(7)立ち込める不穏
どんよりした雲が、朝から立ち込めていた。
晴れ間は覗くこともなく、かといって雨が降りそうな気配があるわけでもない。
陽の見えぬ薄暗い空を見上げ、ボリス=ベッカーは安煙草を口に当てる。
「気に入らねぇなぁ……」
立ち昇る煙を視線で追い、彼は不機嫌そうにつぶやく。
そんな彼の背後から、一人の男が声をかけてくる。
「なにが気に入らないんです?」
「あ? なにってこの天気だよ。良くも悪くもはっきりしねぇってことだ」
部下であるその男に目を向けると、ボリスは灰を落とした。
男は苦笑気味に、言葉を続ける。
「そうですか。私はまた、今回の任務が気に入らないのかと思いました」
「あのな……それじゃ俺が年がら年中、仕事に文句言ってるようじゃねぇか」
「違うんですか? 少なくとも私はボリスさんが喜んで仕事しているところを見たことがありませんが?」
「警護任務を喜んでやる奴が、どこにいるんだよ?」
「ま……それもそうですけどね」
それは二人にとって、いつもながらのやり取りであった。
ただ、軽口めいた会話の割に、彼らの顔は神妙である。それは今回の任務が極めて遂行困難なものになりそうな予感を捨て切れないからであった。
「……例の記録映像は見たか?」
ややあって放たれた上官の一言に、男はわずか頷く。
「ええ……正直、恐ろしいの一言です。まともにやり合ったら勝てないでしょうね。警護対象を守り切れるかどうかも怪しいところです」
「それを口にしちゃいけねぇな……俺たちは守ることが仕事だ。始めから守れないと思ってたら、任務の遂行はできねぇ」
「そうでしたね。失言でした」
咎めるような言葉に、彼は恐縮した様子を見せた。
ただ、それを言ったボリス自身も、本心では怖れを抱いている様子だ。
「しかしまぁ、お前の言いたいこともわかる……アレは正直ヤバい。以前、出くわした緑の怪物以上にな……」
彼の脳裏には、ジェラルド=バウアー護衛任務の時に出会ったオールバックのSPS兵の姿が蘇っていた。
銃撃を受け付けず、凄まじい膂力と機敏さで人間を破壊していったあの敵には二度と出会いたくない。
月のエリア・セレストではそんな奴が大量に現れたというのだから、採掘プラントの陥落や半壊も当然のことだと、彼は受け止めていた。
「今回はバウアー議員の時ほど、人員も割けないですからね。プランとしてはE辺り……ですか?」
「ああ。対象を生かすことが最優先だ。俺たちとしちゃ、最も覚悟を試されることになるだろうな……」
重さを増した空気の中で男の言葉に答えると、ボリスは落とした煙草を踏み消した。
巨大な道路が、うねるように伸びている。
その道路が高架によって緩やかな坂となり、やがて下の道路と交差する。
交差地点となる頂上の辺りは、百メートルほどの平坦な直線となっている。
見通しは良く、特に身を隠すような場所もないその道路を、遠く離れたビルの屋上から見つめるふたつの影がある。
「あの場所で襲撃を?」
均整の取れた膨らみとくびれを持つ身体をボディスーツに包んだ女が、傍らのもう一人に問い掛ける。
同じように筋肉質の身体をスーツで覆った男は、腕組みの姿勢で頷いた。
仮面に包まれた二人の目元のバイザーが、煌めくように赤い光を放つ。
「ああ。下手に逃げ隠れできないところを考えれば、あそこがベターなポイントだろう。我らの能力も生かしやすい」
強化兵士のアールグレイは、冷たい口調でつぶやく。
それに対するダージリンの反応は、嬉々としたものだ。
「特別保安局【エクレール】って言ったかしら……少しは楽しませてもらいたいわね」
「うむ。噂は聞いているが、どれほどのものか……お手並み拝見といったところだな」
襲撃成功は当然といった雰囲気が、二人の間には流れている。
実際、これまでの結果を踏まえれば失敗することなど考えられなかったろう。
「……それはそうと、例の計画はいつ実行に移すのかしら?」
「そう急くな……物事には準備と好機がある。それが揃うまで、さほどの時間はかからない。今少し待つのだ……」
ただ、彼らには彼らなりの別の目的が存在している。
それを知る者は、二人を含めたごくわずかな人間たちのみである。
諭すようにつぶやくアールグレイを見やりながら、ダージリンは嘆息するような素振りを見せる。
「あなたにしては、ずいぶんと慎重ね……それは一度、出し抜かれたから?」
