(10)救出と逃走
薄闇に支配された空間で、ミュスカは目を覚ました。
そこは極めて殺風景な部屋である。あちこちに木箱が積まれ、ガラクタが散乱している。
倉庫の一室かなにかだろうか。長いこと換気がなかったのか、妙に埃っぽい空気が辺りに満ちていた。
思わず軽く咳き込んだミュスカは、そこで身体が拘束されていることに気付く。
手を後ろ手に縛られ、足首も縛られた状態で椅子に座らされていた。
「え? なんで? なんであたし、こんなことに……!」
拘束から逃れるようにガタガタと身体を揺らしていると、錆び付いた音を立てて前方のドアが開く。
ライトを手にして入ってきたのは、あの時のオールバックの男だ。
その目は針のように鋭く、ミュスカを見つめている。
「ふむ、気が付きましたか? ミュスカ=キルト」
放たれた声は落ち着いていつつも、どこか威圧的な雰囲気を持っていた。
ミュスカの頬に、冷汗が伝う。荒くれ男たちに囲まれた時とはまた違った恐怖が、少女の心を支配する。
それでも彼女は気力を振り絞り、男に問いかけた。
「あんたは誰!? あ、あたしをどうしようっていうのよ!」
「心配せずとも、危害を加えるつもりはありません。もっとも、あなたが素直に従ってくれればですが……」
男は彼女の前までやってくると、言葉を続けた。
黒のスーツに包まれた体躯は意外と大柄で、それが一層威圧感を高めている。
「さて、単刀直入に聞きます。アイダス=キルトは、今どこにいるのです?」
いきなり兄の名前が出たことに驚いたが、ミュスカはさほど間を置かずに返答する。
「お兄ちゃん? どこって……そんなの知らないわよ!」
「知らない? そんなはずはないでしょう。君は、彼の唯一の肉親だ」
「本当に知らないわよ。アマンドなんとかの研究施設にいるとしか聞いてないもん……!」
「ふむ……連絡も受けていないと? 嘘をつくとタメになりませんが……」
連絡という単語に、ミュスカは一瞬固まる。
携帯端末のメールが頭をよぎったが、あの時は動揺していて、内容をよく確認できていない。
なにより、端末自体をあの場に落としたままだった。
ただ、それを言ったところで目の前の男が信じるとも思えない。
「知らないったら! それよりこれほどいてよ! あたしを帰して!」
「なかなか気丈な娘です。仕方がない……」
なおも抗うミュスカに男は嘆息すると、内ポケットから携帯型のインジェクターを取り出した。
暗がりの中ではよくわからないものの、不透明な液体がその中で揺れている。
「な、なによ……それ……」
「手荒な真似はしたくなかったんですがね。こちらも時間が惜しい。なに、痛みは一瞬です……」
インジェクターを構え、彼はミュスカの首筋に針を当てる。
思わず声をあげようとする彼女の顎を、男の空いた手が抑え込んだ。
(いや……助けて! 誰か!! 誰かぁ!!)
ミュスカの目元に涙が浮かび、ついに針が肌に食い込もうかとしたその瞬間だった。
爆発が起きたような凄まじい轟音をあげて、壁の一部が吹き飛んだ。
近場に積まれていた木箱が崩れ落ち、乾いた音をたてて散乱する。
「な、なんだ!?」
さすがに動揺したのか、オールバックの男はインジェクターを取り落としてしまう。
音のしたほうを見ると、大穴の向こうから一人の男が姿を見せた。
薄闇の中に、黄金の瞳が煌めく。
そこにいたのは、ソルド=レイフォースであった。
「どうやら間に合ったようだな。無事でなによりだ」
「あ、あんた……!!」
涙目のミュスカの表情が、少し明るくなる。
ソルドはそのまま一足飛びに距離を詰め、あっけに取られた男の顔面に痛烈な拳撃を浴びせた。
数メートルほど吹き飛んだ男は、内壁に激突して停止する。
苦痛に顔を歪めながらも、彼は突然現れた侵入者を見つめた。
「ぐ……貴様ぁ! 何者です!!」
「あいにく、名乗るほどの名は持ち合わせていない。この娘は返してもらうぞ」
「おのれ!!」
懐からハンドガンを取り出すオールバックの男。
しかし、ソルドの目に恐怖の色は微塵もない。
「無駄な真似はよせ。そんなもの、私には効かん」
警告の声を待たずに、銃声が轟く。
連続で放たれた弾丸は、ソルドの全身をハチの巣にするはずだった。
しかし、目にもとまらぬ速度で動いた彼の手が、弾をすべて叩き落とす。
