(4)電脳人格の思い
目の前に現れた少女は、黒髪をポニーテールにしていた。
その容姿はソルドたちも良く知っていたが、根本的に異なっていたのは、彼女が現実的な存在感――つまりは実体をもって、そこにいたことだ。
「その姿……君はアトロか?」
皆が呆然とする中で、先に口を開いたのはソルドだ。
それに対し、少女はこくりと頷いてみせる。
「いったい、なぜ……?」
「わたしだけではありません。【クロト】姉さんも、今は実体を持っています」
【アトロポス】と呼ばれていた電脳人格は、次いでこのような姿となった経緯を語る。
原因不明の侵食から彼女たちを守るため、エルシオーネがマテリアルボディを製作していたこと。
そして【モイライ】本体から、人格プログラムのすべてと共有データの一部とを移行したことなどだ。
「そうだったのか。では、君たちは無事だったのだな……」
「ボルトスの言ったことって、そういうことだったのね」
話を聞き終えたソルドたちは、各々納得したように声を漏らす。
【ラケシス】は【モイライ】と運命を共にしてしまったが、あとの二人は肉体を得て生き延びたのだ。それは不幸中の幸いだったと言えよう。
わずかな安堵感が場を包む中、再び話を元に戻したのはアーシェリーだ。
「ところでアトロ……さっきの言葉はどういうことですか?」
「はい……ルナルさんは、とても優しい人でした。エルシオーネ母様はああ言いましたが、わたしはやっぱりルナルさんを疑うことはできないんです……」
つぶやくように答えた【アトロポス】は、次いで訥々と過去にあった出来事を語り始めた。
「あなたが【アトロポス】?」
それは特務執行官となったルナルが、初めて【アトロポス】と顔を合わせた日のことだった。
『はい。皆さんからは、アトロと呼ばれてます』
「そう。確かにそのほうが呼びやすいものね。じゃあ、私もアトロって呼んで良いかしら?」
『はい。もちろんです。わたしもルナルさんと呼んで良いですか?』
「ええ、いいわよ。これからよろしくね。アトロ」
少し緊張気味だった【アトロポス】に対し、ルナルは微笑みながら答える。
青い髪に銀の瞳と一見冷たい印象を抱かせるルナルだが、こうして時折見せる笑顔は子供のように無邪気で、かつ人を安心させる穏やかさに満ちていた。
姉たちや他のオリンポスメンバーとも異なる雰囲気を持つ彼女に、【アトロポス】も自然と笑顔になる。
気が付くと二人は、旧知の仲のように話し込んでしまっていた。
『……ところで、ルナルさんに少し聞きたいことがあるんですが……』
「え? なにかしら? 私に答えられることなら……」
しばらくして、かしこまったような態度を見せた【アトロポス】に、ルナルはわずか首を傾げる。
『ルナルさんって、ソルドさんの妹なんですよね?』
「ええ、そうよ」
『その……兄妹って……実際、どういうものなんですか?』
「……どういうこと?」
予想外の問いに思わず呆気に取られた彼女だが、【アトロポス】の話を聞いていく内に質問の意図を理解したようだ。
「……そういうことね。アトロは兄弟姉妹の定義が知りたいのね?」
『はい。【クロト】姉さんも【ラケシス】姉さんのことも、わたしは好きです。でも、わたしたちは人間と違って血の繋がりはありません。姉さんと呼ぶのもあくまで便宜上のことで……正直、皆さんに対する感情と姉さんたちに対する感情との違いがわからないんです』
それは電脳人格ならではの質問と言えた。
人とほとんど変わらない感情を持つとはいえ、理解できないことはある。【アトロポス】は他者に対して均等とも言える優しさを持つよう作られているため、兄弟や恋人といった特別な関係性を理解し切れていないのだ。
ただ、ルナルもその返答には窮してしまう。
「う~ん……別に血縁のあるなしが兄弟姉妹の定義じゃないし、みんながみんな仲良しってわけでもないわよ?」
『そうなんですか?』
「ええ。人間だって、いろんな兄弟姉妹がいるもの。中には殺し合うほど憎み合う人たちだっているし……簡単に答えは出せない問題よね」
ため息をつきつつ、彼女は言う。
実際、兄弟姉妹の定義に対する答えは人それぞれであり、一様に正しいものを見つけるのは難しい。
少し考える様子を見せた【アトロポス】は、質問の内容を変える。
『じゃあ、ルナルさんとソルドさんは、どうなんですか?』
「私と兄様? そうね……私と兄様との関係は……どこまでも信じられる存在、なのかな」
