(13)抱えていた想い
その頃、ミュスカの自宅に残されたルナルは、薄闇の中で一人静かにたたずんでいた。
傍らには、ソファに横たわるミュスカの姿がある。
あれから彼女をリビングに運び、近くにあった毛布をかけて寝かせた。
そのミュスカは今、小さな口元から、うなされたように言葉を紡いでいる。
「お兄ちゃん……行っちゃ、やだよ……」
目元から、透明な雫が流れ落ちた。
それは次から次へと流れ落ち、少女の頬に濡れ跡を残していく。
「一人はやだよ……一人は……やだぁ……」
気を失った中で見る夢は、自身の過去に関係するものが多いという。
以前、ルナルはそんな内容の書かれた文献を見たことがあった。
もちろん絶対的な根拠があるわけでなく、あくまでも推論に基づくものであったが、今のミュスカにはそれが当てはまっているのだろうか。
彼女の涙をハンカチで拭いながら、ルナルは胸が締め付けられるような思いに囚われていた。
(一人は、嫌、か……)
その言葉にルナルは、特務執行官になる前の遥か昔の出来事を思い返していた。
「にいさまぁ、行っちゃやだよぉ……」
涙声になりながら、ルナルは同じ言葉を繰り返していた。
小雨が降りしきる孤児院の玄関で、彼女はただ一人の兄である少年を掴み止めていた。
手首を引っ張られ、困惑の色を浮かべた少年――在りし日のソルドは、妹に対して真摯に語り掛ける。
「ルナル、だいじょうぶだよ。少し院長様の手伝いをしてくるだけだ。すぐに戻ってくるから」
「やだ……一人はやだ! にいさまと一緒がいい!」
両親を失い孤児となった二人は、アルファのとある孤児院で世話になっていた。
当時は潤沢と言えるほどの運営資金を持たなかった小さな施設だったため、孤児の中である程度の年齢に達した者は、外部へ短期労働に出ることが多かった。
もちろん強制でなく志願制であったものの、元から義理に厚い性格をしていたソルドは十歳の頃から望んで働きに出ていた。
ただ、ルナルはまだそこまで分別のある年齢でなかったため、兄が出ていこうとするたびに彼を引き留めていたのである。
「一人ってことはないさ。みんながいるだろ? 良い子だから、待っててくれ……」
「やだやだやだ! にいさまと一緒がいいの! 一人はいやなのぉ……!」
「ほらほらルナルちゃん、お兄さんを困らせてはいけませんよ。だいじょうぶ、みんなと遊んでいれば、すぐにお兄さんも帰ってきますからね」
駄々をこねて泣きじゃくるルナルと、その頭を撫でて慰めるソルド。そんな彼らを見かねて助け舟を出す当時の孤児院のスタッフたち――何度も繰り返された光景だった。
幼い頃とはいえ、今にして思えば自分もずいぶんワガママなことを言っていたと思う。
こうして思い返すだけでも、顔から火が出るような気恥ずかしさを覚えてしまう。
ただ、同時に同じような境遇にある人間の気持ちは痛いほど理解できた。
(思えばアイダスと彼女も、たった二人きりの兄妹なのね。兄様と私のように……)
ミュスカのほうに改めて向き直り、ルナルは目を細めた。
彼女のことは詳しく知らないものの、切ない言葉の奥にある思いには強く共感していた。
「ん……なに……?」
やがて気が付いたのか、ミュスカがゆっくりと目を開く。
一瞬、目をぱちくりさせたあと、すぐに驚いたように少女は跳ね起きた。
「え!? あ、あんたさっきの……!」
「気が付いたのね。勝手にあがってごめんなさい。とにかく今は落ち着いて。なにも危害を加えたりしない」
「でも! さっき……あいつが……! あいつはどこ!?」
語りかけたルナルを無視し、彼女は視線を巡らせる。
先ほどの状況を考えると無理もない反応だと思う。
しかし、ルナルはあくまでも落ち着いた様子で返した。
「兄様なら、少し用があって出かけたわ。今は私とあなただけよ……」
「だってあいつ、お兄ちゃんを殺すって……!」
「殺す? 兄様がそんなことをするはずがないわ。あなたの聞き間違い……いろいろあったから動揺して、気が高ぶっていたんでしょう?」
実際にあったやり取りを気のせいという話にして、ルナルは少女の追及をかわした。
もちろん、その言葉だけでミュスカを納得させることは難しいだろう。
ゆえに、ソルドがした行動に対する謝罪も忘れなかった。
