(1)苦境からの始まり
世界を統治していた秩序は、緩やかに崩壊を始める。
軌道エレベーターの占拠という反政府組織が投じた一石は、大局的に見れば大きな波紋と言えなかったものの、それまで不満を抱えていた人々の決起を促すには充分なものであった。
それは、絶対的とも言えた新太陽系政府、そしてCKOの支配が砂上の楼閣であったことが明らかになったためである。
『……我らはそんな旧態依然とした支配を、理想をもって打ち砕く!! そして闇に煌めいていた【宵の明星】は、栄光の輝きを得て【明けの明星】となるのだ!!』
反政府組織【宵の明星】がネットを通じて出した声明を見終え、数十名の人間が苦い表情を浮かべていた。
イプシロンの中枢に位置するCKO本部では、緊急の機関長会議が行われていた。
「今回のバビロン陥落は、由々しき事態だ」
四角く作られた会議テーブルの上座で、統括司令のアルベルト=グラングはいつになく重苦しい声で言う。
その顔には、疲労の色も濃く覗いている。
「……それで、奴らはなにを要求してきている?」
「現行政府の退陣。更にはCKOの解体……どれも応じることのできないものですな」
「バカバカしい!! 政府のやることに声を荒げるしか能のない奴らが、随分大きく出たものだ!!」
「……ですが、我々の置かれた状況は良くありません」
列席の者たちが声を荒げる中、静かに答えたのは眼鏡をかけた壮年の男だ。
情報統制局のトップである男は居並ぶ人間たちに鋭い眼光を放つ。
「バビロンが機能しないままでは、火星の物流は五割方ストップする。そうなれば人々の生活は逼迫します。それにあそこには、人質となった多くの民間人もいる。【宵の明星】も無闇に危害を加える真似はしないでしょうが、このまま放置することも世間の反感を買うでしょう」
「そんなことは、言われなくともわかっている!」
「すでにその弊害は出始めています。クリフォードの一件から、政府の支持率は三十パーセントまでに低下しました。アルファやベータなどのレジデンスでは、デモや抗議活動が活発化している……」
男は中空に浮かんだスクリーンに映像やデータを映し出しながら、淡々と続ける。
明確な根拠を基に論を展開する彼の言葉に、ただ感情的になっているだけの人間は推し黙るしかない。
「要求を呑む呑まないの話ではなく、現体制は崩壊に向かいつつあるのです。これを防ぐためにも、バビロンは取り戻さなければなりません」
「だが、どうする? あそこには政府要人襲撃やクリフォード陥落に関わったSPS強化兵とやらがいるのだろう? 奴らに対抗できる手段があるのか?」
「野外なら物量で押すという手もありますが、軌道エレベーター内部のことですからな。それでなくとも、迂闊な軍事行動は起こせない場所だ」
治安維持軍の将校と思しき人物が、憮然と言う。
軌道エレベーターは様々な事故に備えた対策こそ練られているものの、極めて繊細な建造物だ。倒壊による被害を防ぐため、爆発武器や危険物の持ち込みは固く禁止されている。
反政府組織が身体能力に優れたSPS強化兵を主体に制圧作戦を展開したのも、それが理由だった。
「少数精鋭で、なおかつSPS強化兵に対抗できる者……我々の手駒でそれが可能なのは……」
「特務執行官だけでしょう」
そこで口を挟んだのは、黒髪に口ヒゲを湛えた壮年の男だった。
特務機関オリンポスの司令――ライザスである。
「SPS強化兵は、世界最高水準の兵士です。現状で彼らの能力を上回るのは、対カオスレイダー用に調整された特務執行官しかいない」
「しかし、特務司令殿……今回オリンポスの関与があったにも関わらず、バビロンは奪い取られたのですぞ?」
「確かに突発的なカオスレイダー出現もあったとはいえ、それは我々の落ち度です。現場指揮権を移譲しなければ別の対応はできたかも知れません……」
ただ粛々と、彼は言う。
部下の犯した過ちを受け止め、次の手立てを考える。
過去を責めることで得られる未来などないことを、彼は良く知っている。
「ですが、このまま時を重ねても状況は悪化するだけです。迅速な行動を起こすとなれば、特務執行官に頼るしかない。今回の汚名を返上するためにも、ここは我々に任せて頂きたい」
「……勝算はあるのか?」
