(11)信じるがゆえの誓い
わかっていても、納得のできないことはある。
それが道理のはずなのに、感情が拒否をする。
それは人の持つ矛盾のひとつ――今も昔も変わることのない業であり、人を超えたはずの特務執行官たちも、この軛から逃れることは叶わない。
なぜなら、彼らの心もまた人だからである。
「……バカな……」
パンドラのレストスペースに戻ったソルドは、蒼白な顔でつぶやいた。
【ラケシス】からもたらされたオリンポスの新たな指令――それは【ヘカテイア】たちの排除命令であった。
「つまり……司令たちは、ルナルを敵と見做したということか?」
『そういうことになるね』
「そんな……」
その場にいたアーシェリーも、声を震わせている。
確かに支援捜査官たちを殺し、【クロト】を機能停止に追い込んだ事実を【ヘカテイア】が認めてしまった以上、こうなるのは必然だった。
『なにをショックを受けてるの? ルナルが【ヘカテイア】じゃないって言ったのはソルドでしょ? だったら別に問題ないんじゃない?』
そんな二人に【ラケシス】は淡々と言う。
口調こそ今まで通りだが、そこにいつものお気楽な雰囲気は微塵も感じられず、ただ冷たい表情だけがある。
『【ヘカテイア】がオリンポスにとって害悪なのは事実だよ。どうしてためらうのか、あたしにはわからないね』
「それは……そうだが……!」
【ラケシス】の言葉は、抜き身の刃のように鋭い。
それがソルドの心を抉る。
「ですが、彼女とルナルになんらかの関係がある以上、有無を言わせず攻撃するわけにもいきません。話し合いすら不要というのは行き過ぎでは……!?」
『ふ~ん……アーシェリーまでそんなこと言うんだ。特務執行官って、そんな甘い考えでなれるもんなんだね』
「ラ、【ラケシス】……?」
見かねたように反論したアーシェリーは、そこで【ラケシス】の様子が明らかにおかしいことに気付く。
いつしか電脳人格の目には、暗い情念の炎が宿っていた。
人にあらざるはずの彼女が、なぜそのような目をしているのか――思わず二人が疑念を抱いたその時、彼らの背後から割り込む声があった。
「その辺にしておけ。【ラケシス】……今は個人的な感情をぶつける時ではない」
「ボルトス……?」
「ソルドたちへの伝達は終わったのだろう? 今はお前も自らの仕事に戻れ」
『……わかったよ……』
現れた褐色の男の言葉に【ラケシス】は憮然と答えると、その姿を消す。
重い空気が漂う中、アーシェリーはボルトスに視線を向けた。
「ボルトス……今のは、どういうことです?【ラケシス】に、なにがあったのですか?」
その問いに対し、ボルトスはセントラルエリアであったという出来事を語る。
しばし黙して聞いていた二人の特務執行官の表情が、驚きに変わる。
「【クロト】の記憶が……!?」
「うむ。【ラケシス】や【アトロポス】のことを、まったく覚えていないようだ。それがいかにショックなことか……お前たちにも想像がつくだろう?」
「それは……」
思わずソルドは目を伏せる。
【クロト】が機能停止に陥っていた時も、【ラケシス】は情緒不安定な様子だった。
無事復旧したと思ったら、今度は記憶喪失である。
ささやかな思い出も含め、自分たちに関するすべての記憶が失われたことを知った時の【ラケシス】の絶望は、いかばかりだったろうか。
「恐らく、今の【ラケシス】は憎しみに囚われている。大切な思い出を消し去った【ヘカテイア】を決して許さないと……だからこそ、さっきのような態度を取ってしまったのだろう」
言葉を続けるボルトスの表情も暗かった。
人に限りなく近い感情を持つがゆえに、【ラケシス】は憎悪という感情を覚えてしまった。
それがどういう意味を持つことになるのかを彼らが知るのは、まだ先の話である。
「それよりもルナルのことだ。ソルド、あれから証拠は掴めたのか?」
「いえ……まだ、はっきりとは……」
「そうか……だが、【ヘカテイア】たちを敵性勢力と断じた以上、オリンポスは総力を挙げて彼女らを排除しに動くことになる」
そこで彼はライザスから告げられたという一言を口にする。
それは今後、勝手な行動を取ることは許さないという内容だった。
「司令が……!?」
「当然だ。ライザスとて、まったく気付いていなかったわけではない。だが、これからはそうもいかなくなるだろう。ルナルを救う術を探すことは、下手をすれば重大な命令違反に繋がる……それでもお前たちは、今まで通りに行動するのか?」
鋭い視線を向けてくるボルトスだが、それに対してソルドの返した答えは端的だった。
「……私は、ルナルを救います」
黄金の瞳には、闘志すら感じさせる決意が宿っている。
幾たびかのショッキングな事実を叩き付けられても、彼の心は折れてはいなかった。
「【ヘカテイア】がしたことは、到底許されることではありません。しかし、私の知るルナルは決してそんなことをする人間ではない。あいつの無実を証明するためにも、今ここで私があきらめるわけにはいきません」
言いながら、ソルドは思う。
生前、孤児院で過ごしてきた日々と、特務執行官として蘇って以降も繋ぎ合ってきた絆――ルナルとの思い出が、その脳裏に蘇っていた。
それらと比較すればするほど、【ヘカテイア】の凶行が妹の仕業だとは思えなくなっていく。
