(5)狙われた少女
天空に輝いていた太陽が地平に沈む様は、どこに行っても大差はない。
ただ、火星でのその光景は眩し過ぎると言うべきだろう。同色の大地を照らす光が、より赤みを増すからである。
それをどう見るかは人それぞれだが、少なくともミュスカ=キルトは好ましい光景と思ってはいなかった。
「……早く夜が来ればいいのに」
太陽に背を向け、彼女はつぶやく。
彼女の顔に浮かぶ表情は、いまいましさと悲しさを孕んだものである。
それは十代の少女にしては陰のあり過ぎる表情だ。
もっとも、周りを行き過ぎる人々で、それに気付く者はいない。
不可解な事件が頻発する影響か、近しい者にさえ気を配れる人間が少ない世の中である。
もちろん、それに対してミュスカが憤りを感じることはなく、今の陰鬱な表情の理由にはならない。
ふと、雑踏の騒音に紛れて微かな電子音が聞こえてくる。
手にしたカバンから漏れる携帯端末の着信音だ。
ミュスカは手早くスクリーンを開くも、すぐにその眉が不機嫌そうにつり上がった。
「……なんだってのよ」
無造作に彼女は、スクリーンを閉じる。
内容を確認もせずにまたカバンへと放り込む様子は、その動作に慣れてしまった印象すらある。
わずかに怒りを滲ませ、ミュスカは歩速を早めた。
人の波を押し分けるようにして進む彼女に、驚きや非難の視線が入り混じる。
その中に、ひとつだけ異なる鋭さをもって彼女を見つめている目があった。
「あの小娘でいいのか?」
道端に停まった古めかしい車の中で、スキンヘッドの男が携帯端末につぶやいた。
筋肉質の身体を、黒のボロ革ジャケットに包んでいる。その瞳には、荒事に慣れた人間の鋭い輝きが宿っていた。
わずか遅れて、低い男の声が端末から返ってくる。
『そうです。ですが、急がないように。目撃者がいると面倒なことになります』
「わかった。まぁ、仮にいたとしても口を封じるのはわけないんだがな……」
『事を荒立てるような真似は、やめてもらいたいものですね』
「ふん……世の中には予期せぬ事態ってのがあるんだぜ」
口元を歪め、スキンヘッドは野卑た笑みをこぼした。
同調するかのように、車内に耳障りな笑い声がこだまする。
似たような雰囲気を持つ男たちが数名、シートであぐらをかいていた。
額に傷を負った者、ひげ面の小汚い男、そして小太りな小男――およそまともに見えない人間の集まりであった。
「まぁ、スポンサー様がそう言うなら、従っておこうか。ところでもう一度確認しておくぜ。娘は生かしたまま連れて行けば問題ないんだったな?」
『ええ』
「じゃあ、別に傷がついても構わないってことだ」
『……なにが言いたいのです?』
「なぁに……確認だよ。確認……女をさらうとなりゃ、いろいろあるだろう?」
スキンヘッドの意味ありげなセリフに、再び車中が笑いに包まれた。
男の舌打ちしたような音が、その中に入り混じる。
「おっと、こんなことやってると見失っちまうな。ま、そういうわけだ。あんたは気にしないで待っててくれや」
『待ちなさい! まだ話は……』
わずかに怒気をはらんだ男の声を断つように、スキンヘッドは通信を切る。
すでにミュスカの姿は人込みの向こうに消えようとしていたが、彼は迷うこともなく車を発進させた。
落陽の反射光が収まり始めた頃、ミュスカの姿はレイモス郊外の公園の中にあった。
行き過ぎる人の姿はなく、喧騒よりも風の音が耳に届くようになっている。
自然岩の多い景観が寂しさを感じさせるためか、あまり人気のある場所ではない。
ただ、今のミュスカにはおあつらえ向きだったらしく、その表情は落ち着きを取り戻していた。
灯り始めた外灯の下、木製のベンチに身を投げ出すと、少女は小さく息をつく。
「……あ~あ……なんでこんなにつまんないんだろ……」
呟きながら、彼女はもう一度携帯端末をカバンから取り出した。
おぼろげに輝くスクリーンを凝視しながら、またため息をつく。
メールの着信履歴には未開封のものが数通並んでいる。
そのすべては同じ差出人からのものであった。
最新のメールを指定して、指をかける。
しかしその指はすぐに端末を離れ、宙をさまよう。
また指をかけ、そして離す。
まるでロボットのように、少女は同じ動きを繰り返す。
傍から見れば、それは実に不可解な行動であったろう。
「……よう。お嬢ちゃん、なにをしているのかな?」
ただ、ミュスカにとっては全神経を注ぎ込むようなことだったのかもしれない。
彼女は突然かけられた声に、思わず身をビクッとさせた。
