(23)ふたつの黒き月
夜の風に炎が揺れる。
闇に一人立つ男はむせるほどの煙の中、空に舞っていく緑がかった塵を見つめていた。
「とりあえず片付いたか……しかし、面倒な相手ではあるな」
その男――特務執行官【ヘルメス】ことシュメイスは、嘆息気味につぶやいた。
襲撃者たちの残したSPS細胞の怪物をまとめて相手取った彼だが、その後数分ほどで殲滅を完了していた。
(SSSの強化兵もそうだが、こんなものが次々と実戦投入されたらCKOの既存戦力では歯が立たなくなる。早急に対策を考えないと、世界が終わりかねないな……)
表情を歪め、シュメイスは思う。
一人の天才が作り上げた細胞から生まれし生体兵器たち――その存在は現実の脅威となりつつある。
混沌の軍勢との戦いも滞る中、悪化していく状況に彼は並々ならぬ危機感を抱いていた。
「急ぐか。あまりボーッとしてもいられないからな」
目先の脅威は片付いたものの、任務が終わったわけではない。
彼が踵を返すと共に、その姿は風となってその場から消え失せていた。
同じ頃、商業エリアで殺戮を繰り広げていた緑の異形たちは、アーシェリーによって駆逐されていた。
「終わりましたか。しかし、この敵はいったい……?」
跡形もなく消え去った敵を思いながら、彼女はつぶやく。
戦いの中で相手がSPS細胞を有していたことは確認できたが、それ以外は不明な点が多過ぎた。
(カオスレイダーとは違う……何者かが意図的に造り出したと見るのが妥当ですが……)
「アーシェリーさん!」
そこへ姿を見せたのは、避難誘導に当たっていた【アトロポス】である。
彼女の表情は、まだどこか緊張感に満ちていた。
「どうかしたのですか? アトロ?」
「はい。この奥で徐々にCW値の反応が高まってます! あともうひとつ、強いエネルギーを感じます。恐らくこれは【ヘカテイア】……!」
「なんですって!?」
すかさずスキャニングモードを起動したアーシェリーは、その言葉が真実であると知る。
直線距離にして数百メートル先に、その反応はあった。
「急ぎましょう。ソルドが心配です」
「はい!」
先行しているソルドなら、恐らく先に気付いて遭遇するはずだ。
不安と焦燥を胸に、二人はその場を駆け出した。
「なかなかやるじゃない。ポンコツの割にはね……」
強化兵との戦いを繰り広げていた【ヘカテイア】は、わずかに感心したようにつぶやいた。
超然とたたずむ彼女の目の前には、油断なく立つ三人の男女の姿がある。
ただ、彼らの全身は無傷でもなく、スーツのあちらこちらが切り裂かれ、再生中の肌が覗いている。
(恐るべき相手だ。パワーとスピード、判断力……どれを取ってもあのソルドという男以上だ。これではニルギリがやられたのも当然か……!)
仮面の下で冷や汗を流しつつ、アールグレイは思う。
生前リンゲルだった頃からの戦歴と照らし合わせても、ここまでの苦戦を強いられたことはなかった。まして人を超えたSPS強化兵三人がかりでも、相手に傷ひとつ負わせられないのだ。
それは彼にとって、驚愕とも呼べる現実だった。
(ここで消耗しては、とても作戦の第二フェーズなど遂行できん。だが、今、背を向けることは……)
「謎のエネルギー反応を検知……」
「……なに!?」
様々な思いを巡らせるアールグレイの耳に、無機質な声が届く。
傍らに立つ同胞の視線を追った彼は、のたうち回っていた一人の人間が徐々に変貌していく様子を捉えた。
警備服を着たその男は全身から棘のようなものを生やし、肌が甲殻類のように硬質化していく。
「どうやら目覚めそうね。そろそろお遊びはおしまいにしましょう。私も、あなたたちの仕事を邪魔するつもりはないの」
「なに!?」
「バビロン管理局の制圧が、あなたたちの目的でしょう?」
「!? なぜ、それを……!」
【ヘカテイア】の言葉に更なる驚愕を見せるアールグレイだが、その意味を問い質すより先に、凄まじい咆哮が轟いた。
「グアアアアァアアァァァオオォォォッッ!!」
「この化け物は……まさか……!?」
警備員の男が、異形の怪物へと姿を変えていた。
仮面に内蔵された解析装置を作動し、視界の脇に表示されたデータを見ながら、アールグレイは歯噛みする。
(このエネルギー反応は、博士が研究しているという怪物か! 特務執行官の敵と呼ばれている……だとすれば、我々に勝ち目はない……!)
