(5)魔物の巣
火星の曙は、かつての地球よりも赤い。
空と大地がほぼ同色に染まる光景は絶景のようでいて、どこか不安を掻き立てられる。
血まみれの視界で見る景色に似ている――そんなことを考えてしまうのは、血生臭い世界に生きるからでなく、男がかつて死を体験したからだったのか。
「随分と早いのね。まだ交代してから四時間も経ってないわよ?」
バビロン外壁沿いの通路に立ち、窓の外を眺めるアールグレイに背後から声が掛かった。
その主が誰か知っていた彼は、振り向くこともなく答える。
「……いつものことだ。特に気を抜けない状況なら、尚更な」
「そういえば、あなたは昔からそうだったわね」
思い出すようにつぶやきながら、ダージリンは傍に歩み寄る。
手には湯気を上げるプラスチックのカップがあり、彼女はそれを男に差し出す。
その光景は、見る者が見れば意外に思ったことだろう。
「そろそろ敵の動きが気になるところかしら?」
「そうだな。バビロン占拠から四日……政府側が動きを見せるとするなら、頃合いだ」
苦味の深いコーヒーを流し込み、アールグレイは目を細めた。
SPS強化兵である彼らにとって食料や飲料の摂取はあまり必要のないものだが、これも生前の癖なのだろう。
そんな男を横目にしつつ、ダージリンは笑む。
「敵は特務執行官……かしら?」
「俺が政府の立場なら、それを考える」
「なら、楽しい戦いができそうね」
「……相変わらずだな。お前も……」
もう何度目かになる女の言葉に半ば呆れながらも、アールグレイは同じように笑んだ。
戦いを前に共に分かち合うこの高揚の時が、今も昔も二人にとっては至高であった。
それは、常人には理解しがたい感覚である。
「だが、いかに特務執行官でも、簡単にここまでは辿り着けんだろう」
「例のアレのこと? けど、あんなものじゃ敵わないと思うけど……」
「確かにな。だが、その力がどれほどのものかを改めて測るには、ちょうど良い材料だ」
大きく息をついた男は、空のカップを握り締めつつ、意味深につぶやく。
ひび割れ、砕け散った破片が、艶のある床にパラパラと降り注いだ。
(ソルド……お前は、またここへ来るのかしら? その時は……)
そして撒き散らされた欠片を眺めるダージリンの心中にも、密かな思いが渦巻いていた。
時をほぼ同じくして、巨大なる塔を眼前に臨むメインゲート近傍で、二人の男女が物陰に身を潜めていた。
スキンヘッドが特徴的な大男と、肉感的な美女だ。言わずと知れた特務執行官のランベルとサーナである。
彼らの視界には、武装した男たちがせわしなく歩き回る様子が映っている。
ただ、その行動はどこか無秩序だ。ライフルを背に当てストレッチしたり、煙草を吹かしたり、大あくびを抑えもしないなど、一見してあまり訓練されていない集団と見て取れる。
とはいえ、その数はかなり多く、見つからずにゲートに近付くことはまず不可能だった。
「さすがに警戒厳重ね」
「……厳重かどうかはさておき、反政府組織としても容易く突破させるような警戒はしていないということだな」
サーナの発したそれとない言葉に、ランベルは苦虫を噛み潰したような顔をする。
元々、軍属であった過去を持つ彼にとって、男たちの体たらくは見ていて呆れるものでしかない。
雑多な人間の集合体である反政府組織の手勢なら、それも仕方のないところだろう。
「ま、あたしたちにかかれば、どうってことないんだけどね」
「……我々の力は、こんなことのために使うものではないぞ?」
「わかってるわよ。相手がただの人間なら、直接戦闘は避けるべき……でしょ?」
いつものノリを取り戻したような仲間の様子に嘆息しつつ、彼は視線を巡らす。
ここに来て状況を観察する中、敵兵の在り様以上に気に掛かる点があった。
「……それにしても妙だな」
「なにが?」
首を傾げたサーナに対し、ランベルは無言でゲート前のある場所を指し示す。
そこには兵員輸送に用いたと思われる大型のトレーラーが数台、止まっていた。
今も何名かの人間が、出たり入ったりを繰り返している。
「あのトレーラーが、どうかしたの?」
「わからんか? 交代の人員含め、彼らはあそこを拠点に動いている。誰一人としてゲートに近付こうとする者がいないのだ。不自然なほどにな」
