(17)動揺を呼ぶ潜入
軌道エレベーター・バビロンを望むビジネスエリアの一角に、そのタワービルはあった。
アマンド・バイオテック――世界でも名だたる超巨大企業の本社ビルは、その存在感も一味違う。これがレイモスという街に存在しなかったならば、観光名所のひとつになってもおかしくはないほどだ。
ソルドたちと別れたアーシェリーは今、そのアマンド・バイオテック本社を訪れていた。
もっとも、真正面から入っても行ける場所は限られている。そこで彼女の取った手段は、ビルを出てきた社員にすり替わって潜入するというものだった。
肩書は失えど、特務執行官としての能力は以前と変わりない。DNA情報があれば、生物学的に他人になり切ることは容易なのだ。かつてルナルが、フェリアにすり替わったのと同じように――。
(潜入に成功したのはいいですが、どうしましょうか……)
茶髪の女性社員に姿を変えたアーシェリーは、次の動きを考えつつ廊下を歩いていた。
人や物資の移動が増えたというのは、あくまでデータ上のものでしかない。その奥に隠された思惑を探り当てる必要があったが、そのためにどう行動すべきか明確にならなかった。
(あまり悠長にもしていられませんけど、気になるデータを片っ端から調べていくしか方法はないですね)
やや視線を落として歩む彼女の横を、幾人もの社員が通り過ぎていく。
その中で一組のカップルらしき社員の話していた内容が、アーシェリーの耳を打った。
「緊急の取締役会って珍しいよな」
「そうね。ここ最近、なにかとバタバタしてたからじゃない? 面倒なことにならなきゃいいけど」
(緊急の……取締役会?)
彼女は少し思案したあと、思い立ったかのごとく早足で歩き出した。
しばらくして、アーシェリーの姿は一台のエレベーターの中にあった。
ビルの高さ自体が百階近くに及ぶこともあり、エレベーターの性能も一般的なものとは異なる。
わずか数秒で地上九十階までやってきた彼女は、扉が開くと同時に歩を踏み出そうとする。
「なんだ。お前は? なにをしに来た?」
ただ、そんな彼女の行動はすぐに止められることとなる。
いかつい顔をした警備員たちが、ほぼ目の前に立っていた。
思わず息を呑みつつも、アーシェリーはとぼけたような演技をする。
「あ~……ちょっと階を押し間違えちゃったみたいです」
「ここから先は立入禁止だ。速やかに戻れ」
「はい。すみません……」
肩を縮こまらせるように後退した彼女は、扉を閉じる。
男たちの射るような視線が消えたあと、その口からため息が漏れた。
(警備は厳重。騒ぎを大きくしてもまずいですね。となると、やはり……)
アーシェリーはすかさず、ひとつ下の階のボタンを押す。
わずかな振動もなくエレベーターが下がり、再び扉が開いたところで、彼女はスキャニングモードを起動した。
(二十メートルほど先が、会議室の真下になりますね……)
建物の内部構造を確認しながら、足早に目的の場所に向かう。
そこは壁沿いにいくつか並ぶミーティングルームのひとつだった。幸いなことに今は誰も使用していないようで、室内の照明は落ちている。
辺りの様子を窺いながら中に入ったアーシェリーは、その場で銀の槍を生成する。そして先端を天井に当てて、意識を集中した。
『……作戦実行は明朝の三時だと? ずいぶん早いな』
彼女の頭の中で、声が響く。
正確には天井を通して伝わってきた微細な振動波が、人の声として再生された。
波動感知――それは特務執行官の中でも波動の扱いに長けたアーシェリーのみが可能とする特殊能力であり、応用で壁を隔てた向こう側の音なども解析することが可能となる。
彼女が今、聞いているのは、上の階で行われている緊急取締役会の会議内容であった。
『下準備はすでに整っているとのことですからな。クリフォードの囚人確保も六割がた終わった以上、CKOの混乱もそう続かない。タイミングとしては妥当なところですかな』
『だが、今回の準備に際して我々が支払った代償は大きい。SPS技術の奪還という利もあったとはいえ、この性急な人材や物資の移動は間違いなくCKOに警戒されているはずだ』
『それでも作戦が成功すれば、これまでのパワーバランスは大きく崩れる。現行政府への不満が爆発し、星系各地での反乱を加速させることになりましょう』
『覚悟を決めるべき時が来たということですかな。これまでの日和見主義では乗り切れない局面に差し掛かっていると……』
『しかし、万が一の保険は必要だ。我々が守るべきは、あくまで自社の利益……イデオロギーの対立に巻き込まれて倒れるわけにはいかん……』
ひとしきりの盗聴を終えたアーシェリーは、そこで槍を消し去る。
一筋の汗が額を伝う中、彼女は呆然と壁に背を預けた。
(作戦の実行は明朝三時? それにSPS技術の奪還……!? いったい、それは……)
商業エリアを抜けたソルドたちは、バビロンの管理局エリアとの境に来ていた。
ここまで来ると一般人はあまり歩いておらず、逆に管理局の制服を着た人間たちのほうが目立つ。
