(7)潜入
闇の中に、水の音が響いている。
鉄の臭いに紛れて漂っているのは、長年に渡り染み付いた悪臭であろう。
空洞は時に垂直に伸び、時に大地と平行になる。
小動物が一匹通れるかと思えるほどの狭い空間が無限とも思えるほど続いている。
そこは下水配管の内部だ。警戒厳重なビルであろうと要塞であろうと、人の住む場所なら敷設せずにいられないものである。
並の人間なら侵入することもできないその空間を、無数の光の粒子が突き進んでいる。
それらは水の流れに逆らいながらも澱むことなく進んでいった。
やがて、闇に差し込むいくつかの光が現れる。
同じ光同士が引き合うかのように、粒子はその内のひとつへと導かれていった。
そこは用途の割には美しい空間であった。
床に張られた大理石の床が、白色照明の光を受けてつやつやと煌めく。
周囲を満たすのは、わずかな芳香剤の香りだ。
ハーブを思わせるその匂いは、リラックスした空間を演出するのに一役買っている。
ふと、動き始めた自動洗浄システムが、辺りに水音を響かせた。
(毎度のこととはいえ、こういう侵入の仕方は気が滅入るわ……)
洗面台の排水口から現れた光の粒子は、徐々にまとまり一人の人間の姿を形作る。
やがて実体化した青髪の女性――ルナル=レイフォースは、心底参ったようにため息をついた。
実際に汚れることはないといっても、下水管を通っての侵入は気分の良いものではない。
ましてや出てきた場所がトイレでは、ぼやきたくなるのも当然だろう。
いくら清潔で手入れの行き届いたところであってもだ。
(警戒厳重なところを避けようと思えば、必然的にこうなってしまうから仕方ないけど……)
もちろん彼女がトイレに実体化したのは偶然でなく、意図したものである。
どれほど警戒を厳重にしようと、トイレに監視の目を光らせることはないからだ。
最もプライベートを確保しやすい空間だからこそ、侵入にも最適というわけである。
もちろん配管からの侵入を可能とするのは特務執行官としての彼女の能力あればこそで、普通の人間には発想自体浮かばないことは言うまでもない。
(さて……それじゃ早く仕事を片付けましょうか)
周囲の様子を窺いながら、ルナルはドアを押し開ける。
服のデータをリライトし、ビジネススーツへと変換して通路へと出た。
巨大企業とはいえ一般的な就業時間は過ぎているから、人の姿はまばらなものだ。
何人かの男性社員とすれ違うと、ふと口笛を鳴らしていったのが聞こえる。
どんな格好をしていても、ルナルの美貌はやはり人の目を惹いてしまう。
女性として他者の評価に値するのは喜ばしいことだが、あいにく潜入という任務に不都合があるのは確かだ。
(あまり人目につき過ぎると、まずいわね。ここのホストコンピュータにアクセスできる端末は……あそこか)
あらかじめ得てきた建物のデータを基に、彼女は早足で歩みを進める。
目指すその先には【第一資料室】と書かれた札が掲げられていた。
資料室と名の付いた場所ではあったが、実際はコンピュータ端末が数台並ぶだけの殺風景な部屋だった。
室内もさほどに広くなく、少し歩けば壁にぶつかってしまうほどである。
幸いなことに、利用者はいない。
極秘データを探るにはおあつらえ向きだ。
(生体認証クリア……パスワード、クリア……アクセスレベル……5までクリア。これ以上は厳しいか……)
電源を起動したあと、ルナルは端末そのものと肉体を接続。ホストへの侵入を図る。
電子化された意識が幾重にも張り巡らされたセキュリティを通過していく。
ただ、さすがに最重要機密へのアクセス権限を得るには時間がかかりそうだった。
仕方なく現在の段階で閲覧可能なデータを漁っていく。
それでも相当のレベルまで潜り込んだはずなので、有益な情報が得られる可能性は高い。
(軌道エレベーター研究施設……研究内容はトップシークレットか。相当重要な研究を行っていたようね。施設主任は、アイダス=キルト博士……アイダス=キルト……?)
ルナルはメモリーを辿り、その名前を見つけ出す。
十代で博士号を取り、バイオテクノロジーの分野では百年に一度の天才と言われた人物。
一昨年に発表された【植物の光合成における発生エネルギーの生体転用理論】は、良くも悪くも学界の話題を集めた。
植物の細胞を動物に転用し、光合成を行って活動エネルギーを得るという理論。
つまりは光と水と二酸化炭素があれば、その他の栄養補給がいらなくなる人間も作れるという話だったはずだ。
しかし、あまりに突飛な発想は当時の学界に煙たがられ、物笑いの種にしかされなかったようである。
その後、学会を追放された彼は、消息不明となっていた。
(まさか、アマンド・バイオテックに身を置いていたなんて……)
どのような経緯で、両者が手を取り合ったかはわからない。
恐らく、なにかの利害が一致したのかもしれない。
ただ、それが人類の発展に貢献すべき正しい科学のあり方に繋がるとは、到底思えなかった。
(荒唐無稽な理論を唱える科学者と、よからぬ噂の絶えない巨大企業。そして謎のカオスレイダー……ますます怪しくなってきたわ。せめて研究内容の一部でもわかればいいんだけど……)
データの検索対象を変え、ルナルは改めてアクセスを試みる。
アイダス=キルトのパーソナルデータを洗い始めた彼女は、そこに彼の日記を発見した。
(日付は、昨年の二月から……アマンド・バイオテックに身を寄せてから書き始めたもののようね。人の日記を覗くのは趣味じゃないけど……)
少し良心の呵責を覚えるルナルだったが、今は情報が必要である。
そもそもここまでくれば、個人のプライバシーなどあってないようなものだ。
大したプロテクトもかかっていなかったため、内容を閲覧するのは簡単だった。
『ここ最近は妹と会うことも少なくなった。外出もまともにできないのは正直キツイ』
『電話しても、ほとんど出てくれないのはどういうわけだろう? なにもなければいいが……』
『妹にメールするのは、十一回目……ウザいと思われてるのか? それにしたって返事くらいしたっていいだろうに』
『嫌われているのか。それとも別の理由でもあるのか。まさか、男でもできたか……?』
内容は研究者らしくない、ありふれたものだ。
意外とまともだと思う反面、端々に見える妹への愛情が異常っぽくもある。
もっとも、ルナルとしても兄にベッタリなわけだから、共感できないことはない。
正直、ソルドもこのくらい自分をかまってくれればと思う。
(いけない、いけない……)
ふと、任務を忘れてしまった自分を叱咤しながら、彼女は日記を読み進める。
すると、気になる記述が見つかった。
『SPSの状態は良好。この調子なら、あと一ヶ月もあれば条件を満たせるかもしれない。カンヅメ生活ともオサラバだ。久々に家でのんびりしたい』
『昨日、良好と書いたSPSだが、活性化がやや不自然に思える……なにも起こらねばいいが』
日記はここで終わっていた。
研究に関することを記してはいけなかったのかもしれないが、最後の二日分に関しては、感情の変化もあってか内容も異なるものとなっていた。
(SPS……恐らくはこれが彼の研究していたものの名称。わかったのはこれだけか……)
端末とのリンクを解除したルナルは、小さくため息をついた。
リスクの割に得られた情報が少なすぎたのだから、無理もない。
これではあまり潜入の意味はなかったが、必要以上の長居は無用である。
ちょうど複数の足音が近づいてきたのを聞き取った彼女は、足早に資料室をあとにした。