「下手にゲートを開けたら、誰かに侵入されるかも知れないわ。それを防ぐためじゃないの?」
「確かにあの練度なら、そういう手を打っても不思議ではない。しかし、彼らの動きはゲートを守るというよりは、監視しているように見えるのだ」
その言葉に、サーナも改めて敵の動きを注視する。
警備の男たちは皆が皆、申し合わせたようにゲートから一定の距離を置いてウロウロしている。
時折、一部の男たちが見せた表情には、どことない脅えがあるようにも見えた。
「……言われてみれば確かに。なんか、怖いものでも閉じ込めてるのかしらね?」
冗談めかして言った彼女に対し、ランベルはなにも答えない。
男の目は鋭い光を湛えたまま、ゲートを一心に見据えている。
やがて時報を告げる鐘の音のような電子音が、いずこからともなく聞こえてきた。
「……時間ね。ソルド君、うまくやってくれるといいけど……」
サーナがぽつりとつぶやいた瞬間、耳をつんざくような爆音が響き渡る。
同時にゲートからも視認できるほどの巨大な火柱と噴煙が、明けの空に立ち昇った。
「な、なんだ!?」
「火事!? いや、敵襲か!?」
たちまち、反政府組織の男たちが色めき立つ。
皆が皆、武器を構えながら一斉に爆発の起こった方向に身体を向け、半数近くの者たちは駆け出していった。
「……相変わらず、派手ね」
「……本人にその気はないのだろうが、騒ぎを起こすにはうってつけの人材だ。シュメイスの采配も見事なものだな」
「ま、いいわ……とりあえず急ぎましょ」
打ち合わせ通りの陽動とはいえ、内心やり過ぎなのではと呆れつつも、二人の特務執行官は行動を開始した。
注意が逸れて死角となった場所を選び、風のように疾駆していく。
ただでさえ常人の目にも止まらぬスピードの彼らを視認できる者は、今の男たちの中にはいなかった。
周囲の景色がぶれて後ろへ流れる中、二人の目には巨大なゲートの扉だけが映っている。
「ラン君!!」
「うおおおおぉぉおおぉぉっっ!!」
雄叫びと共に、ランベルの姿が黒鉄のように変色する。
全身を硬質化した彼はさながら砲弾と化し、扉を轟音と共に撃ち貫いた。
あとを追って、桃色の光と化したサーナが穴の中へと飛び込む。
新たに起こった出来事にどよめいた男たちの声を背にしつつ、二人はバビロンの商業区画へと侵入した。
「成功ね。それじゃ、さっさと……」
「!? 待て! サーナ!!」
このまま突き進もうとしたサーナを制し、ランベルが叫ぶ。
廃墟のごとく閑散としたはずの区画内に、異様な殺気が満ちていた。
薄暗い照明の中、二人の特務執行官は周囲に浮かび上がる無数の赤い光を見る。
それが数多の双眸の輝きだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「!? これは……!!」
彼らを囲んでいた目の持ち主は、緑色の体色を持ち、鋭い牙を生やした爬虫類のような異形であった。その数は確認できるだけで、すでに百を超えている。
数日前にシュメイスやアーシェリーによって倒された怪物たち――それがより数的規模を増して、二人を見つめていたのである。
「なるほど。シュメイスの言っていた実験生物か……あの男たちがゲートに近付かなかったのは、これが理由だな」
「怖いもの閉じ込めてたってのは、あながち間違いじゃなかったわけね」
常人なら目の当たりにしただけで卒倒しそうな状況であったが、二人の態度は変わらない。
人外の化け物を相手にするのは日常茶飯事だけに、当然のことだろう。カオスレイダーと比較しても脅威になるものではない。
「あたしたち、飛んで火にいるなんとかってやつ?」
「夏の虫だな。もっともこの場合は、巣に飛び込んだというほうがしっくりくるかも知れんが」
「さながら害虫の巣ね……だったら、本番前にサクッと駆除しようじゃない」
「これ以上、騒ぎを起こすのは好ましくないが……仕方なかろうな」
闘志満々のサーナを嘆息気味に見やりつつ、ランベルもまた拳を固める。
どのみち戦闘は避けられない上、相手が人間でなければ手加減の必要もなかった。
やがて申し合わせたかのように、異形の怪物たちは一斉に襲い掛かってくる。
特務執行官たちによるバビロン奪還作戦――それは、圧倒的物量差の乱戦から幕を開けることとなった。