境目となる入口には二人の警備員が立っており、周囲を警戒するように複数の警備員が行ったり来たりを繰り返している。
ここまでの平穏さに対し、過剰なまでの警戒ぶりというのがソルドたちの抱いた印象だった。
「凄く物々しいですね……」
「ああ……思った以上に警備員の数が多いな」
「ここって、普段からこんなに警戒厳重なんですか?」
「いや、恐らく違うだろう。理由はわからないが、特別な警戒体制を敷いている可能性が高い」
数十メートルほど離れた物陰に身を潜めつつ、二人は思案する。
「この状況だと、気付かれずに入るのは不可能だな。かといって強行突破するわけにもいかないが……」
「……なにをしに来たのかと思えば、潜入でもしようというわけ?」
「誰だ!?」
いきなり掛けられた声に、ソルドはハッとして視線を向ける。
そこには、ビジネススーツに身を包んだ一人の女の姿があった。
サングラスを外しながら、女はクスリと笑む。
「元気そうで、なによりね。ソルド……」
「!? 貴様……まさか、ダージリンか!? なぜ、ここにいる!?」
「それはお互い様ね。あなたこそ、らしくもなくコソコソしてるじゃない」
一瞬、ルナルの姿が頭をよぎったものの、ソルドは女の正体を見抜く。
人工皮膚を上からコーティングしているのか外見は普通の人間と変わらなかったが、光の加減で緑がかって見える瞬間があったからである。
「ソルドさん、この人って例の……」
「そうだ。SPS強化兵のダージリン……そして、ルナルの元となった女だ……」
【アトロポス】を庇うように進み出たソルドは、油断なく女の顔を見る。
オリンポスを離れたとはいえ、ダージリンが敵という認識はいまだ変わってはいなかった。
「どういうつもりだ? まさか、ここでやり合うつもりなのか?」
「私としても本当はそうしたいけど、今は無理ね。やることがあるもの。でも、あなたが望むなら、あの中へ案内してあげても良いわよ?」
「なに……? どういうことだ?」
「ついてくれば、わかるわ」
しかし、剣呑な空気が流れたのは一時だけであった。
意外な提案を持ち掛けつつ、ダージリンは管理区画の入口に向かって歩き出す。
顔を見合わせつつ逡巡したソルドたちだが、すぐに彼女のあとを追った。
「お疲れ様。スロータス・セキュリティ・サービスのルーナよ。通してもらっても良いかしら?」
「これはお疲れ様です。今日はいったいどのようなご用件でしょう?」
歩幅も変えず、巨大なスライドドアの前までやってきたダージリンは、そこに立つ警備員に声を掛けた。
扉脇の男だけでなく他の警備員たちも彼女のことを知っていたのか、特に訝しげな様子を見せることもない。
「警備体制の変更の件で伝え損ねたことがあってね。データを手渡すだけだから、すぐ済むのだけど」
「わかりました。しかし、そちらの二人は?」
「うちの新人二人よ。現場見学といったところね」
むしろ警備員たちの警戒心は、あとから来たソルドたちのほうに向いていた。
見た目や雰囲気的に怪しまれて仕方のない部分はあったが、ダージリンの言葉を疑うつもりもなかったのか、その後すんなりと進入許可は得られた。
「行くわよ。二人共」
視線で促したダージリンは、音を立てて開いた扉の向こうへと足を踏み出す。
あまりにあっけなく事が進んだことに少し呆然としつつ、ソルドたちもあとに続いた。
かくして彼らは目的通り、管理局エリアへの侵入に成功したのである。
「……とりあえず、ここまでは案内してあげたわ。あと、どうするかはあなたたちの勝手」
どこか冷たさを感じさせる通路の真ん中で立ち止まると、ダージリンは振り向いた。
それまで無言で付き従っていたソルドだが、さすがにそこで疑念をあらわにする。
「いったい、どういうつもりだ……? なぜ、私たちに協力した?」
「気まぐれとでも言っておくわ」
睨み付けるような視線を気にした様子もなく、ダージリンはつぶやいた。
その顔は比較的無表情で、真意を読み取ることはできない。
「でも、なにか目的があるなら急いだほうがいいわよ。ここもすぐに慌ただしくなるから……」
「!? どういうことだ!? 貴様、なにを知っている!?」
「あら……大騒ぎすると、怪しまれるわよ。それはあなたの本意じゃないと思うんだけど?」
苛立ち紛れな問いに対しても、彼女の態度は変わらなかった。
元よりこの手の駆け引きは、ダージリンのほうが上手でもある。周囲の人の数も少ないとはいえ、これ以上の追及は騒ぎの元にもなりかねなかった。
「ソルドさん……」
「わかった……今は感謝しておく……っ!?」
【アトロポス】の不安げな視線を受けて歯噛みしたソルドだが、すぐにその唇に温かいものが触れた。
見開かれた彼の目にダージリンの瞼が映り、次いで笑みを浮かべる濡れた口元が映る。
「フフフ……じゃあね。また、会いましょう」
時間が止まってしまったかのような二人を尻目に、彼女は颯爽とその場を立ち去っていくのだった。




