(20)月影奇襲
虚空の中で邂逅した異質な存在に、ソルドは警戒心を解かぬままに問い掛ける。
ただ、相手が何者かというのは、おおよそ見当がついた上での問いだった。
「お前は、まさか……」
「私は【レア】……この名前、オリンポスの者なら聞いたことはあるでしょう」
「やはり、あなたが……」
口調を変え、彼は頷く。
かつて秘匿記録を閲覧した時に見た者――特務執行官の元である秩序の戦士を生み出した存在であった。
「【アポロン】……あなたは月の地下で破滅の光に呑まれそうになっていました。なんとか光の効果範囲からは逃れたものの、その身はひどく傷ついてしまっていた……私はそんなあなたを助け出し、再生したのです」
【レア】はここまでの経緯を端的に語った。
ソルド自身も、意識を失う直前までの記憶を思い出していた。ディスインテグレーション・システムの光から逃れるため、とっさにビルの外壁方向へ飛び、そのまま土の中へ突っ込んだのだ。
【レア】が言うには無限稼働炉こそ無事だったものの、肉体がほぼ原子分解していたため再生に時間がかかったとのことだった。
「そうだったんですね。助けて頂き、ありがとうございます。しかし……なぜ?」
「あなたは混沌を滅ぼすための要ですから……ここで倒れてもらうわけにはいきません」
「混沌を滅ぼすための要?」
深々と頭を下げたソルドだが、すぐに眉をひそめる。
そこで【レア】は思わせぶりな言葉を告げた。
「そうです……正確には、混沌を滅ぼすための要となる月の覚醒に必要な者というべきですか……」
「月の覚醒? それは……まさか!?」
月という単語に反応した青年を見据え、黒き影は穏やかな声で続ける。
それはかつてライザスたちを救った時と同じ、慈愛に満ちたものだった。
「ええ。あなたが妹と呼ぶ者……ルナル=レイフォースのことです」
そして放たれた言葉は、ソルドがこれまで探し求めて止まなかった愛妹を救い出すための方法を示唆するものだった――。
緊急招集ののち、パンドラのセントラルエリアには、エルシオーネだけが残されていた。
一人黙々と作業をしていた彼女は、やがて大きな息をついて顔を上げる。
同時に床に置かれていた無骨なカプセルが開き、排煙の中から三つの人影が姿を現した。
「調子はどうかしら? あなたたち……」
影たちに向けて、エルシオーネは問い掛ける。
そこにいたのは黒髪を持つ裸身の女たちであった。その容姿は【モイライ】を管理する電脳人格のペルソナとまったく同じである。
「……凄く新鮮です。エルシオーネ母様」
ややあって、その一人である【アトロポス】が答える。
己が手を開いたり握り締めたりと、肉体の感覚を確かめているようだ。
同じように身体を動かしていた二人も、末妹と同意見のようだ。
「うん……なんか実体って感覚、馴染みがないんだけど……こういうものなんだね」
「ですが、なぜこのようなことを?」
【クロト】の問いに対し、エルシオーネは静かに答える。
「【モイライ】に人格を残したままだと、また侵食を受ける可能性がある……それを防ぐための処置よ。これで本体にウイルスが仕込まれていたとしても即座に接続を絶てば、あなたたちを守ることができるわ」
「母様……」
「ただ、今までのように【モイライ】の性能を引き出すことは難しくなるのだけどね……」
嘆息を交えて、彼女は続ける。
電脳人格の記憶や性格をマテリアルボディに移すことで侵食には対応できるようになったが、同時に【モイライ】との間に余計なネットワークができることとなった。
今までのように【モイライ】を直接コントロールできなくなった分、様々な対応に遅れが生じることになるだろう。
「とりあえず人格の移転は完了したわ……次は種子探知の方法を見つけ出さないといけない。それもできる限り早急にね……」
それでもひとつの憂いが消えたことで、本来の目的に注力できるようになった。
改めてコンソールに向かい合ったエルシオーネだが、そこで聞き覚えのある声が響き渡る。
「ふ~ん……ずいぶんとご執心ね。エルシオーネ……そんなにポンコツの電脳人格が大事?」
「そ、その声……まさか!?」
