(12)悪意との邂逅
市街地G地区の路上では、地獄絵図が展開されていた。
建物の窓は割れ、あちこちで街灯などに衝突した車が炎を上げている。
人々が叫び声をあげて逃げ惑う中、保安局の警官たちが各所で発砲している。
しかし、彼らが相手にしているものは、銃弾などものともしていない様子だった。
「なっ!なんだ! こいつらは……! うわああぁぁあぁぁ!!」
警官たちの声が絶叫に変わった時、一人の首が無残にも飛んでいた。
音を立てて転がったそれを見て、狂乱の声が激しくなる。
その惨劇を生み出した主たちは、暗緑色の肌をした人間である。
いや、元は人間であったというべきか。瞳から光は消え失せ、涎を垂らしながら本能の赴くままに動くものを襲っていた。
「なかなかの性能だね。不完全な状態にしてはさ……」
そんなゾンビたちの生み出す惨劇を、高速道路の高架橋上から眺めている影がある。
全身に黒い霧を纏ったかのようなその者は、唯一黄金に輝く瞳を巡らせてほくそ笑んだようにつぶやいた。
「ま、そうは言っても、これだと意味はないんだな。そろそろやってきて欲しいものだけど……」
そこまで言って、影は瞳の光を細める。
真紅の輝きを身に纏い、ゾンビたちの前に現れた男がいたからだ。
言わずと知れたソルドであり、その表情は遠目から見ても怒りに燃えているようだった。
「お、来たね。特務執行官……でも一人か。青い彼女のほうは、お留守番かな? できればまとめて来て欲しかったけど、しょうがない。どのみちアイダス=キルトの覚醒は防げないけどね……フフフ……」
影は愉快そうに身体を揺らすと、文字通り高みの見物を決め込んだ。
眼下では、ソルドとゾンビたちの戦闘が始まっている。その様子は高所から見ても、常人離れした行動と攻撃の連続だった。
とはいえ、戦闘と呼べるほどに実力が拮抗するわけではなかった。
ゾンビたちは確かに人間相手には強いものの、特務執行官を相手取るには力不足だった。
まして、頼みの綱の再生能力もそれほど役に立っていない。ソルドの扱う炎には相性が悪いとしか言えず、彼らはあっけなく消し炭になっていく。
ものの十分もしない内にゾンビたちは殲滅され、あとに動く者はソルド一人となった。
「おやおや、思ったよりも持たなかったね。ま、時間稼ぎとしては充分かな? じゃあ、少し挨拶でもしておこうか」
静けさの戻った赤い闇の中、見物を終えた人影はゆらりと動き、橋下の道路に向けて飛び降りた。
ゾンビたちを殲滅したソルドは、辺りに広がる惨状を見つめながら小さく息をつく。
この場にいた人間たちは皆、事故や破壊に巻き込まれたか、ゾンビの餌食となって横たわっていた。
後手に回ったとはいえ、正直もう少し早く来ていれば救えた生命はあったかもしれない。
その現実は不幸なことであったが、目撃者がいなかったという意味ではソルドにとって幸いなことでもあった。
(やはり、私が来て正解だったということか)
燃え朽ちたゾンビの残骸に目を移し、彼は思う。
敵の再生能力を知っていたとはいえ、短時間で殲滅できたのはソルドの炎の力によるものが大きい。
相性という意味では、文字通り適任だったと言える。
ルナルなら、もう少し時間を取られていたはずだ。
(だが、肝心のアイダス=キルトの姿がない。これはいったい、どういうことだ?)
今、ソルドにとって一番、気にかかっている点がそこだった。
戦いの中で、アイダスらしき人影をまったく見なかったのである。
覚醒しかかっているとはいえ、彼はまだ人間の姿を留めているはずだ。
しかし、倒した相手の中にも、まして周囲に横たわる人間たちの中にも、それらしき姿はなかった。
(逃げたのか? それとも元からここにいなかったのか? とすると、この騒ぎはなぜ? まさか、陽動だとでも……?)
様々な可能性を考えるものの、納得できる結論は出ない。
そもそも陽動だと考えるのは、不自然である。
ミュスカを狙うのなら、ルナルを振り切ったその足で彼女を襲撃したほうが遥かに早いからだ。
(ただ、そのまま襲撃してくれば、恐らく私が返り討ちにしただろう。ミュスカの傍に私がいたことを、奴は知らない。だとすれば陽動ということはあり得ない。いや、それとも知っていたと? そんなバカなことが……?)
しばし思考の海に沈んでいたソルドだが、近づくサイレンの音に意識を引き戻した。
いずれにせよ、ここにアイダスがいない以上、長居は無用である。
このあと駆け付けた人間たちにあらぬ疑いをかけられたくはないし、ルナルたちのことも気になる。
だが、ソルドが踵を返そうとしたその瞬間、背中になんとも言えない悪寒が走った。
「よくできました。さすがは【アポロン】だね」
「……なに?」
彼が振り向くと、そこに得体の知れない影が立っていた。
ただ、黒い霧のようなものを纏っているせいか、姿をはっきりと認識できない。
唯一、目と思われる部分に輝く金色の光が、異様な雰囲気をかもし出していた。
「誰だ!? 貴様は!?」
誰何の声をあげたソルドは、同時に今までにない感覚を味わっていた。
全身から冷や汗が出るような、ざわついた感覚――恐怖や怯えとまではいかないものの、それに近いものである。
それは特務執行官になってから、久しく感じたことのないものだ。
「さぁ、誰でしょう? まぁ、そんなことを気にしている余裕はないと思うよ。そろそろアイダス=キルト覚醒の時だからね」
「なに! どういうことだ!? 貴様、なにを知って……!」
詰め寄ろうと進みかけたソルドは、なぜか足が思うように動かないことに気付く。
いや、足だけではない。全身が異常に重いのだ。まるで身体そのものが、影のほうに行くことを拒否しているようである。
影はそんな彼の状況を見透かしたように、肩を揺らした。
「フフフ……僕のことより、早く妹さんのところに行ってあげたほうがいいよ? もう手遅れだと思うけどね」
「な、なんだと!?」
「今日はあくまでも挨拶だけさ。いずれまた会う時まで……ごきげんよう。特務執行官【アポロン】」
そう言うと影は高らかな哄笑を残しながら、周囲の風景に溶け込むように消えていった。
「な、消えた!? いったい奴は……!」
相手がいきなり目の前から消失したことに、ソルドは更なる驚きを隠せなかった。
すかさず様々な方法でサーチしてみるが、影の存在も痕跡も見当たらない。
まるで初めから、その場にいなかったかのようだ。
(何者なんだ!? 少なくとも人間ではない。ましてやカオスレイダーでもない。まったく異質ななにか……!)
頬を伝う冷や汗に、ソルドは今の出来事が現実であったことを実感する。
同時に彼は今回のサプライズ・ケースの裏に、明確な意思が介在したことを悟った。
研究施設から出現したカオスレイダー、その施設から逃げ出したアイダス=キルト、そしてSPSという細胞の完成と実用化――すべてが、あの影の思惑通りに動いていたのだとしたら。
焼け付いた風が肌をなぶる中、ソルドは強く拳を握り締めた。
いずれにせよ、自分だけで考えるべき問題ではない。それに今は、熟考しているほどの余裕もなかった。
いよいよ近付いてきたサイレンの音から遠ざかるように走り出しながら、彼はルナルたちの無事を祈った。
(とにかく急がねば……奴の言っていることが本当なら……!)