「あきらめれば、それこそルナルの存在を否定することになってしまう。共に生き、共に過ごし、共に戦ってきたルナル=レイフォースを……私は必ず取り戻します。それが兄として、あいつにできるただひとつのことですから……」
最後に告げた言葉は、彼の中に新たな誓いとして生まれたものだった。
いまだ確たる証拠こそ掴めていないが、自分の知るルナルは必ずいるはずだと、心は告げている。
その結果、たとえ反逆者の汚名を被ることになろうとも構わないと、ソルドは覚悟を決めていた。
「アーシェリー……お前はどうなのだ?」
次いでボルトスは、アーシェリーに目を向ける。
緑髪の特務執行官は一度瞑目したあと、すぐに決然たる口調で告げた。
「私の答えも変わりません。私は彼を信じています。そして、私たちと共にあったルナルのことも……」
彼女の思いも、純然たるものだった。
ソルドと共にルナルを救うと決めた以上、簡単に引き下がるつもりはない。そこに待ち受ける障害がなんであろうともだ。
赤髪の青年に目を移した彼女は、胸元で強くその手を握り締めていた。
「そうか……フフ……ハハハハハ……!」
「ボルトス?」
「いや、すまん……だが、お前たちの覚悟は受け取った。ならば俺も覚悟を決めよう。もし、ルナルを救うための行動をオリンポスが咎めようとするならば、俺が生命を懸けてでも止めてみせるとな」
二人の言葉を聞いたボルトスは、笑顔と共に強い眼差しを向ける。
道理のまま自らの心を押し殺すことは、ひとつの道ではある。
しかし今は、その道理に抗うことこそが己の望みであり、取るべき道だと感じていた。
「だからお前たちは、望むままに動け。そして必ずルナルを取り戻すんだ」
二人の肩を叩きつつ、その間を抜けるように歩み去る男を見送りながら、ソルドはわずかに頭を下げた。
星明かりの降る闇の中に、一人たたずむ影がある。
その影は純粋な闇を濃縮したような色合いを持つ一人の女だ。
美しき顔の目元には銀の光が浮かび上がり、その輝きが天を見つめている。
冷たさを帯びたその光の中に、わずか苛立ちを思わせる鋭さが覗いた。
「……まだ消えてなかったのね」
その女――【ヘカテイア】は、独り言のように言葉を発する。
事実、今の彼女の周りには話し相手となるような人間はいない。
「こんなことをするのはやめて……ですって? 面白いことを言うのね」
しかし、彼女は誰かと会話しているような様子だった。
視線を下げ、黒髪を梳くような動作をしながら、女は話し続ける。
「言っておくけど、望んだのはあなたよ。だから、私はここにいるの」
傍から見れば、演技をしているように映ったかもしれない。
それほどに彼女の放つ言葉には、説得力があった。
ややあって、その表情には変化が訪れる。
「今更、後悔しても無駄よ。もう、あなたの出る幕はない……大人しく虚無の闇に呑まれることね」
その口元は、寝かせた三日月のように歪だった。
人に果たしてこんな顔ができるのかと思えるほどに――。
「心配しなくてもいいわ。ソルド=レイフォースは、私のものにする……すべての事が終わった暁には、殺して私の傍に置くの。もちろん邪魔する者も皆殺しにしてね……フフフ……」
最後に放たれた言葉には、狂気が宿っていた。
その狂気は、周囲の空気すらもどす黒く染め上げていく。
眠っていた鳥たちがそれを受け、音を立てて飛び立っていった。
「こんなところで、なにを黄昏ているのかしら?」
そんな一人芝居めいた会話を続ける【ヘカテイア】の下に、一人の女が姿を見せた。
漆黒の中に浮かび上がる血のような紅い輝きが、彼女を見つめている。
かつてアレクシアと呼ばれ、今は同胞となった女――【エリス】である。
「……別に、黄昏てなんかいないわよ」
「そう? かつて所属していた組織にケンカを売るような真似をしてる割には、ドライなのね」
「あら……面白いことを言うのね。【エリス】……私がそれで心を痛めているとでも?」
わずかに皮肉めいた言葉を投げかけてきた【エリス】に、【ヘカテイア】は愉快げに笑う。
「あいにくだけど、私にそんな感傷はないの。むしろ清々しいほどだわ……やっとこの世に解き放たれたのだから」
大きく両手を広げながら、彼女はその場でくるくると回る。
舞台役者のように躍るその姿は、確かに喜びという感情に満ち溢れているようだった。
高揚感に包まれ、星のスポットを浴び続ける銀の瞳の同胞を冷めた目で見つめながら、紅い瞳の女は小さく息をつく。
「これから、面白くなるわ。オリンポスもカオスレイダーもみんな巻き込んで、血みどろの舞台の幕が上がるのよ……! フフフ……アハハハハハハ……!」
語る者とていなくなった空の下、高らかな哄笑だけが鐘の音のように響き渡るのだった。
狂気と憎悪の使者が生み出した亀裂は、確かだった信頼すらも引き裂いてゆく。
誰にも止められなくなった流れの中で、戦う者たちの思いはどこへ向かうのか。そして、その先にどのような未来が待ち受けるのか――。
どことも知れない深い闇に、誰も聞くことのない慟哭だけが空しく響く。
『……ごめんなさい……ごめんなさい…………兄様……みんな……』
FILE 8 ― MISSION COMPLETE ―