そこで初めて、周囲の雰囲気が変わっていることに気付く。
「なっ……なによ? アンタたち!?」
いつの間にか、少女を囲むように数人の男たちが集まり始めていた。
皆、警戒の念を呼び起こさずにいられない容姿をしている。
思わず腰を浮かせるミュスカだが、漠然とした恐怖が全身を巡り、足がわずかに震えていた。
「まぁ、ちょいとお嬢ちゃんに用があってな。悪いが俺たちと一緒に来てもらえねぇか?」
「は? いきなりなに言ってんのよ? なんでアンタらなんかと……ナンパにしても、もっとまともなこと言ったら?」
「ふん。なかなか気の強そうなお嬢ちゃんだ。ま、こっちも簡単についてくるとは思ってねぇ」
精一杯の強がりか、彼女は声を荒げる。
もちろん、そんなことで男たちが怯むことはない。
スキンヘッドの口元が歪むと同時に、両脇にいた男たちが素早く少女の身体を押さえ込んだ。
「なっ! なにするのよ!! 変態!!」
「……ちょっと黙ってもらうぜ」
暴れるミュスカの顔面に向けて、スキンヘッドは手早くスプレーを浴びせる。
恐らくは催涙ガスの類だろう。
不意を突かれたためか、もろに吸引してしまった少女はあっという間に意識を失った。
「なんともあっけないもんだぜ。さて、お楽しみのお時間といこうか」
「待てよ。抜け駆けはなしにしようぜ」
「よく見りゃ、なかなかの上玉だ。久しぶりに楽しめそうじゃねぇか……」
男たちのぎらついた視線が、ミュスカの身体に注がれる。
理性より本能のままに生きてきた彼らにとって、少女の無防備な姿は、実に刺激的だ。
しかし、そんな彼らにスキンヘッドは睨みをきかせる。
「無駄話はやめろ……人目につかんうちに引き上げだ。こいつをどうするかは、あとで決める」
やや凄みのある声に、他の男たちは黙り込んだ。
さすがに荒くれ共を率いているだけあって、この辺りの統制は慣れた様子がある。
部下たちにミュスカを車に押し込むよう指示し、自身は運転席へ乗り込もうとした。
しかし、そんな彼の耳に届いたのは、予期しない声である。
「待て」
思わず、その場にいた者たちの動きが止まった。
たった一言の中に、恐るべき圧力のこもった声であった。
それは声が大きいとかでなく、声そのものの中に有無を言わせぬ存在感があったと言うべきか。
心臓をわし掴みにされたような戦慄に、男たちの表情は凍りつく。
「ずいぶんと強引な手口だな……その娘をどうするつもりだ?」
いつの間に現れたのだろうか、岩陰に一人の男の姿がある。
薄暗くなり始めた世界の中にも、その容姿はよく映える。
燃える赤の髪と、煌めく黄金の瞳を持つ男だ。
言わずと知れたソルド=レイフォースである。
「ふん……おめぇの知ったことじゃねぇ」
やや遅れて、スキンヘッドはソルドを睨み返した。
そこには一瞬、不覚を取ってしまったことへの怒りも滲み出ていただろう。
しかし、そのあとの指示は素早い。
剣呑な空気をまといながら、男たちがゆっくりと青年を取り囲んだ。
「おめぇこそ、こんなとこにノコノコ現れた不幸を呪うんだな。五体満足で帰れると思わねぇことだ」
「そうか……ならばこれ以上話すこともあるまい」
しかし、ソルドの声は変わらずに淡々としている。
人外の者を相手にしている彼にとって、目の前の男たちなど取るに足らない存在だ。
男たちがその事実を認識できなかったのは仕方のないことだが、不幸なことではある。
こらえ性のないひげ面の男が拳を振り上げた瞬間、彼らはそれを身をもって知ることとなった。
「ぶっ飛び……ごうわっっ!!」
ひげ面の男が突然十メートルほど吹き飛んでいた。
地面を激しく転がり、近くの木にぶつかって停止する。
骨でも折ったのか、右腕を押さえて悶絶している。
「こ、この野郎!!」
気色ばんだ男たちが、一斉にソルドに襲いかかる。
しかし、彼らの攻撃が目の前の青年に及ぶことはなかった。
ある者は腕を取られて投げ飛ばされ、ある者は無造作な蹴りを食らって吹き飛ばされる。
ものの数秒で、その場には男たちの無様な姿が転がっていた。
死んではいないが、しばらくはまともに動くこともできないだろう。
「どれほど腕が良くとも、ただの人間に私の相手は務まらん」
ソルドは冷たく告げると、そのまま車まで行き、ミュスカの身を起こす。
だが、そこで彼は別のエンジン音が遠ざかっていくのを聞いた。
視線を向けると、黒ずくめの車が視界の彼方に消えようとしている。
(仲間……いや、違うな。恐らくは監視か……いったい、なぜ?)
