(10)虚無の深闇
ベータの第一宇宙港――そこはジェラルド=バウアー襲撃事件の際に、ソルドとフィアネスが共闘した場所である。
宇宙港自体はかつての様相そのままだが、あの事件が今は遠い昔の出来事のように思える。
広大な滑走路に人知れず立ちながら、ソルドは満天の星空を見上げていた。
SPSを宿した強化兵士、融合カオスレイダー、そして特務執行官の本格的な共闘など、ここから始まった一連の事件は、それまでの戦いの有り様を大きく変えたと思う。【統括者】の本格的な暗躍が始まったのも、あの頃からだろう。
そんなことを思いながら数分ほど時を経ると、目の前に霞が掛かってくる感覚があった。
視線を巡らすと、周囲一面に薄い霧が立ち込め始めている。
「電影幻霧か……」
特に驚くこともなく、ソルドはつぶやいた。
視覚情報や電子機器を撹乱するナノマシンの霧は、彼を呼んだ人物の得意技であり、密会をする上ではこの上なく有用な技能とも言える。
やがて霧の向こうから姿を見せたのは、銀色の髪を持つ少女であった。
「ご無沙汰しておりますわ。ソルド」
その少女――厳密にはソルドよりも年上である元特務執行官のフィアネスは、昔ながらの口調で声を掛けてくる。
その様子にかつてと変わらぬ雰囲気を感じたソルドは、わずかに笑みを浮かべた。
「ああ……元気そうだな。フィアネス」
「あなたも変わりないようで……と言いたいところですけど、相変わらず無茶ばかりしてるようですわね。あまりアーシェリーを心配させてはいけませんわよ」
フィアネスもまた穏やかな笑みを浮かべるが、その言葉に隠された意味を思い、ソルドは苦い顔をする。
「でも、不思議なものですわね。特務執行官として共闘した私たちが、今はお互いオリンポスから離れているなんて……」
「そうだな。私もこんなことになるとは思ってもいなかった……」
夜と霧の闇の中、二人は戻れなくなった過去に思いを馳せる。
ただ、それも一時のことであり、どちらからともなく視線が絡み合ったところで、沈黙は終わりを告げる。
「積もる話もあるが、今は速やかに本題に入ろう。フィアネス……なぜ、君は私を呼び付けた?」
「あなたに、どうしても伝えなくてはならないことがありましたの」
「どうしても伝えなくてはならないこと?」
訝しむソルドに対し、真顔に戻ったフィアネスは言葉を続ける。
「はい。【ヘカテイア】……ルナルたちに関することですわ……」
そして彼女は以前、ウェルザーから伝えられたという話の内容を語り始めた――。
新たな始まりとなった火星極冠の地で、ウェルザーは【レア】と向かい合った。
それは今後、行動を共にするに当たり、いまだ不明となっている様々な事実を明らかにする目的があった。
「【ヘカテイア】たちの力のことを知りたいと?」
「ええ。あの二人の持つ力……その正体を知りたいのです」
張り詰めた空気の中、白き双眸が黒髪の男を見据える。
そこに温かみこそなかったものの、口調自体はかつての穏やかなものであった。
「そうでしょうね。【虚無の深闇】のことは、あなたたちにとって、最も気になっていたことでしょう……」
「【虚無の深闇】?」
「あなたたちがコスモスティアと名付けた【秩序の光】……その対極に位置する力です」
「対極……? それは混沌の力ということですか?」
「いいえ、違います。【虚無の深闇】は、混沌よりも深い闇の力……いわば破滅の力です」
「破滅の力!?」
秩序の対極という言葉にウェルザーはすぐ反応したが、返ってきた返答は想定外のものであった。
表情を変えた男に対し、【レア】はその手を眼前に掲げた。
闇を思わせる手の上に、白黒の渦のようなものが生まれる。
「そもそも混沌とは、光も闇も渾然一体となったもの……基本的には、無秩序な感情のエネルギーを力とする……」
次いで渦の中から白い球体が飛び出し、存在を誇示するように強く輝いた。
「【秩序の光】は、そこから力強き意思の輝きをもって生まれた存在……慈愛、絆、信頼といった思いを力とする」
それは今、語っている説明をわかりやすく視覚化したものであるようだ。
そして次に渦の中から生まれたのは、漆黒の闇そのものと言える球体だった。
「そして【虚無の深闇】は、圧倒的な絶望や憎悪を力に変える……この世のすべてを憎み、消し去りたいと願う黒き意思の力です」
渦を挟むように位置する白と黒の球体――それが三つの力の位置関係を示していた。
こう見ると確かにすべてが対極にあると言えたが、黒き球体はどちらかというと渦に近い位置にもある。
「人は負の感情に支配されやすい生物です。ゆえに虚無と混沌は力の性質が似通っている」
