(9)動き始めた状況
宵闇の中、ソルドは疾走する。
頬に当たる風は鋭く、巡るヘッドライトの光が一瞬のシルエットをアスファルトに投げかける。
人込みを横に、車道の端を駆け抜ける姿は一陣のつむじ風を思わせる。
奇異なものを見るように人々が視線を向けてくるが、今の彼を止める理由にはならない。
焦燥と後悔とが入り混じる中、その瞳は極めて鋭く前を見つめていた。
(やはり……少し遅かったかもしれん……)
わずかに歯噛みしながら、ソルドは心中でつぶやく。
ミュスカ=キルトと別れてから、すでに三十分が経過していた。
パーソナルデータから割り出した自宅へのルート検索は完了している。これに各種スキャンを組み合わせれば、追跡自体は難しいものでない。
ただ、彼女の拉致を考える者たちが次の行動を起こすには、充分すぎるほどの間が空いてしまった。
もしソルドが襲撃する側であったとしても、このタイミングを逃す手はないだろう。
(む? この臭いは……)
やや甘い香りが彼の鼻に感じられたのは、それから間もなくのことであった。
それは普通の人間に感じ取れぬほど薄れてしまったものだ。
しかし、ソルドはすぐにそれを即効性麻痺薬の一種と識別する。
辺りは外灯も少なく、闇の領域が広がってきている。
彼は足を止め、慎重に視線を巡らせる。
やがて、その瞳が小さく明滅する光を捉えた。
(……間に合わなかったか)
道脇の草むらに転がっていた物体を拾い上げ、ソルドは表情を硬くする。
光の発信源は、半壊した個人用の携帯端末だった。背面には、小さく持ち主のイニシャルが刻まれている。
M・KILT――それはまさに、彼が探していた少女のものであった。
(この場で、拉致されたか……人通りはなく、おあつらえ向きの場所だな。ここから、どうやって連れ去った?)
思考を巡らせたソルドは、前の拉致未遂の際に黒ずくめの車が走り去ったことを思い出す。
あれからさほど時間が経っていないことを考えると、再度、人を使って拉致させたとは考えにくい。
もし、あの監視者が直接行動を起こしたとするなら、その痕跡を残しているはずだ。
ソルドはメモリーとして残された映像をリプレイし、車種を割り出す。
次に視界を通常モードからスキャニングモードへ変更し、改めて辺りを見回した。
やがて彼は、路面に残されたタイヤの跡を発見する。
かなりの急発進をしたためか、起点となる場所に黒く焼け焦げたようなはっきりした紋様が残っていた。
照合した結果、それは紛れもなく例の車の車種と一致する。
(不幸中の幸いか……これで行き先を辿ることはできそうだ。だが……)
ふと彼は、手にしたミュスカの端末を見る。
そこに映っていたメールの文面と、差出人の名前に改めて表情を険しくした。
その頃、とある場所ではひとつの事件が起こっていた。
「ど……どういうつもりだ!」
研究室と思しき空間で、白髪の男が声を荒げていた。
彼の目の前には、白衣を着た一人の青年の姿がある。無精に伸びたひげが、どこか厭世的な雰囲気を漂わせていた。
青年の足元には、複数の人間たちが横たわっている。
同じような白衣に身を包んでいることから、ここの研究者であったことは間違いない。
ただ、床一面に広がる真紅の海に沈んだ彼らが、動きを見せる気配はすでになかった。
「どういうつもり、とは?」
「この惨状はどういうことだと聞いている!」
青年は男の怒りなど、どこ吹く風と言わんばかりだった。
その顔には哀れみといったものはなく、ただ恍惚とした表情のみが浮かんでいる。
「どうもこうも……これが俺の研究の成果ですよ。オルハン先生……」
言いながら彼は、己の右腕を掲げてみせる。
その形状は確かに人間のものではあったが、色は鮮やかな緑色であり、あからさまな違和感を覚えさせる。
青年の前にある生体培養カプセルには、その腕と同じ色の物体が浮いている。
どくどく脈打つそれらの異質な物体を見つめながら、オルハンと呼ばれた男は冷汗を浮かべていた。
「やはり君は、危険な男だった。施設の使用許可などしなければ……」
その言葉に青年の瞳が見開かれたかと思うと、次の瞬間、室内に哄笑が響き渡る。
「な、なにがおかしい!!」