異形の敵カオスレイダー――目にしたのは初めてだが、その概要はガイモンから聞いていた。
強化兵でも力及ばぬ相手ではないが、特殊なエネルギーフィールドにより、あらゆる攻撃を無効化する能力を持つと。その能力に対抗できるのは、やはり特務執行官の持つ特殊なエネルギーより他にないのだと。
黒き女との戦いで少なからず消耗している今、逡巡している暇はなかった。
アールグレイは、すかさず命令を下す。
「ディンブラ、キームン……どうやら道草を食っている暇はなくなったようだ。先を急ぐぞ」
「了解」
二人の強化兵は、特に反論することもしなかった。
合図と共に駆け出す同胞を確認した彼の耳に、【ヘカテイア】の声が届く。
「……賢明な判断ね。さすがと言っておくわ」
「【ヘカテイア】と言ったか……この借りはいずれ返すぞ」
溢れ出る苦々しさを隠そうともせず、アールグレイは去り際に言い放った。
管理局エリアに突入したソルドは、数分もしない内に目的の場所へ辿り着こうとしていた。
破壊の轟音が響く中、漂ってくる粉塵の多さに顔をしかめる彼は、暴れ回る化け物を見つめる黒き女の姿を認めた。
「【ヘカテイア】ッッ!!」
「あら? こんなところで会うなんて……久しぶりね。ソルド=レイフォース……」
【ヘカテイア】は、そこでソルドのほうへと向き直る。
さも意外そうな声であったが、その表情に驚いた様子はない。むしろ恋人の来訪を待ち望んでいたかのような笑みが浮かんでいる。
対するソルドの顔には、強い緊張感がみなぎっていた。
(フィアネスの言った通りか……千載一遇のチャンスだが、しかし……!)
カオスレイダーの姿を遠目に見ながら、彼は次の行動を迷っていた。
このまま混沌の化け物を放置すれば、被害は拡大するばかりである。しかし、【ヘカテイア】――ルナルへの呼び掛けをするなら、今を置いて他になかった。
「ふ~ん……雰囲気が変わってるわね。いいわ。久しぶりに遊んで……」
「待ちなさい。ソルドッッ!!」
かつての使命と今の目的とに心がかき乱される中、同時に同じ声が彼の耳に届く。
驚いて振り返ったソルドの目に、黒髪の強化兵の姿が映った。
「お前は……!?」
「お前は……誰!?」
そして驚きをあらわにしたのは、彼だけではなかった。
【ヘカテイア】とダージリン――肌の色こそ違うものの、まったく同じ容姿を持った二人の女は、互いに目を合わせつつ、驚愕の表情を宿す。
「ううぅっ……これは……この嫌な感じ……! お前はっっ!!!」
しばし凍り付いたような空間で、次に動きを見せたのは【ヘカテイア】だった。
突如、頭を押さえて苦しむような声を上げた彼女は、次いでその瞳に殺意を宿す。
ぎりりと歯を食いしばって大きく跳躍し、顕現した大鎌をダージリンへと振り下ろす。
「うぐっ!?」
「ダージリン!」
とっさに飛び退るものの、切り裂かれた空気が真空の刃となって強化兵の身を抉った。
SPS細胞がすぐに再生を開始したが、それを許さぬと言わんばかりに【ヘカテイア】は追撃を叩き込もうとする。
「私の姿をした女!! お前の存在は不快だわ!! 殺す……殺してあげるっっ!!」
かつてアルファでソルドに見せたような憎悪を剥き出しにし、黒き女は大鎌を振るう。
いかに体術に優れたダージリンでも、特務執行官を超える能力を持った【ヘカテイア】相手では分が悪過ぎた。
戦闘用ボディスーツがズタズタに切り裂かれ、その身から鮮血が飛び散る。
「よせっ!【ヘカテイア】ッッ!!」
ソルドはすかさず、二人の間へと割って入る。
ダージリンを庇うように立った彼は、牙のように振り下ろされた漆黒の刃を白羽取りで受け止めた。
かまいたちが肌を裂き、巻き起こった衝撃波に床が円形に陥没する。
「邪魔をする気!? ソルド=レイフォース!!」
「ダージリン……退け! お前では【ヘカテイア】に勝てない! ここは私が抑える!」
「ソルド……!?」
「行けっっ!!」
誰もがその時、自分自身の心を理解できなかったに違いない。
しかし、次に取るべき行動は、はっきりしていた。
叫びを受けたダージリンは飛ぶように駆け出し、残されたソルドと【ヘカテイア】は距離を離して対峙する。
「……そう。そんなに私のやることを否定するのね! ソルド=レイフォース……いまいましい男!!」
「【ヘカテイア】……いや、ルナル! もうこんなことはやめろ!! 私たちの元に戻ってこい!!」
澱んだ空気が震える中、光と闇を宿した兄妹の叫びが、こだました。