「勝算があるかないかではありません……やり遂げるだけです」
不安や疑念を煽る言葉も、ライザスは意に介さない。
常に厳しく、苦悩を強いられる戦いを繰り広げてきたオリンポスに必要なものは、ただ強い意思のみであった。
地球のフジ島にあるアジトで、ソルドたちは【宵の明星】の声明を見ていた。
誰もがしばし無言でそれを視聴していたが、やがて椅子から立ち上がったソルドが聞くに堪えないとばかりに映像を切る。
静寂の訪れた室内で、彼は拳を震わせた。
「まさか、このようなことになるなんて思いもしませんでしたね……」
アーシェリーが視線を落としつつ、つぶやく。
不本意な現実を突き付けられたその表情は、やはり暗いものだ。
「……私の責任だ。あの時、ダージリンを見逃がすような真似をしなければ、こうはならなかった」
「ソルド、それは違います。【ヘカテイア】に、カオスレイダー。更には新しい【統括者】の出現……あの状況で強化兵を追撃することは困難だったでしょう」
「そうですよ。それはシュメイスさんも認めていたことです」
苦悩を滲ませる青年を励ます彼女に、【アトロポス】が続けて言った。
元電脳人格の少女としても今回の出来事は、想定外の事態の連続と考えていた。
【ムネモシュネ】が立ち去ったあと、ソルドたちは新種カオスレイダーの掃討に向かった。
特務執行官が三名いたこともあって戦闘自体は速やかに終わったが、その場にガーディナル・アーミーの遺体が多数転がっていたことで、CKOの手勢が全滅したことを知った。
暗がりの中で次に彼らが気付いたのは、バビロン基幹部に多数の武装した人間たちが踏み込んできたことだ。それは管理局制圧成功の知らせを受けてやってきた反政府組織の占拠部隊だった。
普通の人間相手に力を振るうわけにもいかず、メインコントロールを奪われたことでエレベーター内の民間人も人質に取られてしまった。文字通りなす術を失ったソルドたちは、渋々バビロンから脱出するしかなかったのである。
「……結局、私たちはなにもできなかったのか。本来の目的であったルナルを救うことさえも……」
「ソルド……教えて下さい。あの時、なにがあったのかを……」
人を超えた力を持ちつつも、結果の得られぬ戦いだった。
そんなやり切れない思いを抱える中、ソルドは共有を先延ばしにしていたルナルとの会話内容を語り始める。
それを黙って聞いていたアーシェリーたちの表情は、やがて驚きへと変わっていった。
「【レア】は言っていた。ルナル復活のための条件……その中で最も困難なのは、あいつが私たちの言葉に応えるのかどうかだと……」
青年の声は、震えていた。
【レア】から聞いた時にはまったく意味がわからなかったが、今はそれが痛いほどに理解できる。
「ルナルは、罪の意識に囚われていた。自分がいなければ、こんな悲劇は起きなかったと考えていた……」
闇の中で聞いた愛妹の言葉が、思い出される。
【ヘカテイア】と自分は同一人物であり、その罪は自分の罪なのだと――そして、そのあとに続いた言葉がルナルの決意を物語っていた。
「……あいつは【ヘカテイア】と共に消える気でいる。【虚無の深闇】がもたらす滅びの未来を知った上で、甘んじてそれを受け入れるつもりなんだ」
「そんな! それじゃ……!?」
「今のままじゃ、どれだけ呼び掛けてもルナルさんは蘇らないと……!?」
叫ぶように放たれた女たちの声に、ソルドは頷く。
ルナル自身に復活の意思がない以上、こちらの行動はすべて徒労に終わるだけなのだ。
「なんとかならないんですか!?」
「……私にはどうすることもできない。再度呼び掛けたとしても、同じ結果になるのは目に見えている……」
【アトロポス】の悲痛な訴えにも、否定の言葉しか出てこなかった。
ルナルと最も近しかっただけに、彼女が簡単に心変わりしない性格であることは良く知っていたからである。
『……それで、お前はあきらめるのか?』
いたたまれない空気が満ちる中、その場に響き渡ったのは通信システムから放たれた声だった。
次いでモニターが勝手に起動し、そこに一人の男の姿が映し出される。
「シュメイスさん!」
それはかつての特務執行官仲間であり、先日別れたばかりの金髪の青年であった――。




