる。
『時間がないと言ったのは、あなたでしょう!! こんなことで鈍るほど、あなたの覚悟は甘かったのですか!?』
『!? アーシェリー……!』
『行って下さい! 私も……必ずあとを追います!!』
その顔は見えなくても、通信越しであっても、強い覚悟が伝わってくる。
顔を伏せ、歯を噛み締めたシュメイスは、次いで元来た方へ向き直る。
『……行くぞ。アトロ』
『で、でも、シュメイスさん!!』
『俺たちに時間はない。アーシェリーを……あいつを信じろ』
すがりつくような【アトロポス】を強く抱き寄せた彼は、大きく開口したハッチに向けて飛翔した。
『うおおおああああああぁぁぁぁぁぁ!!!』
まるで狂ったかのような雄叫びと共に、【エリス】は突進し続ける。
緑の光と揺らぐ闇がもつれ合いながら、虚空の闇を駆けていく。
押し続けられていたアーシェリーは、なんとか力の軌道を変えようと試みる。
やがて閃光を伴い、弾かれるようにして彼女は黒き女から身を離した。
『アァシェリィ……アァシェリィィィッッッ!!』
『【エリス】……いったい、なにがあったと言うんですか……!?』
改めて相手と向かい合いながら、アーシェリーは問い掛ける。
元より因縁の敵である【エリス】が、自分との対決を望むのは理解できた。
しかし、今の彼女にはこれまであった余裕がなく、切羽詰まった雰囲気が感じられる。
『お前が……お前こそが……私の生きる意味……お前を殺すことこそが……!!』
宇宙であるにも関わらず、喘ぐような素振りを見せつつ【エリス】は言う。
揺らぐ闇が炎のように広がり、眼下の火星の輝きに黒点のような染みを落とす。
やがて黒き槍を振りかざした彼女は、猛るように咆哮した。
『私と……私と戦え!! アーシェリー!! 私が……私でいられる内にっっ!!』
『!? アレクシア……あなたは、まさか……!!』
その言葉に閃くものがあったアーシェリーは、生まれた焦燥を抑えつつ、臨戦態勢を取った。