「ただ、手荒な真似をしてしまったのは、ごめんなさい。本当はちゃんと説明できれば良かったんだけど、兄様は口下手だから……私はあなたが気が付くまで、面倒を見て欲しいって言われてここに残ったの。同じ女の子同士なら、あなたも不安になりにくいからって……いろいろ困った兄様だわ」
「……にい、さま? あいつ、あんたの兄貴ってこと……?」
「そうよ。この世でたった一人の兄様……大切な兄様よ……」
ずり落ちた毛布を畳みながら、彼女は柔らかな笑みを浮かべる。
無条件に人を安心させる――そんな微笑みだった。
その表情を見たミュスカは、やや落ち着きを取り戻したように、ソファに座り直した。
「あなたも、お兄さんが大好きなのね?」
「べ、別に! 誰があんな薄情な兄貴……!」
「嘘が下手ね。うわ言で言ってたわよ。一人にしないでって……」
照明をつけたあと、少女の隣に並んで座り、ルナルはつぶやくように続けた。
両親を失い、二人で生きてきたという点で、自分たちは同じなのだと。一人にされるのは、寂しくて当たり前なのだと。
その言葉を俯いて聞いていたミュスカは、やがてぽつりぽつりと本音を吐露し始めた。
「……わかってる。わかってたんだ……本当はお兄ちゃんが、あたしのために頑張っているって……」
そこには意地を張った彼女の姿は見られない。
代わりに現れたのは、不安と寂しさが入り混じった年頃の少女の表情だった。
「学会を追放されて……お金が無くて困ってたところに、アマンドなんとかって会社から誘いがあったの。もちろん、最初は疑ってたみたい。でも、高額な年俸を払うって言われて、喜んで引き受けた。これでまともな暮らしができる。あたしを、学校に行かせてあげられるって言って……」
その言葉に、ルナルは納得する。
アイダスがアマンド・バイオテックに手を貸した理由は、単純なことだった。
もちろん研究を続けたいという思いや会社側の思惑はあったろうが、彼としては当面の生活基盤を作ることのほうが、なによりも重要だったのである。
「でも、その代わり……お兄ちゃんはカンヅメ状態。月に一度だって帰ってこない日もあった。あたしは一人ぼっちで、ここに残されて……ホントは……もっと……!」
ミュスカの声は、すでに涙声になっていた。
言葉にすることで、抑え込んでいた感情があらわになったのだろう。
ルナルは、そんな彼女の震える肩に手を載せた。
「あなたのお兄さんも、思いは同じはずよ。きっと、あなたのことが心配で……」
自分の現身のような少女を見つめ、優しく言葉を紡ぎかけたその時だった。
静かな雰囲気を打ち破る大声が、その場に響き渡る。
「ただいま! 戻ったぞ……帰ったぞ! ミュスカ! ミュスカァ!」
瞬間的に、ミュスカの身体が跳ねる。
慌てて立ち上がった彼女は、リビングのドアを押し開けた。
「お兄ちゃん!?」
「ミュスカ!」
玄関先に立っていた男が、笑顔を向ける。
薄汚れた白衣に身を包み、息を切らせた彼は、ミュスカのよく知る兄の姿だった。
ミュスカは歩み寄ろうとするも、その手をルナルが掴み止める。
「待って! 近づいてはいけない!!」
「え? なんで……!」
「止まりなさい! アイダス=キルト! 彼女には触れさせない!!」
ミュスカを強引に引き戻し、ルナルはアイダスの前に立った。
その表情は先ほどまでと打って変わり、鋭く厳しいものになっている。
「お前ハ……お前は、サッキノ……! なぜお前がココにぃ……俺とミュスカの邪魔をスルなあぁぁ!!」
驚いたアイダスであったが、すぐにその瞳が歪な赤色に染まった。
狂ったような声をあげ、彼はルナルへと掴みかかる。
「くっ……この……!」
鋭い爪を伸ばした両手首を抑え、ルナルは歯噛みした。
今の状況では、迂闊にアイダスを攻撃できない。
なんとしても遠くへ引き離す必要があったが、目の前の男は想像以上の力を有していた。
その腕の色が鮮やかな緑色になっていることからすると、アイダス自身がSPSを取り込んでいることは間違いない。
押し返すべく、彼女が体勢を整えようとしたその時、背後からミュスカが駆け寄ってきた。
「待って! ねぇ、やめてよ!! お兄ちゃん!! どうしたの!? なんでこんなこと……!!」
「来てはダメよ!! 来てはいけない!!」
「ミュスカ……ミュスカぁ……へ、うへへへへへへ……ウ、ハハハハハハァァ! みゅすかぁぁぁ!!」
三者三様の声が重なり合った次の瞬間、ぶしゃあという耳障りな音が響く。
そして飛び散った赤いものが、辺りの壁を染めた。