乾いた音を立てて、歪んだ金属片が転がった。
「バカな!」
驚愕するオールバックの男にソルドは再び詰め寄ると、そのみぞおちに痛烈なボディブローを叩き込んだ。
胃の中のものをぶち撒け、男は両膝をつく。
そのまま彼の背後に回り込んだソルドは、続けて延髄に手刀を叩き込んだ。
それで戦いは終わりだった。いや、戦いとすら呼べなかったろう。
鍛え込まれた男の身体が、あっけなく床の上に崩れ落ちる。
「あ、あんた……どうして?」
「いろいろあってな。だが、今は詳しく話している暇はない。ここを出るぞ」
気を失った男を尻目にミュスカの元へと歩み寄ったソルドは、その拘束を解くと、わずかに表情を緩めた。
その頃、ルナルはソルドのもたらした情報に示された地点へ辿り着いていた。
レイモスでも外れに位置する住宅街の一角である。
その中でも広い敷地を持つその建物は、三階建ての研究施設であった。
(オルハン生科学研究所……)
門の脇にあった表札状のプレートを見つめ、ルナルは眉をひそめた。
すぐにメモリーを検索し、インプットされている限りの情報を引き出す。
(所有者はトーマス=オルハン博士か。バイオテクノロジーの第一人者で、レイモス大学で教鞭も取っていた人物ね。確かアイダス=キルトも以前は彼の研究室に所属していたはず……アマンド・バイオテックを逃げ出して、恩師のところに身を寄せたということ?)
そこまで考えたところで、ルナルはふと、ある事実に思い当たる。
(いえ……そういえばアイダス=キルトは、恩師の裏切りにあって学会を追放されたとあったわね。もし、それが本当だとすれば……!)
アイダスが、オルハンを恨んでいる可能性は限りなく高いだろう。
そして、アイダスがカオスレイダーに寄生されていると仮定するなら、その負の感情は理想的な餌となる。
ルナルはすかさず、建物に向かって駆け出していた。
時間が時間だけに、所内にはほとんど明かりが点っていなかった。
ルナルは入口のセキュリティパネルに右手を当てると、速やかにロックを無効化。足音を立てないよう内部に侵入した。
所内に入るとほぼ同時に、彼女の鼻はある臭いを感知する。
(これは……血の臭い!)
通路の奥から、かなり濃度の高い鉄の臭いが漂ってきていた。
これが人間のものなら、夥しい量の血液が流れ出ていることになる。
警戒心を高めつつ通路を疾駆したルナルは、やがて臭いの発生源となっている部屋の前に辿り着く。
そのまま、強引にドアを押し開けた。
(なんてこと……!)
まず目に付いたのは、複数の人間の遺体だった。
まだ血液が固まらずに流れ出ている様を見ると、死んでからそう時間は経っていないのだろう。
部屋自体はかなり広い研究スペースとなっている。
数台のコンピューターが壁面沿いに並ぶ中、強化ガラスの内壁を挟んだ向こうには、生体培養に使う大型カプセルが数台置かれていた。
そして、その内の一台の前には一人の男がたたずんでいる。
その姿は、ルナルの探している人物の外見と一致していた。
「アイダス=キルト博士!?」
「おや? 知らない顔ダナ……お前は誰だ? ここの研究員ではナサそうダガ……」
内壁のドアロックを解除して侵入したルナルに、アイダス=キルトは意外そうな顔をする。
その表情は虚ろなようでいて、恍惚としているようにも見える。
彼の足下にも複数の遺体が転がり、内一人は苦悶の表情を残したまま仰向けに倒れていた。
「これはどういうこと? 説明してもらいましょうか!」
「説明もナニも……もう用が済んダかラ、死んデもらったダケサ。コノおるはんトモドモナ……」
言いながら、アイダスは仰向けの遺体を軽く足蹴にした。
遺恨を残す相手とはいえ、かつての恩師に対する仕打ちとしてはあまりに残酷である。
ルナルの表情が、厳しくなった。
「用済みね……それで? 用が済んだはずのあなたは、ここでなにをしているのかしら?」
「そんナことヲ聞いテドウシヨウといウんだ? アア、そうカ……オマエ、あまんど・ばいおてっくの手先カ? オレノ研究ヲ奪いニキタんダナ!?」
アイダスはそう言うと、手を高々と差し上げた。
同時に、彼の瞳に異質な赤い輝きが宿る。
「ナラ、ちょうどイイ! ヤレ!! 我が下僕!!」
そして指をパチリと鳴らした。
すると、周りに横たわっていた死体群が一斉に立ち上がる。
(これは!?)