彼の頭に、ひとつの疑問が浮かぶ。
それを考えるより先に、傍らのミュスカが身じろぎする気配を見せる。
ソルドはその頬を軽く張った。
「大丈夫か?」
「……ん、んん……!?」
目を開けた少女は、しばしなにが起こったのかわからない様子だったが、すぐに気がついたように甲高い声をあげた。
「なっ! アンタなんなのよ!? 離してよ! この変態!!」
「落ち着け。私は君をどうこうするつもりはない」
素早く身を離し、ソルドは害意のないことをアピールする。
ミュスカはいまだ警戒を解かないものの、彼が先ほどの男たちの仲間でないことは察したようだ。
そのまま車から降りた途端、彼女は目の前に広がっている光景に息を呑む。
「え? こ、これって……アンタが……やったの?」
少女の問いに、ソルドは静かに頷くのみだ。
実際に男たちを叩きのめす場面を見られなかったのは、幸いだった。
下手をしたら一層、警戒心を強められていただろう。
成り行きとはいえ、一般人の前で軽々しく力を振るうものではないからだ。
「災難だったようだが、怪我もなくなによりだ。今後、一人歩きの時は気をつけるがいい」
内心で反省しながら、彼は速やかにその場を離れることにした。
ここで無駄に詮索されたくはなかった。
だが、少女にとっては簡単に済む問題じゃなかったらしい。
「ま、待ってよ!!」
「どうした?」
「え、えと……あ、ありがと。あと、ごめんなさい……変なこと言ったりして」
「気にすることはない」
感謝や謝罪の言葉にも淡々と対応し、ソルドは先を急ぐべく歩き始める。
そんな彼に追いすがりながら、ミュスカは強くジャケットの裾を引いた。
「ね、ねぇ! よければ、あたしとお茶しよっ!! 奢るから!!」
「む……君と? なぜだ?」
「だって助けられてお礼しないわけにはいかないじゃない。それに……」
「それに?」
「アンタ、いい男だから!!」
「な、に……?」
呆然としたソルドの隙を見逃さず、ミュスカは彼の腕に取り付いてしまう。
先ほどまでと打って変わったような可愛らしい笑顔は、彼女本来の姿だろうか。
無下に断るわけにもいかず、おぼつかない足取りになりながら、ソルドは視線をさまよわせた。
(うむ……参ったな。まさかこんなことになるとは……それにしても……)
女性の扱いがうまくない彼にとって、ミュスカのような娘は苦手な部類だった。
しかも赤の他人とお茶などしようものなら、ルナルは間違いなく激怒するだろうと思う。
それでも彼女の誘いを断ろうと思えば、できたはずだ。
ソルドが誘いを断れなかった理由――それは先ほどから引っかかっている小さな疑念からだった。
(奴らはなぜ、この娘を誘拐しようとしたのだろう? 監視がついているということは、なにかの目的があってのことだと思うのだが……)
彼の推測が当たっていれば、ミュスカを狙う者が続けて現れる可能性は高い。
できれば叩きのめした男たちから情報を聞き出したかったが、監視されていたからには、あまり詳しい情報を与えられていないだろう。
ならば、ここで彼女を一人にしてしまうことは得策ではない。
少なくとも安全な場所に着くまでは、一緒にいる必要があると思った。
「あのね、この先にとってもおいしいスイーツの店があるの! ちょっと感動もんなんだから!!」
傍らで嬉しそうに笑う少女の姿を見て、ソルドはわずかに嘆息した。