【エリス】たちが、カオスレイダーを覚醒させられる理由――それは、負の感情を過剰に高めることで行えるものなのだと続けたのち、【レア】は渦と球体とを消し去った。
「しかし、世の破滅を願う虚無の力は、混沌を上回る強い力でもある。あなたたちも知るように、【統括者】たちすら圧倒できるほど……」
混沌との親和性を持ちつつも、それを上回るという虚無の力の存在に、ウェルザーは表情を険しくする。
性質こそ反対ではあれど、それほどの力があったのなら、もっと早くに投入できたはずだ。
同時に、その存在を今まで伏せていた【レア】への不信感をもあらわにした。
「だが、あなたは以前、そのような力のことは語らなかった! なぜです!?」
「理由は簡単です。【虚無の深闇】は、破滅の力……その力を扱う資格は、圧倒的な絶望と憎悪に支配された者であり、過去の戦いではそもそも資格者が存在しなかった……」
憤りと共に放たれた声に対し、【レア】はあくまで落ち着いた様子で返答した。
異星において混沌に立ち向かった秩序の戦士たちは皆、世界を救うべく行動していた者たちであり、そこに世を呪う者はいなかったのだと――。
ただ、その説明だけでは納得できなかったウェルザーも、続けられた言葉には目を見開かざるを得なかった。
「なにより強い力の代償として、【虚無の深闇】は資格者のすべてを喰らい尽くすのです。すなわち……」
「すなわち……?」
「あの二人はやがて自我を失い、滅びへの道を辿るでしょう」
「それは本当なのか!? フィアネス!!」
話を遮り、ソルドは思わず叫んでいた。
その反応をわかっていたというように、フィアネスは嘆息する。
「嘘をついても始まりませんわ。もっとも【レア】の言葉がどこまで真実かわかりませんけど……」
「では、このままでは……やはりルナルは消えてしまうと!?」
資格者のすべてを喰らい尽くすという今の話からすると、【ヘカテイア】の生命もそう長くないということになる。
それはすなわち、ルナルも共に滅びるということを意味する。
「確かにそうなりますわね。ですが、ソルド……あなたは【レア】から聞いたのでしょう? ルナルを救い出す方法を……」
「ああ」
射るような視線が、青年を捉える。
どこか諭すように放たれたフィアネスの言葉に、ソルドは改めて呼吸を整えた。
徐々に昂っていた感情が収まり、冷静さが戻ってくる。
「……ルナルの意識は【虚無の深闇】の奥底に封じられている。そしてあいつを救うためには、復活を望む者たちと共に呼び掛けることが必要だと……」
「そして、時間も残されていない……」
「そうだ。ルナルの意識が、【虚無の深闇】に呑まれる前に救い出さなければならない。あれは【ヘカテイア】が滅びる前にという意味だったのか……?」
「その通りとは言えないまでも、間違いではないとも言えますわね」
彼が聞いた話の内容を、フィアネスもまた知っているようだった。
それは別に驚く話ではなかったものの、【レア】の暗躍を知って以降、ずっと気になっていた疑問をソルドはぶつけていた。
「だが、なぜだ? ルナルを【ヘカテイア】に仕立て上げたのは【レア】のはず……にも関わらず、ここに来てあいつを救い出せというのは……」
苦悩と疑念とを顔に滲ませて、彼は言う。
世を呪うほどの絶望と憎悪――その原因が自身にあったとしても【レア】が動かなければ、そもそも【ヘカテイア】は生まれなかったはずなのだ。
自ら手駒を作り上げた上で、その手駒をあえて手放すような真似をする【レア】の真意が見えなかった。
「……その矛盾については、ウェルザー様も指摘したようですわ。ですが、それに対する明確な返答は得られなかった。ただ、そうする必要があったからだと……」
「必要があった?」
「ええ。ルナルが蘇れば、その理由がわかるとも……」
フィアネスの表情にも、また疑念が覗く。
その様子から彼女も内心、納得できてはいないようだった。
闇の中に灯る人工の光が、おぼろげに二人を照らす。
しばしの沈黙ののち、髪を揺らすほどに吹き抜けた風の中で、彼女は再びソルドに訊き返した。
「それでソルド……あなたは、これからどうしますの?」
「……やることは変わらない。正直【レア】に踊らされているという気はするが、あいつを救うための方法がそれだけならば、やるしかないだろう……」
「……わかりましたわ」
苦い表情の青年を見つめつつ、フィアネスは静かに息をつく。
そして今度は決然たる口調で、ひとつの言葉を口にした。
「では、私も協力致しますわ……ルナルを、この世に蘇らせるために……」