驚愕するルナルに、死体だった者たちは鋭い視線を向ける。
いつの間にかその出血は止まっており、代わりに体色は青カビのように変わっていた。
その姿は、ホラー映画に出てきそうなゾンビそのものである。
彼らは一斉に両手を上げると、掴みかかるようにルナルに襲い掛かってきた。
「くっ……!」
その攻撃を、ルナルは間一髪、跳躍でかわす。
そのまま、もつれ合う彼らに向けて光の矢を投擲した。
小規模な爆発がゾンビの身体を穿つが、その傷口は瞬く間に塞がっていく。
(この再生能力は……あの時の!)
超電導ライナーでの一件が、頭をよぎる。
目の前のゾンビたちは、あの時のカオスレイダーと同じ能力を有していた。
着地したルナルに対し、生ける屍の彼らは次々と迫ってくる。
その動きは緩慢どころか、人間以上に鋭く俊敏であった。
爪が空を裂き、口元に覗いた牙が歪に煌めく。
絶え間ない連続攻撃が、美しき特務執行官を餌食にしようとする。
もちろん、ルナルが攻撃をもらうことはなかったが、正直、厄介なのは事実だった。
その顔には普段見せない、いまいましげな表情が浮かんでいる。
「半端な攻撃では、意味がなかったわね。死者に鞭打つような真似はしたくないけれど……!」
大きく跳躍して距離を取った彼女は、両腕を交差させて意識を集中した。
その全身に、わずか白い輝きが宿る。
前方からまとまってやってくるゾンビたちに向けて、彼女は両手を突き出した。
「我が敵を滅せ! 殲滅の聖光!!」
刹那、夥しい数の光線が、手の平から迸る。
それらはゾンビたちをまとめて壁に叩き付け、身体に次々と突き刺さっていく。
光は意志ある生き物のように死骸を食らい、消し炭へと変えていく。
やがてあとに残ったのは、かつての原型すら留めない、どす黒い灰の山だった。
(思った以上に手こずったわね……)
わずかに安堵の息をつくルナルだが、その瞳は厳しさを湛えたままだった。
そこにはすでに、彼女以外の動く者の姿はない。
戦いの隙を突き、アイダスは部屋から逃走していたのだ。
彼の前にあった生体培養カプセルも割られ、中身は持ち去られていた。
(……抜け目ないわね。でも、あの短時間で、すべてのデータを消したりはできないはず……)
部屋の端末にアクセスし、ルナルは研究データを検索する。
すぐに、SPSという単語を見つけることができた。
その内容を追っていった彼女は、納得したように頷く。
(SPS……超光合成細胞。光合成によって発生する糖をエネルギーとし、再生力を異常促進させる細胞か)
再生力を異常促進させるというのは、これまでの戦闘で、すでにわかっていたことである。
重要となるのは、光合成という単語であった。
(荒唐無稽と言われた理論を、実用化レベルに高めたということね。そして、その理論ゆえにあの再生能力は、私の力との相性が良い……私にとっては、悪いというべきかしらね)
今までの戦闘で、ルナルが少し手こずった理由がそこにあった。
特務執行官は皆、ある種の属性の力を行使する。ソルドが炎を操るように、ルナルの得意とする力は光である。
しかしそれはSPSを組み込まれた生物にとっては、再生のためのエネルギーであったということだ。
(ただ、アイダスがSPSを使ってなにかを企んでいるとしても……)
ルナルは、先ほどのアイダスの様子を思い出す。
あの時、わずかに交わした言葉の中に、彼女の知る独特の雰囲気があった。
(彼は間違いなく、カオスレイダーになりかかっている。だとすれば、次の目標は……)
アイダス=キルトと近しい関係にある人物、そして彼が最も大切にしている人物は一人しかいなかった。
ルナルはすかさず、部屋を飛び出していた。
(兄様がいるとはいえ、なにが起こるかはわからない。今はひとまず合流しないと……!)
美しき特務執行官の顔には、珍しく焦燥の色が浮かんでいた。