「いやいや……今更、なにを善人ぶっているのかと思ってね。あなたに、そんなことを言う資格があるんですか?」
初めて感情をあらわにした青年は、心底面白がっている様子だった。
「アマンド・バイオテックから持ってきたデータの研究と解析……それを言った時のあなたの顔は忘れませんよ。金や名誉がそんなにお好きですか?」
「貴様! それが仮にも恩師に対する口の利き方か……!」
「恩師……恩師ね。そんなこと自分で言い出す辺りも大笑いですよ。俺が、なにも知らないとでも思っていたんですか?」
「な、なに!?」
オルハンに詰め寄りながら、青年は続ける。
しかしその笑みは、どこかどす黒い感情を内包しているようにも見えた。
「俺の学会追放……あれは先生が根回ししたんですよね?」
「な、なにを!?」
「荒唐無稽な理論を展開する異常な科学者……もっともらしいことを言いつつも、あんたは結局、俺がうらやましかった。俺の才能が疎ましかったんですよね?」
その声は、わずかばかり震えている。
侮蔑の意思と共に、限りない憎悪が撒き散らされる。
それは周囲の空気すら、異質なものへと変えていくように感じられた。
オルハンはなにかを口にしようとするも、声を出すことができずにいる。
「まぁ、ここに来たおかげでSPSの調整はほぼ完了しました。そこは感謝しています……しかし、これであなたも用済みナンですヨ」
異常なまでの圧迫感が、オルハンを襲っていた。
逃げようと思えば、逃げることはできたはずだ。
しかし、彼はそれができずにいた。魅入られたように目の前の青年から、目を離せずにいた。
青年の瞳が赤い輝きを放ち、その右腕がばきばきと音を立てて、槍のような形に変わっていく。
「俺タチの安息の日々を奪ったアナタの罪ハ重イ……死をモッて償ってもらいまショウカ!」
そして次の瞬間、室内に絶叫が響き渡った――。
コンクリートで囲まれた冷たい暗がりで、ルナルは厳しい表情を湛えていた。
老朽化が進んだ廃ビルの一角である。あちこちに鉄骨が飛び出ており、いつ建物自体が崩れてもおかしくないだけに人の姿はない。
彼女の目の前には光のスクリーンが浮かび、それが唯一の照明となっている。そこには、ソルドの姿が映し出されていた。
「それは確かな情報なの? 兄様?」
『ああ。アイダス=キルトが現在潜んでいる場所は、ここに間違いなかろう』
ここという単語と同時に、別のスクリーンがルナルの脇に浮かぶ。
CGフレームで組まれたこの街の地図である。その一角に赤い光が点っていた。
「……いくら兄様でも詳細を省き過ぎよ。最低でも情報の出所を教えて欲しいのだけど?」
ルナルは少し呆れた口調で言う。
兄を信用していないわけではないが、大雑把過ぎるのも考えものだ。
まして、ルナルが一向に手に入れられなかったアイダスという男の所在を、あっけなく突き止められたのも気になる。
対するソルドもそれはわかっていたようだが、返す言葉は彼らしくもなく不明瞭なものだった。
『……偶然だが、彼の妹に接触してな』
「アイダス=キルトの妹と?」
『ああ。こちらの不注意で拉致されてしまったが……恐らくアマンド・バイオテックの差し金だろう。今送った情報は、現場に残されていた彼女の携帯端末から得たものだ』
「拉致……穏やかな話じゃないわね」
確かに穏やかな話でないのは事実だが、むしろルナルの意識はソルドの態度に向けられていた。
元が不器用な兄だけに、隠し事をしていることはすぐにわかる。
『私はすぐ彼女を救出に行かねばならん。そこで、アイダスの確保をお前に任せたい』
「もちろん構わないけど……兄様?」
『なんだ?』
「事の経緯……あとでしっかり説明してもらいますから、ね?」
『……ああ。わかった』
状況が逼迫しているため追及はしなかったが、ルナルは仮面めいた笑顔を向けることを忘れなかった。
通信終了の際、ため息を漏らすソルドの姿が映っていたのは言うまでもない。
(人の知らないところで、なにやってるんだか……兄様だから大丈夫だとは思うけど……)
正直、気分は良くなかったが、ルナルは私情を押し殺した。
(情報が少ない今は、とにかく動くしかないわね……)




