(9)妖艶なる女の罠
鋼鉄の空間に、雄叫びが反響する。
凍り付いた光の中、ふたつの影は交錯した。
斬撃のような手刀の軌跡をすり抜け、ソルドは拳を振り上げる。
空気を切り裂くアッパーがダージリンに迫るが、それをのけぞるようにかわすと同時に、彼女は蹴り上げようとした。
ただ、跳ね上がろうとした足はソルドの左手で止められている。
そのまま足首を握ったソルドは大きく腕を引く。
体勢を崩して仰向けに倒れたダージリンに、すかさず平手突きが繰り出された。
閃光のような一撃を転がるようにかわした彼女の脇で、音と共に床が爆ぜる。
「さすがに見事なものね」
わずかに冷や汗を滲ませたダージリンはそのまま倒立すると、回転しながら蹴りを放つ。
ブレイクダンスめいた連撃を回避したソルドは、跳ねるように体勢を立て直そうとした相手に詰め寄った。
壁際へ降り立ったダージリンの目に、繰り出された鉄拳が映る。
首を傾げるようにかわした彼女の視線の横で、今度は壁が砕けた。
「フフ……いいわ。ソルド……ゾクゾクする」
喜びか戦慄か――身を震わせながら、ダージリンは目の前の男を見つめる。
いきなり名前を呼ばれたことに少し意外な表情を浮かべながら、ソルドは拳を引き抜いた。
「……戯言はいい。ガイモンはどこだ。言わないのなら、このまま倒すまで……!」
「できるかしら? あなたに……」
「なに!? うっ!?」
挑発めいた言葉に反発しようとしたのも束の間、彼の口は温かな唇によって塞がれる。
そればかりでなく、ダージリンはソルドに強く身を預けてきたのだ。
甘やかな香りと共に押し付けられた柔らかな身体――その感触に思考が停止する。
やがて女の手が全身をまさぐり、股間に触れようとしたところで、ソルドは飛び離れるようにその身を離した。
「くっ……やめろ! 貴様!!」
「あら……やっぱりウブなのね。この程度で動揺するなんて……」
口元を舐めながら、ダージリンは妖艶に笑う。
その様子は、いかにも楽しいと言わんばかりだ。
(くそっ……こんなことで惑わされるな! 奴はルナルじゃない……敵なんだぞ!)
羞恥と怒りに頬を紅潮させたソルドは、自らに言い聞かせるように内心でつぶやく。
一度ならず二度までも唇を奪われ、更にそれ以上の甘美をもたらされようとした現実は彼の精神を混乱に陥れた。
元々男女の機微に疎く、耐性の低いソルドである。
妹と同じ容姿の相手に責められる背徳感や、心を通じ合わせたアーシェリーに対する申し訳なさなど様々な感情が入り乱れていた。
今まで相手にしてきた敵が人外の化物ばかりだったことも、大きな要因だった。身体能力だけで見ればSPS強化兵を上回っていても、自らの女をも武器として使ってくるダージリン――ルーナのほうが戦いの経験値はひとつ上だった。
なんとか動揺から立ち直ったソルドだが、次の動きを完全に決めかねてしまっていた。
そんな彼を見て再び笑みを浮かべたダージリンは、踵を返して通路の奥へと走り去っていく。
「な……待て!!」
とっさに追いかけるソルドだが、この時もう少し冷静だったならば、相手の行動の真意が掴めたかもしれない。
黒髪の女を追って辿り着いた先――闇の深い広大な空間で、彼は再び背後に壁の落ちてくる音を聞いていた。
(……しまった! 罠か?)