『どこまでも?』
「そう。兄様はいろいろ私に気を遣うし、時には不満に思うこともあるわ。でもね……」
どこか思いを馳せるように、ルナルはその問いには答えていく。
「兄様は、どこまでも私を信じてくれる。仮に私が悪の道に走ったとしても……きっと見捨てずに、目を覚まさせてくれると思うの」
その言葉を紡ぐ彼女の姿は穏やかでありながら、強い確信に満ち溢れていた。
そっと胸に手を当てて瞑目する聖女のような姿を、【アトロポス】は魅入られたように見つめていた。
「私もね……苦しい時や辛い時、兄様のことを思うだけで自然と心が安らぐの。単なる好き嫌いとかじゃなくて、それ以上……空気のように自然でありながら、なによりも大切な存在……それが私にとっての兄様なのよ」
「ルナルが……そんなことを……」
ひと通りの話を聞き終えたところで、ソルドは呆然とつぶやいた。
同時に彼は、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
今、こうしてなにもできぬ不甲斐なさが情けなく、強く握り締めた拳が震えた。
「ルナルさんが本当に幸せそうに語ったのは、今でも良く覚えてます。わたしにとってのルナルさんは【ヘカテイア】じゃなく、やっぱりあのルナルさんなんです」
そんな彼の様子を見つめながら、【アトロポス】は言う。
彼女の表情も、どこか泣き顔を思わせるものになっていた。
「もちろん【ラケシス】姉さんを失った悲しみは消えないし、エルシオーネ母様の怒りも良くわかります。でも、わたしは……信じる気持ちを忘れたくありません。それを忘れてしまったら、本当になにもかも壊れてしまうような気がするから……」
かつてソルドたちに吐露した心情を、改めて彼女は口にする。
不安のままに叫んでいた以前とは異なり、今は自身の考えをもって言葉を紡いでいる様子だった。
ソルドはゆっくり【アトロポス】に歩み寄ると、その目線を合わせた。
「ありがとう。アトロ……君がそう言ってくれることは、私にとってなによりの救いだ。そして君もまた、ルナルを救うために必要な存在なのかも知れない……」
「わたしが……ルナルさんを?」
「ああ。もし、アトロが望むのなら、私に力を貸して欲しい。ルナルを再び蘇らせるために……」
ルナルの復活を心から望む者――事の真偽はさておき、【レア】が告げた条件を満たす者として、今の【アトロポス】はふさわしい存在に思えた。
電脳人格であっても、愛憎は存在する。長い月日を経て成長した彼女は、己の意思でルナルを信じると決めたのだ。それは憎悪に走った【ラケシス】とは真逆の決断であった。
青年の思いを感じ取った【アトロポス】は、ややあってこくりと頷きを返す。
それを見て、ソルドも口元を緩めた。
「ですが、ソルド……これから、どうするつもりですか? 先ほど司令には釘を刺されたばかりです。たとえ密かに行動したとしても、今度は見逃してもらえないでしょう……」
「それは……」
しかしながら、場の重苦しい空気は晴れない。
ルナルを救うための行動そのものが、離反行為となる――アーシェリーの示した無情な現実に、ソルドは再び黙考するしかない。
そこへ、すぐに別の声が割り込んできた。
「悩む必要などないだろう」
「ボルトス……」
「お前たちは以前、言ったはずだ。必ずルナルを救うとな……」
レストスペースに姿を現した褐色の特務執行官は、かつて交わした話を思い返しつつソルドたちに告げた。
「そして俺も、覚悟を決めると言った。もし、ルナルを救うための行動をオリンポスが咎めようとするなら、生命を懸けてでも止めてみせると……」
「それは、確かに……ですが……」
反論しようとするアーシェリーだが、すぐにそこで息を呑んだ。
なぜなら、ボルトスの目に威圧するかのような強い光が浮かび上がっていたからだ。
「……【モイライ】が破壊されたことで、今後のカオスレイダー掃討は困難さを増すだろう。世界はより混迷の度合いを深めていくはずだ。だが、今までのような強制力がオリンポスになくなったということは、逆にチャンスでもある……」
「チャンス……?」
「そうだ。現状を見てもわかるように、各特務執行官の動向を追うことすら困難になっている。ならば、お前たちが取るべき行動はひとつ……」
そこで彼は一呼吸置いたあと、衝撃の言葉を言い放った。
「オリンポスを……離れるのだ」