「厳密に言えば、私ではないがな……それに実際は出し抜かれたわけではない。すべては予測の範疇の出来事だよ……あの男の提案以外はな」
淡々としていながら、あの男以降の言葉にだけ、アールグレイは異なる感情を滲ませる。
それは一種の警戒心のようなものだったのか。
「ダイゴ=オザキって言ったわね……なかなか面白い男だわ。フフ……」
「気に入ったのか? お前にしては珍しいな」
「あら? 妬いているのかしら?」
「どうかな……」
真意を読ませない態度を取る彼に、ダージリンは歩み寄る。
そして、その手を刃に見立てて男の首元に当てた。
「心配しなくても、あなたの生命は私のものよ。そして……私の心は、あなたのもの……」
ぞっとする雰囲気を放ちながらつぶやく女と、それを気にした様子もなく不動を保つ男――。
二人の強化兵士の間には、余人に割って入れない歪な絆があるように見えた。
時を同じくして場所を変え、ダイゴ=オザキは一人、月のエリア・セレスト南端にあるクレーターの淵にたたずんでいた。
人の訪れることのないその場所で、いつものように愛用の葉巻を吹かしながら、漫然と市街地を眺望している。
混沌の下僕の証たる紅い輝きは、今もその瞳には浮かんでいない。
(ここまでは順調に進んできたか……)
心中でつぶやきつつ、彼は紫煙を吐き出す。
落ち着きを求めるために孤独に親しんでいたはずの男の表情は、なぜか険しいものである。
(あとは詰めを残すのみ……だが、油断は禁物だ。そろそろ気付かれてもおかしくはないからな……)
そこにあったのは、一種の恐怖心にも似たものか。
指に力が込められ、挟まれた葉巻が歪みを見せる中、唐突に彼の背後から語り掛けてくる者がいる。
「ダイゴ」
「……【ハイペリオン】様」
そこに現れたのは、金の輝きを目に宿した黒い影である。
カオスレイダーを統べる存在――【統括者】の一人である【ハイペリオン】は、どこか鋭い視線を向けている。
「最近はずいぶんと人間たちに肩入れしているようだね」
「肩入れなどと……すべては混沌を世に広げるための方策に過ぎません」
跪きながら、ダイゴは淡々と答える。
無造作に捨てられた葉巻が、わずかに燻ぶったような煙を上げた。
「そうかい? 僕にはそう見えないけどね。ここ最近は眷属たちの確保もおざなりになっているじゃないか……なにを企んでいるんだい?」
「企みなどありません。なぜ、私がそのようなことをするとお考えで……?」
どこか威圧的な雰囲気を漂わせる【ハイペリオン】に、彼は緊張した面持ちを見せる。
わずかに距離を詰め、真下を見るほどに男を見下ろした黒い影は、次いで鋭く声を発した。
「いや……君は僕たちを裏切るつもりなんじゃないかと思ってね」
「そのようなことは決して……」
「そうだね。君は、服従の種を持つ者……僕を裏切ることは決してできない」
恐れ多いとばかりに頭を下げたダイゴに、【ハイペリオン】は厳然と事実を突き付ける。
服従の種――それは【ハイペリオン】が作り出した極めて特殊かつ希少な種子だ。
カオスレイダーを生み出す他の種子と違い、寄生された者はほぼ自我を失うことなく【統括者】の力の一部を使えるようになる。その能力は物理的な力の行使のみならず、空間転移や精神干渉すらも可能とする強力なものだ。
ただ、その代償として、寄生者は【統括者】への絶対の服従を強制される。もし、主の意に反した行動を取った場合、種は宿主の脳を即座に破壊してしまうのだ。
「それでもここ最近、君は僕の想像を超える行動や態度を取り始めている。万が一がないとは言い切れないのさ……」
その事実を知っていつつも、【ハイペリオン】は懸念を隠せない様子だった。
これまでの戦いで明らかになった、地球発祥人類が持つ混沌の種子への親和性や耐性――それが服従の種に当てはまらないとは言えない。
実際、ダイゴはセレスト・セブン襲撃の際に【統括者】への協力を要請してきた。
理屈としては納得できる行動であったものの、種子の影響下にある人間が抱く発想としてはあまりに不遜であったのだ。
「警告しておくよ。ダイゴ……あまり余計な動きはしないことだ。混沌の眷属を集め、力を蓄えることが今の僕たちの目的……それを忘れないようにね」
「はっ……」
牽制するかのように、黒き影は眼下の男に告げる。
物理的な圧を伴ったようなその言葉にダイゴは顔を上げることすらできなかったものの、地に置かれた拳は、わずかに震えていた。