その事実に気が付いた瞬間、辺りに眩いばかりの光が溢れる。
天井に灯った無数のスポットの下、静かにたたずむダージリンは冷徹な笑みを浮かべた。
「さぁ、始めましょう。第二ラウンドよ……」
その言葉と共に、彼女はいずこからか取り出した鋼鉄の仮面を被る。
同時に音を立てて、周囲に数機のドローンが虫のように飛び上がった。
全身を包む温かな感覚の中で、アンジェラは意識を取り戻した。
それは今まで彼女が感じたことのないものだ。フェリアに感じた人肌の温もりと異なり、柔らかく包み込む風のような温かさであった。
「わ……わたしは……?」
目を開いた彼女は、そこに金の髪を持つ青年の姿を見る。
見つめ返している碧眼が、穏やかな湖のような輝きを放っていた。
「気が付いたみたいだな」
「……あなたは?」
「オリンポスの特務執行官【ヘルメス】……シュメイス=ストームフォースだ」
「……その名前……フェオドラさんの言ってた人ですね?」
青年の名乗りを耳にしたアンジェラは、記憶を掘り起こすようにつぶやく。
以前、フェオドラと会った時、共にSSSの調査任務に就いている特務執行官がいるという話を聞いていた。どうやら目の前の男が、その人物であるようだ。
「そういうことだ。フェオドラから、あんたを探すよう頼まれてたが……まさか、こんなところで死にかかっていたとは思わなかったぜ」
答えるシュメイスも、その辺の事情は知っていた。
加えてフェオドラから、アンジェラからの音信が途絶えたという話も聞いており、今回の潜入に際して捜索を請け負ってもいたのだ。
「傷は全部治したが、立てるか? 無理そうなら、おんぶでもお姫様抱っこでも好きな方法で運ぶぜ?」
軽口めいた問いに、アンジェラは思わず自身の状態を確認する。
全身に走っていた拷問の傷は、跡形もなくなっていた。痛みもほぼ消えていると言って良い。特務執行官のナノマシンヒーリングについてはフェオドラから多少聞いていたが、いざ体感してみると凄いものだと認識させられる。
ただ、同時に裸同然の格好になっていたことにも気付く。青年の上着こそかかっていたものの、全部隠せているとは言えない状態だ。
そもそも治療に際し、傷の状態を確認されているはずなので、なにもかも見られてしまったことは確かである。
その事実を悟ったことで、さすがに羞恥心が勝ってしまったのか、アンジェラはいつになく余裕のない様子で顔を赤く染めた。
「い、意外とチャラい人だったんですね! それに治療にかこつけて人の身体を観察したんですね!? 変態ですっっ!!」
「悪いな。これも不可抗力ってやつだ。ま、事故にでも遭ったと思ってあきらめてくれ」
叫ぶような抗議の声が放たれるが、シュメイスは飄々と返すだけだ。
これに関しては確かに不可抗力であり、ここに来たのがソルドでも同じことを言われただろう。
ただ、シュメイスは彼のように目に見えて慌てることもない。ある意味慣れたようにも見える冷静さが、アンジェラの羞恥を加速させた理由でもあった。
ジト目で上着を被り身を縮こまらせている彼女を、シュメイスは強引に抱き上げる。
「な、なにするんですかっ!?」
「あいにく悠長に掛け合いをやってる暇はないんだ。さっさとここから出るぞ。どうも悪い予感がするんでな……」
有無を言わせない様子で、彼は言う。
図らずもひとつの目的を達したことは僥倖であったものの、その心には現在置かれた状況に対する懸念が渦巻いていたのだ。
いまだ顔の赤いアンジェラだったが、そのことを察したのか、それ以上騒ぎ立てることはしなかった。
「なんだ? これは……?」
一転して光に満ちた空間の中で、ソルドは眉をひそめた。
中空に浮かび上がったドローン群は、緩やかな動きで彼の周囲を取り囲んでいく。
次の瞬間、その内の一機からボールほどのエネルギー弾が撃ち出される。
とっさに身をかわしたソルドの背後で小爆発が巻き起こり、着弾した床が抉れるように破壊された。
「エナジーバレットか!? しかもこの出力は……!」
ソルドはわずかに戦慄する。
少なくとも今の攻撃は対人で使われるものではない。軍用車両や航空機などを相手にするため、出力調整されたものだ。
当然、特務執行官であっても、直撃すれば無傷では済まない。
「気付いたかしら? このドローンの放つ光弾は軍用兵器から転用したもの……人なら軽く消し炭にする威力があるわ」
「それがどうした? ならば撃ち落とすまでのこと……!」
ダージリンの言葉に反発するようにソルドは手に炎の弾を生み出すと、ドローン目掛けて射出する。
銃弾同様の速度で飛んでいったそれは、狙い過たずに目標を襲った。
しかし、標的となったドローンはいきなり凄まじい速度で移動し、直撃を回避していた。
「なにっ!?」
「ドローンだと思って甘く見ないことね。瞬間的ではあるけど、音速に近い初速が出るの……」
どこか自慢げにも聞こえた女の声に同調するように、ドローン群は音を立ててソルドの周りを周回し始める。
わずかに歯噛みした彼を見据え、強化兵の仮面のバイザーが赤い光を放った。
「この子たちと私を相手に、どう立ち回るのか……特務執行官の本気を見せてちょうだい! ソルド!!」
ダージリンの殺意が乗り移ったように赤い光を灯したドローン群は、一斉に攻撃を開始した。