その場の者たちの視線が、一斉に声のした方向に向く。
驚愕の表情を浮かべたエルシオーネたちが見たのは、渦のような闇をくぐって現れた銀眼の女の姿だった。
「ルナル……いえ、【ヘカテイア】!? なぜ、ここが!?」
「なぜって……おかしなことを言うのね。私にとって、ここは古巣よ。正確な座標だって知っているんだし、道を繋ぐことくらい造作もないわ。別に驚く話じゃないでしょ?」
黒き女は、なにを今さらとばかりに言い放つ。
確かに彼女がルナルの記憶を持つ以上、口にしたことは事実だ。そして、いかに厳重な警戒網を張り巡らしているパンドラであっても、空間転移による侵入は阻止できない。
つまり【ヘカテイア】にとってパンドラへ侵入することは、自分の家へ帰るほどに簡単なことになる。
「いったい、なにをしに来たのです……!?」
鋭い視線を向けながら、エルシオーネは油断なく問い掛ける。
簡単に侵入されてしまうという現実を今更思い知りつつも、あえてこのタイミングでやってきたことには意味があるはずだ。
それに対し【ヘカテイア】は、宙に浮かぶクリスタル体を見上げながら答えた。
「簡単よ。そこにある【モイライ】を破壊するの。私たちの目的のためには混沌の力を高める必要があるから、邪魔になるものは排除しないとね」
「な、なんですって!?」
「前にやったようにECシステムを使えば機能停止は簡単なんだけど、主が徹底的に破壊して来いって言うから、仕方なく出向いたってわけ」
わずかに嘆息を交えたその顔には、面倒と言いたげな表情が浮かんでいる。
ただ、エルシオーネは彼女の放った単語のひとつに、強く反応していた。
「ECシステムですって!? それじゃ、やはりあの侵食は【モイライ】に隠された機能だったということなの!?」
「ええ、そうよ。最上位アクセス権限を持つ者のみが行使できる秘匿機能……【モイライ】に存在するあらゆるプログラムを強制的にコントロールできるものよ。この前、お試しで使ってみたわよね?」
「お、お試し!? それで姉貴を……姉貴の記憶を消したっていうの!?【ヘカテイア】ァァァッッ!!」
さらっと続ける【ヘカテイア】だが、それに対して過剰に反応したのは短髪黒髪の少女――【ラケシス】だ。
凄まじい憎悪をその顔にみなぎらせ、彼女は得たばかりのマテリアルボディを操って黒き女に飛び掛かる。
「フフフ……なに? 怒っているの?【ラケシス】……ただのプログラムのくせに!!」
その行動を見て口元を歪めた【ヘカテイア】は【ラケシス】の攻撃を簡単に受け止めると、衝撃波と共に押し返す。
轟音と共に少女の身体が弾き飛ばされ、宙を舞った。
「あああぁあぁぁぁっっ!!」
「実体を得ても、所詮はポンコツね!! これで破壊してあげる!!」
すかさず黒き大鎌を生み出した【ヘカテイア】は、それを大きく振るう。
獣の顎のごとき黒き波動が【ラケシス】を打ち砕くべく、宙を走った。
しかし、その一撃は中空に生まれた光の防壁によって防がれる。
「あら? へぇ……それがあなたの力ってわけね。エルシオーネ……そういえば特務執行官の中では、一番守りに秀でた力を持っているんだったわね」
「この子たちを……それにここをあなたの好きにはさせないわ。【ヘカテイア】!!」
闘志をみなぎらせ、エルシオーネが咆哮する。それは普段の知的な彼女からは想像もできない姿だった。
意外な表情を見せつつ大鎌をくるくると回した【ヘカテイア】だが、すぐにその先端を彼女に突きつけ、鋭い眼光を放つ。
「そう……! だったら、私も遊びなしで行こうかしらね。司令たちに戻ってこられても面倒だから!」
憤りにも似た声と同時に、黒き女の周囲に凄まじい闘気が放たれる。
それは物理的な破壊力を持つかのように、静謐な空気を揺るがせた。
風となって巻き起こった空気の対流に顔をしかめたエルシオーネたちは、憎悪に彩られた【ヘカテイア】の真の姿を垣間見る。
「エルシオーネ……そこのポンコツ共々、地獄に落ちるのね!!」
獅子のたてがみのように荒ぶる黒髪と、【統括者】を思わせる漆黒のエネルギーを纏い、闇の女神は殺意の咆哮を上げたのだった。




